第14話
ルルがベルフルール館で留守番をしていた、その日の昼前。
ラウルは小瓶のリンゴ酒を包んだ布を片手に、館の玄関を叩いた。
返事の代わりに、扉の下の隙間に半透明の体が近づいてくる。
「短く話す人」
「ラウルです。エルシアさんはいらっしゃいますか」
「いない。買い物」
扉は閉じたままだった。留守番中は開けずに用件を聞くよう言われているらしい。ラウルは手にした包みを見下ろした。
「では、今日は出直します。明日、また訪ねます」
「聞いた。明日」
内側でルルの輪郭が一度丸くなった。
ラウルは玄関を離れた。相談の礼にリンゴ酒を一本というのも、軽すぎたかもしれない。とはいえ、まだ相談すらできていないのだから、重い贈り物を持ち込むのも違う。
石塀に沿って歩き、広場へ続く道に出たところで、大きな荷を背負った三人連れと行き合った。先頭は腹のあたりまである革袋を抱えた商人で、その後ろを旅装の護衛が二人歩いている。
「すみません。ベルフルール館はこちらでしょうか」
商人がラウルに尋ねた。
「今、そこから出てきたところです。あの角を曲がれば門が見えます」
「助かります。若い魔女が住んでいると聞きまして」
ラウルは足を止めた。
「エルシアさんのことですか」
「ご存じでしたか」
「隣人です」
商人の顔が明るくなり、二人の護衛も互いにうなずいた。
「では間違いありません。リーネ杉街道の霧で、私たちはあの方に助けていただいたのです」
「街道の霧を退けた旅人というのは……」
「ええ。エルシアさんです。あの方に助けていただきました」
ラウルはベルフルール館の屋根を振り返った。歌う死者のそばで暮らし始めただけではない。市へ来る前から、怪異の中に道を開き、人を連れ戻していたらしい。
「今日はお留守でした」とラウルは言った。「明日なら、会えるかもしれません」
「それなら、品を整えて明日の朝にします」
商人たちは礼を言い、荷を置いている宿のほうへ戻っていった。
◇
ラウルは手の中のリンゴ酒を見た。
助言を求める相手が、霧に迷った三人を助けた魔女だと知ったからといって、贈り物を急に豪華な品に替える必要はない。けれど、相談が終わってから礼を考えるより、頼む前にこちらの姿勢を示したほうがいい。
「明日は、もう少しきちんと整えよう」
独り言に答える者はいなかった。
同じ日の夕方、ベルフルール館では庭から歌が聞こえていた。
エルシアとルルは、豚肉と塩漬けキャベツの煮込みに黒パンを添えた、すでに用意してあった夕食を取っていた。
窓の外で、女の歌が同じ旋律を繰り返す。
ルルは歌のほうへ体の先を向けたが、前のように震えず、すぐに煮込みの器に戻った。
「歌の人も、夕食?」
「歌っているところを見ると、食事より歌が好きなのかもしれないね」
「歌は、お腹に入らない」
「聞く人には残るよ」
ルルはしばらく考えるように丸くなり、それから豚肉を一切れ取り込んだ。
「豚肉は、ちゃんと入る」
「それはよかった」
歌が庭を巡る中、一人と一匹はいつもどおり夕食を終えた。
◇
夜が深まる前に、エルシアは広間の卓に材料を並べた。
赤みの強い羊皮紙を同じ大きさに五枚切り分ける。深い青のインクに羽根ペンの先を浸し、寝室の境を示す短い言葉と、魔力を留める線を一枚ずつ記していった。
「五つ、同じ?」
卓の端でルルが尋ねる。
「置く場所は違うけど、伝えることは同じだよ。夜はここから先には入らないでください、という魔法印」
「歌の人、押し出す?」
「押し出さない。傷つけない。館にも庭にもいていい。寝室の境を越えないようにするだけ」
書き終えた青い線が乾くのを待ち、暗い金色の封蝋をオイルランプの火で柔らかくする。紙の端に一滴ずつ落とし、魔力を閉じ込めると、五枚の魔法印はかすかに温かくなった。
