第15話
玄関の外に立つラウルは、片腕に平たい包みを抱えていた。焼き菓子らしい甘い匂いが、冷えた朝の空気に混じっている。
「昨日は留守中に失礼しました」
「いえ。どうぞ、中へ」
エルシアが広間へ案内すると、ラウルは包みを卓の端へ置いた。紙に掛けられた麻紐は、小さな花の形に結ばれていた。
「妻からです。お願いに伺うのに、手ぶらでは失礼だと言いまして」
「では、ありがたくいただきます」
ルルが卓の脚のそばから包みを見上げる。ラウルは一度そちらへ目をやり、姿勢を正した。
「今日は、エストラ都市警備隊長として伺いました。霧の怪異を退けた魔女として、あなたの知恵を借りたいのです」
「私が捕まえるのではなく、助言でいいんですね」
「はい。捕らえるのは我々の仕事です」
その答えを聞いて、エルシアは向かいの椅子へ座った。
ラウルが最初に話したのは、被害の場所だった。市の西側にある裕福な商家が二軒、その次が総督官邸の保管庫。錠は壊されず、扉にも窓にもこじ開けた跡がない。それでも銀器や宝飾品、封をした保管箱の中身が消えた。
「侵入したと思われる場所には、土のついた足跡があります。どれも壁際か、床の中央で突然始まり、同じように途切れていました」
次は時刻だった。最初の二件は、夜半の鐘が鳴ってから一刻ほど後。官邸の保管庫は、それより少し遅い。見回りが通り過ぎ、次の組が来るまでの短い間を選んでいた。
「三件目で、床へ沈んでいく人影を警備兵が見ました。追った者が剣の柄で石を叩いた時には、もう何もなかったそうです」
ラウルは持参した布袋を開き、角の欠けた灰色の床石を取り出した。
「官邸の保管庫から外したものです。魔術師に見せたところ、微かに地の魔力が残っていると。ただ、これ以上は分からないと言われました」
ラウルは石を卓には置かず、床へ下ろした。細かな土が布から落ちると、ルルの輪郭がわずかに揺れた。
「対策は試しましたか」
「セラディウス大神殿のベネディクト・セラ神官にも相談しました。地の気配を乱せるかもしれないと、塩と苦い灰を床の継ぎ目に詰めたのです」
「効かなかった?」
「ええ。犯人は塩と灰を詰めた保管庫を避け、その晩は別の商家へ入りました」
警備の人数を増やした夜には現れず、配置を戻すと盗みに入る。高価でも持ち運びに時間のかかる物には手を出さない。物音に気づいて、侵入を途中で諦めたと思われる形跡もあった。
「慎重というより、臆病です」とラウルは言った。「こちらを警戒し、危険を感じればすぐ逃げる。ですが、壁も床も止められないのでは、追い詰めようがありません」
その間に、ルルは卓の下へ移っていた。丸い体を敷物のように薄く広げ、端だけを床石に触れさせる。
「ルル?」
「静かにして。石の中に、まだ小さい揺れがある」
ラウルが口を閉じる。薪のはぜる音まで遠くなったような沈黙の中で、ルルの半透明な体に細い波が走った。床石に触れた側から中央へ進み、途中で急に消える。少し離れたところから、また別の波が戻ってきた。
「下へ行く揺れ。途中でなくなる。横から、また来る」
エルシアはしゃがみ、指先で床を一度だけ叩いた。ルルの体を丸い波が素直に抜ける。
「足跡は、いつも壁へ向いていましたか」
「いえ。壁から離れる向きです」
「入った場所と出た場所は同じ?」
「ほぼ同じです。遠くても数歩ほどでした」
「被害が出たのは、街がいちばん静かな時間だけですね」
「そうです」
エルシアは、ルルの体に現れた途切れる波を見た。犯人は地中を自由に泳いでいるのではない。地上の物音を確かめながら、短い距離ごとに進む向きを選び直している。
「地を抜ける術は、硬いものを壊す魔法ではありません。術者が、地中の構造を頭の中に思い描き、その中に自分の通る道を作り続ける術です。石の厚さや空洞の位置について、自分の見立てに確信が持てなくなれば、道は消えます」
エルシアは革の鞄から、師から受け継いだ記録を取り出した。古い留め具を外し、採石場の事故を記したページを開く。
「百年以上前、北の採石場で同じ術を使った人がいました。岩の継ぎ目から水音がして、前に空洞があると思った。その瞬間、進めなくなりました。命綱をつけていたので掘り出せましたが、地中では息も長く続かなかったそうです」
ラウルの眉間に皺が寄る。
「失敗させれば、犯人を地中に閉じ込めることになりませんか」
「だから、奥へ入ってから術を壊してはいけません。戻れる場所を一つ、わざと残します」
ラウルが取り出した市街の簡単な見取り図を、エルシアは引き寄せた。
「次に狙いそうな保管場所を警備隊で選んでください。床には修繕したように見せかけた跡をいくつかつけ、浅い場所に空の壺を埋める。危険な穴は作らなくていい。叩いた音が場所ごとに違えば十分です」
「犯人に、地中の構造が分からないと思わせる」
「はい。それから、見回りの警備兵に採石場の事故の話をさせる。地中で術が解ければ息ができなくなる、と。下見をしているなら聞くでしょう」
「聞かなければ?」
「話を聞かなくても、壺によって場所ごとに変わる振動は感じます。ルルが揺れを感じ取ったように、犯人も足元の違いを探るはずです。臆病で疑い深い人なら、地中へ入った後も思い出します」
退路として残す床際だけは音を変えない。警備兵はそこから距離を取り、犯人が戻って姿を現してから取り押さえる。地中へ剣を刺さず、穴を塞がず、待つ。
「罠に掛ける場所を決めるのも、犯人を捕らえるのも警備隊です。私は現場へ行きません」
ラウルは見取り図の余白に手順を書き込んだ。まだ半信半疑らしく、二度読み返してから紙を畳んだ。
「硬い壁ではなく、犯人自身の疑いが弱点ですか」
「硬い壁なら、厚さを測れば済みます。でも疑いは、測れないから消しにくい」
ラウルは床石を布袋へ戻し、立ち上がった。
「警備隊で場所を選びます。退路を決め、そこへ人を置く。犯人が地上へ戻ってから逮捕する。これなら試せます」
「うまくいっても、地面の中まで追わないでください」
「約束します」
玄関で一礼し、ラウルは冷たい朝の道へ戻っていった。戸が閉まると、張り詰めていた広間に薪の音が戻る。
ルルは薄く広げていた体を、元の丸い形に戻した。それから一部を細く伸ばし、卓の上に残された包みの麻紐に絡める。包みは音もなく、卓の端まで滑ってきた。
「これは、地面の下へ逃げない」
「焼き菓子だからね」
「甘い匂いは、疑わなくていい?」
エルシアは花の形の結び目をほどき、小さく笑った。
「まず半分にして、中を確かめようか」
一人と一匹の朝は、ようやくいつもの穏やかな調子に戻った。




