第25話
数日のうちに、エストラの寒さはひとつ深くなった。
午後の通りを抜ける風は、古いマントの隙間を迷わず見つける。三度目に首元を押さえたところで、エルシアは服屋へ入った。
選んだのは、飾りの少ない濃い灰色のコートだった。膝近くまで丈があり、袖口にも風が入りにくい。肩を回すと少し重かったが、旅の邪魔になるほどではない。
「あったかい?」
足元でルルが尋ねた。
「うん。これなら、風と相談しなくて済みそう」
「風、聞かない」
「だいたいそうだね」
店員が背中の縫い目を確かめ、前を留める木のボタンをひとつずつ掛けてくれた。新しい布地にはまだ店の乾いた匂いが残っている。外へ出た時、いつもなら肩から入り込む冷気が、今度はコートの表面を滑っていった。古いマントは小さく畳み、館へ持ち帰れるよう包んでもらった。
店を出たあと、一人と一匹は通りの向かいにある文具店へ寄った。師へ手紙を書くつもりだった。旅立ってからもうずいぶん日が経っている。
棚には羽根ペンが太さごとに並び、ガラス瓶のインクが窓の光を透かしていた。中でも青黒いインクは、ふたを閉めていても花と木の皮を混ぜたような香りがする。
「きれい。おいしい匂いじゃない」
「インクだからね」
値札を見たエルシアは、小瓶を静かに棚に戻した。香りまで紙に残る品らしいが、手紙を書くのに必ずしも必要ではない。代わりに、手になじむ羽根ペンを一本と、替えのペン先を三つ選ぶ。
「そちらは選ばないのですか」
背後から聞き覚えのある声がした。
ユリウス・ヴァルトが、棚の端で青黒い小瓶を見ていた。今日は濃紺の礼服の上に地味なコートを着ている。それでも、店主の背筋が急に伸びたので、ただの客には見えていないようだった。
「少し高いから」
「正直なお答えですね」
「総督は、文具店にも一人で来るんだね」
「必要なものがあれば。もっとも今日は、先日の対話のお礼にちょうどよい品が見つかりました」
ユリウスは青黒いインクを二瓶、会計台に置いた。
「二瓶も?」
「先日の対話への礼です。答えを買うつもりはありません」
「難しい問いに、もっと難しい問いを返した礼?」
「ええ。おかげで、机の書類を見る目が少し変わりました」
「それなら、あなたが使ったほうがいいんじゃない?」
ユリウスはしばらく小瓶を見てから、穏やかに首を振った。
「私が使えば、また仕事を増やしてしまいそうです。ベルフルール館へ届けてもらいましょう」
その理屈はよく分からなかったが、店主はもう包み紙を用意していた。エルシアは押し問答をやめ、礼だけを伝えた。
館へ戻ると、広間が妙に静かだった。
「ルル?」
返事はない。階段の脇に置いた籠から、エルシアの薄手の上着がなくなっている。
衣擦れの音は、客間からした。
扉を開けたエルシアは、その場で足を止めた。
上着の襟から、半透明の頭が突き出していた。丸い体を床につけたまま、上半分だけを細く伸ばしている。顔らしき面には浅いくぼみが二つあり、その下で口の線が頼りなく揺れていた。
左右には短い腕もある。けれど、手の先は丸く閉じ、指は一本もない。上着の裾より下は、いつもの丸いスライムのままだった。脚はなく、立っているというより、服の中から上半身だけを持ち上げている。
窓の光が透けるたび、頭の厚みは場所によって違って見えた。顔では片方のくぼみが少し高く、口の端は震えている。人の姿になったのではない。それでも、丸い輪郭しか作れなかった朝より、何をまねようとしているかははっきり分かった。
『……急がなくていいよ』
エルシアは目を見開いた。
ルルが言葉を話せることに対してではない。驚いたのは、今の短い一言が、エルシア自身の声色によく似ていた。
「私の声を、まねたの?」
ルルの頭が得意そうにふくらむ。
その拍子に、右の頬がとろりと下がった。
「あ」
今度は、いつものルルの声だった。
エルシアは慌てて支えようとしたが、短い腕が先に襟の内側に沈んだ。口が斜めになり、頭の片側がゆっくり肩に流れる。数分もたたないうちに、上着は床に落ち、その中から丸いルルが転がり出た。
