第17話
巨大な頭の影が、ベルフルール館の窓へ向きを変えた。
次の瞬間、塀の上から長い腕が伸びた。五本の指らしきものが屋根の縁をつかみ、石板をもう一枚割る。
月明かりに照らされた指は、人の皮膚ではなかった。細い木を芯にして、乾いた藁を麻布で包み、指の形を整えてある。
「人じゃないね」
「中も、違う」
ルルが床へ薄く広がった。庭から伝わる振動を全身で確かめ、すぐにエルシアの足元へ戻る。
「硬い。でも、細いものがいっぱい。地の魔力がくっついてる」
巨体が塀をまたいだ。
頭と同じく、胴も腕も藁と麻布で覆われている。内側には細い木を何本も組んだ枠があり、本来なら自重で折れそうな体を支えていた。地の魔法が、細い木を不自然なほど硬くしていた。
庭へ落ちた足が、地面を深くへこませた。
直後、最初の番人とは反対側の塀から、もう一つの頭が現れた。
「増えた」
「隠れていたんだね」
「減る予定は?」
「今から減らそうか」
エルシアは広間から庭へ続く扉を開けた。冷たい夜気と、古い藁の乾いた匂いが流れ込んでくる。
二体の番人が、同時に館へ体を向けた。
一体目が腕を振り下ろす。エルシアが横へ退くと、麻布に包まれた拳が扉の前の石を叩いた。石は割れなかったが、重い音が館の中まで響く。
拳を引き抜く間にも、巨大な頭はエルシアの動きを追っていた。目も口も描かれていない麻布の顔が、迷わず同じ方向へ回る。痛みも疲れも知らず、館へ近づくことだけを命じられているようだった。
エルシアが右へ歩くと、一体目も右へ向きを変えた。二体目は反対から庭へ降り、逃げ道を狭める。足の下で敷石が鳴り、戸口のルルが体を低くした。
二体目は塀を越える途中で肩を引っかけた。木枠がきしみ、麻布の隙間から藁がこぼれる。それでも枠は折れない。地の魔法が、細い木を無理に支えていた。
「ルル。胸の辺りで、魔力が集まっている場所は分かる?」
ルルの体が小さく震えた。半透明の体内に、庭から届く振動が細い波となって広がる。
「ある。二つとも、真ん中に薄いもの。ぱたぱたしてる」
「紙かな」
「紙が大きいのを歩かせるの?」
「紙に書かれた術式が、ね」
「紙、働きすぎ」
一体目の腕が再び上がった。
エルシアは、麻布からこぼれた藁を見た。雨を吸った重さも、青い匂いもない。よく乾いている。麻布も木枠も同じだった。
硬くしているのは地の魔法だが、材料まで石に変わったわけではない。
「下がって」
ルルが扉の内側へ跳ねる。
エルシアは片手を上げ、指先を二体へ向けた。
橙色の火が、ほんの一瞬だけ庭を照らした。
炎は二体の胸から肩、腕、頭へ一息に走った。乾ききった藁と麻布が音を立てて縮み、細い木枠が赤く光る。火は庭木にも館にも移らず、その場で消えた。
一体目が腕を上げた姿勢のまま傾いた。支えを失った木枠がばらばらに外れ、灰を舞い上げて庭へ崩れる。
二体目は塀へ背を預けるように倒れた。硬さを失った木の束が折れ、麻布の燃えかすと一緒に足元へ落ちた。
エルシアは庭へ手のひらを向けたまま、残った火の気配を確かめた。灰の下で小さく赤く燃えていた藁も、すぐに火が消えて黒くなった。古い館の壁にも、庭木の枝にも、火は届いていなかった。
庭が静かになった。
塀の外からも、新たな物音は聞こえない。
「二つ、減った」
「予定どおりだね」
ルルは慎重に庭へ出た。灰に触れない距離で体を低くし、二つの山を交互に眺める。
「まだ、赤いのがある」
灰の中に、赤茶色の欠片がいくつも残っていた。
エルシアは熱が引くのを待ち、指先ほどの一片を拾った。端は黒く焦げているが、中央には細かな文字と線が残っている。魔力を木枠へ流す術式だった。
以前、筆記具店で買い、寝室の境界印を作るのに使った羊皮紙の残りを広間から持ってきて、拾った欠片とともに月明かりにかざす。
色は同じ落ち着いた赤茶色だった。斜めに走る細い繊維も同じだった。
「同じ紙?」
「少なくとも、同じ種類の羊皮紙だと思う」
「寝室の紙は、歩かない」
「書いた術式が違うからね」
ルルは寝室のある二階を見上げ、それから灰へ向き直った。
「歩かない紙のほうが、いい紙」
「今夜は私もそう思うよ」
誰が買い、誰が術式を書いたのかは、まだ分からない。ただ、同じ羊皮紙を扱う店に仕入れ帳や販売記録が残っていれば、仕入れ先や買った相手を追えるかもしれない。
エルシアは燃え残った欠片を集め、館にあった粗い布で包んだ。
◇
翌朝、エルシアは塩漬けキャベツと豆のスープを温め、黒パンを添えた。
窓の外には、昨夜の灰が二つの低い山になって残っている。庭からは、女の霊が歌ういつもの旋律が聞こえていた。番人が暴れた夜を経ても、歌の調子は変わらない。
ルルはスープの器のそばで、朝日に透けていた。
「赤い紙、店に返すの?」
「見せるだけだよ。どこから仕入れた紙か、販売記録に誰の名が残っているかを確かめたいんだ」
「歩いたことも言う?」
「それも伝えようか」
「店の人、紙を隠す?」
「先に、店の紙は歩かないと説明したほうがよさそうだね」
食べ終えると、エルシアは術式の核となる羊皮紙の断片から灰を払い、布ごと革の鞄へ収めた。
鉄の鍵で玄関の扉に鍵をかけ、エルシアとルルは筆記具店へ向かった。
◇
その少し後、警備隊の詰所へ向かっていたラウルは、ベルフルール館の前で足を止めた。
塀の上部に、何本もの深い傷がある。屋根は端の石板が割れ、庭には黒い灰が積もっていた。
ラウルは玄関の戸を三度叩いた。
返事はない。
もう一度叩き、耳を澄ませた。庭から女の歌が聞こえるだけで、館の中に人の動く気配はなかった。
「お隣なら、朝早く出かけましたよ」
道の向かいで窓を開けていた女が声をかけてきた。
「若い魔女と、小さなスライムですか」
「ええ。あの一人と一匹。鞄を持って、広場のほうへ歩いていきました」
ラウルは礼を言い、もう一度、塀の傷を見た。昨夜何かがここを襲ったのなら、すぐに事情を確かめたい。
だが、詰所では朝の引き継ぎが始まる時刻だった。だからといって、隊長が遅れてよい理由にはならない。
ラウルはしばらく玄関の前で待った。通りの角から半透明の丸い姿が現れないか確かめたが、戻ってくる気配はない。
もう待ってはいられなかった。
ラウルは塀の傷と割れた石板をもう一度見上げ、警備隊の詰所へ急いだ。




