第18話
番人が灰になった夜が明け、その次の夜。
セラディウス大神殿の鐘が一日の終わりを告げても、ベネディクト・セラは自室の明かりを消さなかった。
机に置いたランプの芯は、細く絞ってある。壁に映る彼の影も、頼りなく痩せていた。
乾いた藁と麻布と細い木枠で組んだ二体の番人は戻らなかった。残ったのは、狙った魔女が滞在する館の庭で焼かれたという知らせだけだ。
「秩序を守るためです」
聞く者のいない部屋で、ベネディクトはそう言った。
危険な魔女を放置しないため。町の秩序を乱す芽を摘むため。必要な措置だった。言葉を並べるほど、指先だけが冷たくなった。
彼は机の上に片手を置き、ランプの影に意識を沈めた。今夜の術は、番人とは別のものだ。眠りと夢の隙間を通り、相手の心へ影を送り込む。
影は壁から剥がれ、音もなく床へ落ちた。
やがて、遠くの眠りへつながる感触があった。
薄い霧に沈んだ森。白い小道。その奥に、少女が一人立っていた。
影が足元へ忍び寄る。
少女は振り返った。驚いた様子はなかった。ただ、そこに落ちているはずのないものを見つけたように、静かに目を細めた。
「ここは、あなたの場所じゃないよ」
細い指が宙をなぞる。
それだけで夢の景色に一本の境界線が走り、影は向こう側から切り離された。ベネディクトの胸に冷たい衝撃が跳ね返り、椅子が石床を鳴らした。
ランプの火が揺れる。壁には、もう彼自身の影しかない。
「知られてはいない。まだ、何も」
息を整えてから、同じ言葉をもう一度つぶやいた。
だが、焼かれた番人に続き、夢へ送った影まで退けられた。
まさか、ここへ来るのではないか。
そう考えた時、ベネディクトの視線は、自室の扉へ向いた。
扉の外には、大神殿の長い回廊が続いている。
◇
その翌日の昼。
筆記具店の販売記録と羊皮紙職人の帳面を確かめ終えたエルシアは、ルルとともにセラディウス大神殿の前に立っていた。
番人の燃え跡に残っていた欠片と同じ、赤茶色の羊皮紙。斜めに走る細い繊維の並びまで一致する品は、大神殿の神官、ベネディクト・セラの名で買われていた。
記録だけで、すべてを決めつけることはできない。
けれど、訪ねるには十分だった。
「大きいね。神さま、何人いるの?」
足元のルルが、半透明の体を上へ長く伸ばした。
「数えてみる?」
「途中で分からなくなる気がする」
「私もそう思う」
一人と一匹は、開け放たれた正面扉をくぐった。
高い天井を支える柱の間には、いくつもの神像が並んでいた。旅人の杖に手を添える神、麦の穂を抱く女神、金槌を掲げる工芸の神。参拝者はそれぞれの像の前で立ち止まり、硬貨や冬の木の実を小さな皿に置いていく。
「お願いごとが違うと、神さまも違うの?」
「たぶんね」
「全部困ってる人は?」
「順番に回るんじゃないかな」
ルルは像の列を見渡し、少しだけ平たくなった。長い道のりを想像したらしい。
奥の広間では、神官だけでなく、袖をまくった町の女たちも働いていた。転んで膝を切った少年の傷を洗い、咳き込む老人の背へ毛布を掛ける。隣では、寄進されたパンを籠から取り分ける若者がいた。
少年の包帯を巻いていた女性が、ルルの視線に気づいて笑った。
「神さまが治してるの?」とルルが聞く。
「包帯を巻くのは私たち。治るのを手伝ってくださるのが神さま、ということにしておきましょう」
「神さま、包帯は苦手?」
「指が石だからね」
少年が先に吹き出した。エルシアも小さく息を漏らす。
祈る者がいて、硬貨を置く者がいる。その硬貨で包帯や薪を買い、手の空いた者が働く。大神殿は信仰を集めるだけの場所ではなかった。町の人々が、困った時に戻ってこられる場所でもある。
それは、一人の神官への疑いとは分けて考えるべきことだった。
◇
共同食堂には、豆と根菜を煮た匂いが満ちていた。
長卓には参拝を終えた老夫婦も、腕に包帯を巻いた職人もいる。空いている席へ順に座る決まりらしく、エルシアとルルは入口に近い卓へ案内された。
「セラ神官、少し詰めてください」
食事を運んでいた青年に声を掛けられ、向かいの男が顔を上げた。
きちんと整えた神官服。穏やかに見える顔。けれど、エルシアたちを見た一瞬だけ、スプーンを持つ手が止まった。
「どうぞ。窮屈でなければ」
男は丁寧に席を空けた。
「ありがとう」
エルシアは腰を下ろし、ルルはその隣で丸くなる。木の器に入った煮込みと黒パンが配られた。
ベネディクトは食前の短い祈りを済ませると、平静を取り戻したような声で尋ねた。
「巡礼の方ですか?」
「いいえ。今は市内に滞在しています」
「そうでしたか。何かお困りなら、相談を受ける者もおります。ここは、誰にでも開かれた神殿ですから」
言葉に偽りはないのだろう。少なくとも、広間で働いていた人々の善意まで偽りになるわけではない。
「神官さん、この豆、好き?」
煮込みをひと口味わったルルが、不意に聞いた。
「ええ。よく食卓に上がります」
「好きとは言ってないね」
ベネディクトのスプーンが、器の縁に小さく当たった。
「ルル」
「ルルは好き」
注意されたと思ったのか、半透明の体が少し縮む。エルシアは黒パンをちぎって、煮込みに浸した。
「あなたはルルさん、とおっしゃるのですね」
「うん。ルルはルル。こっちはエルシア」
先に紹介されて、エルシアは一度まばたきをした。
「エルシアです」
その名を聞いた瞬間、ベネディクトの顔から色が引いた。
スプーンが煮込みの中で止まる。息を吸ったまま、しばらく言葉が出てこない。
「……どうかしましたか?」
「いいえ。何も。何もありません」
二度目の否定だけが、ひどく早かった。
エルシアは向かいの男を静かに見た。販売記録に残っていた名。焼かれた番人。昨夜、夢へ忍び込んできた影。そして今の反応。
まだ、それらを結びつけて口にする時ではない。
「セラ神官」
「はい」
「食べ終わったら、少し歩きませんか。確かめたいことがあります」
ベネディクトは膝の上で拳を握り、ゆっくりと開いた。
「……ええ。もちろんです」
食堂ではスプーンが器に当たる音と、抑えた話し声が続いている。
同じ卓の人々が食事を続ける中、彼だけが、煮込みを口へ運ぶたびに喉を大きく上下させた。




