第28話
封蝋が固まるまで、エルシアは指先で封筒の端を押さえていた。
宛名には、山にいる師の名を書いた。書き上げてから数日、机の上に置いたままだった手紙だ。赤い蝋が冷えたのを確かめ、革の鞄のいちばん上に収めた。
その下には、師から受け継いだ記録と古い魔女の印、木のカップ。銀貨は、残りの礼金、商人たちからの返礼、警備隊からの賞金に分け、三つの小袋に入れた。蜜蝋のろうそく三本、古いランタン、館の鉄の鍵、燃え残った赤い羊皮紙の断片もある。厚手のコートは、すぐ着られるよう椅子の背に掛けてあった。
羽根ペンと替えのペン先、青黒いインク二瓶、絵の具と絵筆、厚い毛布、小さなマントと古いマント、それに布は館に残した。荷を増やせば安心が増えるとは限らない。
鞄の留め具を閉じたところで、玄関の扉を叩く音がした。
扉の外に立っていたのはラウルだった。足元には籠がひとつあり、赤みの濃い冬リンゴが布の隙間からのぞいている。
「北門近くの農家からです。今朝のうちにベルフルール館へ届けてほしいとのことでした」
「ありがとうございます。ちょうど出発するところでした」
エルシアが籠を受け取ると、甘く冷たい匂いが広がった。ルルはすぐに寄ってきたが、飛びつかず、籠の縁まで丸い体を伸ばした。
「冬の匂い。あまい冬」
「一個だけ分けて、残りは館に置いていこうか」
「館、リンゴを守る?」
「帰るまでね」
エルシアは一個を切り分け、ラウルにも勧めた。エルシアとラウル、それにルルで、立ったまま薄い一切れずつ食べる。冷えた果肉は硬く、噛むほど甘かった。ルルの体の中を赤い皮がゆっくり沈み、途中でふっと消えた。
食べ終えると、エルシアは乾かしておいた絵に厚紙を添え、包装紙で包んでラウルに差し出した。紙の上には、少し得意そうに傾いた丸いルルがいる。
「もう一つ、お願いしてもいいですか。これを総督官邸のユリウスへ。先日、毛布をいただいたお礼です」
ラウルは包みの上下を確かめ、両手で受け取った。
「本日、私が官邸へ届けます。折らずに、ご本人に渡せばよいのですね」
「はい。お願いします」
「承りました」
包みはラウルの腕に収まり、リンゴの籠は館の台所に残された。
玄関へ戻ると、ルルは革の鞄のほうへ体を向け、それから閉じた扉へ向き直った。
「旅は、山へ行くこと?」
「それも旅だね。でも、道で会う人と同じ時間を過ごすことも、きっと旅だよ」
「同じ時間、どうやって分けるの?」
「同じ荷車に乗ったり、同じ場所で休んだり」
ルルの輪郭がぴんと尖る。
「同じごはんも?」
「それもあるね。席を譲ってもらったら、今度は誰かに譲ることも」
「旅、いそがしい」
「急がなくていいよ。一つずつだから」
納得したのか、ルルは小さく弾んだ。エルシアはコートを着て鞄を背負い、一人と一匹で館を出た。
町を離れてしばらく歩くと、枯れ草を積んだ荷車が後ろから追いついた。一頭の牛が引いている。手綱を握る老人が、荷台の空いた端を顎で示す。
「山道の分かれ目までなら乗せてやる。そいつは揺れても平気かね」
「ルル、揺れるの得意」
突然の返事に老人は目を丸くしたが、すぐに笑った。
「そりゃあ、牛より頼もしい」
車輪が石を踏むたび、ルルは荷台の枯れ草と一緒に上下した。老人はぬかるみの場所を教え、エルシアは傾いた荷を押さえ、緩んでいた縄を結び直した。