一枚目は寝室の扉の内側に置いた。
二枚目、三枚目、四枚目は、部屋に三つある窓の枠に一枚ずつ留める。
最後の五枚目は、寝室の壁際にある暖炉の上に置いた。火は入っていない。煙道から入り込むものがあっても、寝室の境だと分かるようにするためだ。
「扉が一つ。窓が三つ。暖炉が一つ」
ルルが体を五つの山に分けるように波打たせた。
「合わせて五枚だね」
エルシアは三つの窓を見回し、すべての魔法印が寝室の内側だけを囲んでいることを確かめた。廊下も階段も庭も、その外にある。
窓を少し開けると、冷え始めた夜気とともに、庭の歌が近くなった。淡い影はイチイの生け垣とつる薔薇の間で、いつもの動きを繰り返している。
「勝手に線を引いて、すみません。あなたを追い出したいわけではありません。ただ夜は、この寝室だけ空けてください」
影は答えない。右へ三歩進み、片腕を上げ、薔薇の前で止まった。
歌の高さも、回る速さも変わらなかった。それでもエルシアは一礼して、窓を閉めた。
翌朝、窓の外は前の日より白く見えた。石畳の端と屋根に残した苔に、薄い霜が降りている。冬祭りはまだ先だが、秋はもう深い。
エルシアは広間で目を閉じ、呼吸に合わせて魔力の流れを整えた。冷たい空気の中では、風の魔力がいつもより細く澄んでいた。
ルルも隣で体を薄く伸ばし、何かをまねようとしている。エルシアが息を吐くとルルも縮み、吸うとまた広がった。
「できてる?」
「呼吸はしていないけど、形は似てるね」
「形から始める」
そのとき、玄関の戸を叩く音が三度した。
エルシアが扉を開けると、リーネ杉街道で助けた商人と、二人の護衛が立っていた。三人とも両手に荷を持っている。
「おはようございます。街道では、本当にありがとうございました」
◇
商人が広間へ運び込んだのは、小麦粉、干しリンゴ、蜂蜜の瓶だった。護衛の一人は厚手の毛織り布を、もう一人は蜜蝋ろうそくを一束、卓のそばに置く。
「こんなにいただけません」
「あの霧の中で荷も命も失わずに済んだことを思えば、まだ足りません」
商人は革の小袋も差し出した。中で銀貨が触れ合い、硬い音がする。
「宿代と、失わずに済んだ荷の分です」
「それは多すぎます」
「でしたら、次の旅で困っている人のために使ってください」
二人の護衛もうなずいた。受け取ってもらうまで帰らない顔をしている。
エルシアは少し考え、銀貨の小袋を卓に置いた。
「分かりました。では、私からも一つずつ」
台所の薪置き場から、よく乾いた薪を一本持ってくる。その端を風で薄く切り、指二本分ほどの長さの木片を三枚作った。
「赤い紙じゃない?」
ルルが広間の卓と木片を見比べた。
「赤い羊皮紙は寝室の境を示すもの。こちらは旅に持っていく護符だよ。材料も役目も違う」
エルシアは三枚の薄い木片に、風と道の守りを表す線を一つずつ刻んだ。強い力で怪異を退けるものではない。悪天候の中で道を見失いにくくし、足元の危険に少し早く気づかせるための魔法印だ。
「お三方に一枚ずつ。旅の守りです」
商人は両手で受け取り、二人の護衛もそれぞれ首から下げられるよう紐を通した。
「礼に来て、また頂いてしまいました」
「次の街まで無事に着いたら、それで十分です」
三人は何度も頭を下げ、館を後にした。小麦粉、干しリンゴ、蜂蜜、毛織り布、蜜蝋ろうそくは館で使う品として残り、返礼の銀貨が入った小袋はエルシアが預かることになった。
門の外へ消える背中を見送った直後、もう一度、玄関の戸が叩かれた。
「二回目」
ルルが扉へ向きを変える。
エルシアが戸を開けると、そこに立っていたのはラウルだった。