「できた。ちょっと」
「うん。頭と顔と、腕。それに声も」
「手もあった」
「丸い手だったね。服の形をまねたの?」
「ちがう。ルルの中で、頭と腕の形、探した。服は目印。指、あとで」
ルルはもう一度伸びようとして、すぐにふるふる震えた。
エルシアは上着を拾い、ルルのそばに腰を下ろす。
「今日はここまでにしよう。誰かに見せるために、無理に形を作らなくていいよ」
「家なら、する?」
「家なら、失敗しても床が受け止めてくれるからね」
ルルが床に広がった。床が頼りになるか確かめているらしい。
夕暮れ前、エルシアはもう一度町へ出た。仕立て屋で、ルルの丸い体にも掛けられる小さなマントと布を選ぶ。布は肩にしたい場所に載せても負担にならない柔らかさで、腕にしたい部分に垂らせば、重みのかかる向きも分かりやすい。
館へ戻り、さっそく布を掛けてみると、ルルは右側だけを長く伸ばした。
「そっちは腕かな」
「肩」
「肩は、もう少し上だね」
「むずかしい」
「急がなくていいよ」
ルルはぴたりと止まり、いつもの声で言った。
「それ、さっきルルが言った」
「私の声でね」
「エルシアも、まねした」
「元は私の言葉なんだけどな」
夜になると、文具店の使いが小さな包みを届けに来た。中には青黒いインクが二瓶と、ユリウスの短い書き付けが入っている。先日の対話への礼であり、返事を求める品ではない、と改めて記されていた。
エルシアは包みを受け取った。羽根ペンと替えのペン先、インク二瓶、小さなマントと布は、旅の荷にはせず、館内の棚にしまった。古いマントも畳んで保管し、代わりに厚手のコートを今後の旅支度に加えた。
暖炉に火を入れたあと、エルシアは食堂の卓に紙を広げた。
ルルは小さなマントを身につけ、柔らかな布を肩の目印にして、短い腕と顔を作っている。指のない手でインク瓶を両側から挟む姿は危なっかしいが、瓶は動かなかった。
「支えられる?」
「ルル、瓶の家」
「倒さなければ、それでいいよ」
新しい羽根ペンを青黒いインクに浸し、エルシアは師への手紙を書き始めた。
旅立ってから出会った霧のこと。忘れられた聖所で、ルルと一緒に旅をするようになったこと。エストラで館を借り、壊れた塀を直し、町の人々と暮らしていること。
盗みをはたらき、その証拠を消そうとした神官のことも書いた。命を作ろうとして木に形を彫り、最後には生まれたものを森へ帰した職人のことも。自分の旅が、いつから一人と一匹の旅になったのかは、うまく一行に収まらなかった。
そして、長く生きる方法を求める地方総督と出会ったこと。答えを渡せない代わりに、限られた時間で何を残したいのか尋ねたこと。
青黒い文字が増えるにつれ、紙に移ったほのかな香りが、薪の匂いに混じっていく。師なら余白に短い注意を書き込みそうだと思い、エルシアは少しだけ行間を広くした。
書き進めるうちに、インク瓶が少し傾いた。
ルルの頬がまた垂れ、短い腕が布の下に沈んでいく。エルシアが瓶を受け取ると、頭の輪郭もゆっくり崩れた。最後には小さなマントだけが卓に残り、その下から丸い体がぷるりと抜け出す。
その時、羽根ペンから小さな羽毛がひとつ抜け落ちた。
ふわりと落ちる羽毛に、ルルの全身が一度に傾く。羽毛が暖炉からの暖気に流されると、丸い体を伸ばして追い、縮んではまた反対側へ回り込む。捕まえようとしたところで羽毛は体の上を滑り、今度は背中に当たるあたりを大きく波打たせた。
「ルル、後ろ」
「後ろ、どこ?」
「今は全部かな」
エルシアは笑い、続きを書いた。
ペン先が紙をこする音と、薪のはぜる音。そこへ、ルルが羽毛を追って卓の下を行き来するかすかな音が重なる。手紙はずいぶん長くなったが、急がず最後の一行まで書き上げた。
書き上げた手紙を封もせず卓に置いたまま、エルシアは丸い家族に尋ねた。
「次は、どんな魔法を覚えてみたい?」