途中、小さな橋の手前で牛が足を止めた。流れの音に驚いたらしい。老人がなだめる間、エルシアは荷台から降り、轍に落ちた枝を道端に寄せた。ルルも隣で丸い体を大きく揺らし、牛の注意を引く。牛はしばらくルルを見たあと、何事もなかったように橋を渡った。一人と一匹も橋を渡って荷台に戻り、やがて分かれ目で荷車を降りた。
「ルル、牛と時間を分けた」
「道も少し分けてもらったね」
「助かったよ」と老人は手を上げた。「山の手前は風が強い。日が暮れる前に宿に入りな」
荷車を見送ったあとは、二本の轍が残る街道を歩いた。
昼を過ぎた頃、鈴の音と一緒に隊商が追いついた。隊商は、布と陶器を積んだ四台の荷車を連ねていた。護衛はエルシアの行き先を聞くと、山麓の集落まで列の中を歩くよう勧めてくれた。
一人と一匹は最後尾に加わった。休憩では、商人が黒パンとチーズを切り分け、皆に回した。ルルは自分の分をすぐに飲み込まず、隣の御者が食べ始めるまで待った。
荷車の端に一人分の席を空けてもらうと、エルシアはその席を足を痛めた年配の巡礼者に譲った。そしてルルは、巡礼者の荷物に雨粒が当たらないよう、丸い体で布の端を押さえた。大げさな礼はなく、休憩のたびに水差しが先に回ってくるようになった。
「同じ時間、いま分けてる」
「そうだね」
「チーズも分けてる」
「そっちは、もうなくなりそうだけど」
ルルの中で白い欠片が慌てたように沈んだ。向かいの商人が吹き出し、次の一切れを半分に割った。
道が上りに変わるにつれ、空気は薄く冷たくなった。隊商とは山麓の集落で別れ、教えてもらった石畳の道をさらに進んだ。
夕暮れにたどり着いたのは、巡礼路沿いの最後の宿だった。低い石壁の上に勾配の急な屋根が載り、軒下には旅人の濡れたマントが並んでいる。ここから先は、アルヴェン山岳修道院へ続く山道だけだ。
エルシアは一泊分の宿代を払い、狭い客室の扉を開けた。ルルは寝台に飛び乗らず、窓辺で丸くなった。
「今日は、牛と人と、パンとチーズ」
「たくさん分けたね」
「明日は山を分ける?」
「山道は譲り合って歩こうか」
窓の外では、最後の明るさが山の端から消えていった。
◇
同じ日の午後、ラウルは包みをエストラ総督官邸へ届けた。
ユリウスは執務机の上で包装紙を解き、しばらく無言で絵を眺めた。そこにいるのは、半透明で丸い、小さな旅の相棒だ。顔はない。それでも、あの日、応接室で見たときと同じく、こちらの言葉を待っているように見えた。
「返礼をいただくとは、ありがたいことです」
用意させた木製の額に、ユリウスは自分の手で絵を納めた。机の正面ではなく、書庫と備蓄庫へ続く扉の間に掛けた。
額を掛け終えた時、まだ額に触れていた指先に、ごくかすかな震えが伝わった。床板のきしみとも違う。続いて、乾いた草と土を混ぜたような匂いが、ほんの一瞬だけ鼻をかすめた。
ユリウスには、それが何の気配かは分からなかった。絵の具に混じった透明な一滴が、ルルがムギトカゲを追う時に丸い体から発していたかすかな振動と匂いだけを、薄くまねていたのだ。
絵そのものは動かない。描かれたルルは、少し得意そうに傾いた姿のまま額に収まっていた。
その夜、書庫の棚の裏に潜んでいた手のひらほどのムギトカゲが、廊下を走って外へ逃げた。備蓄庫でも、穀物袋をかじっていた二匹が扉の隙間から姿を消した。見回りの者が首を傾げるほど、あっさりと。
それから書庫の紙に新たな歯形がつくことはなく、備蓄庫の袋も破られなくなった。
翌朝、その報告を受けたユリウスは、額の中の丸い姿に小さく頭を下げた。
「実に、働き者の絵ですね」




