第13話
朝の食卓で、ラウルは冷めた茶を前にしたまま、ほとんど口をつけていなかった。
向かいに座るマルタが黒パンをちぎり、夫の皿に置く。
「食べないなら、せめて悩んでいることを話して」
「話せるところまでなら」
「私にまで報告書みたいに言わなくていいのよ」
ラウルは一度黙り、窓の外へ目を向けた。石塀の向こうには、ベルフルール館のイチイの生け垣が見える。数日前まで伸び放題だった枝は整えられ、朝の風を受けて静かに揺れていた。
「庭に現れる死者を相手にしている」
「それで?」
「縄は掛けられない。鉄の輪も役に立たない。声をかけても、こちらの都合どおりに止まるとは限らない。普段の捕縛の手順が通じないんだ」
ラウルの口調は平らだったが、茶のカップをつかむ指は動かなかった。
「だから昨日、隣の魔女に話しかけようとしたのね」
「人の多い場所でする話ではない」
「それはそうね。でも、話さずに帰ってきたら、相談にもならないわ」
「相手は若い旅人だ」
「歌う死者の隣で眠って、庭を片づけて、近所の輪に入った若い旅人よ」
マルタは自分の茶を一口飲んだ。
「歌う死者のいる館で、平然と暮らしている人でしょう。あなたは今、困っている。なら、隣の扉を叩いて相談する。それで足りるわ」
「断られるかもしれない」
「その時は、断られてから悩んで。まだ起きてもいない心配まで抱え込まないでちょうだい」
ラウルはようやく黒パンへ手を伸ばした。
「今日、もう一度訪ねてみる」
「ええ。今度は話しかけようとするだけで終わらないようにね」
◇
その日の朝、エルシアはベルフルール館の二階で、寝室の扉と窓を順に見ていた。
庭から歌が聞こえるだけなら、追い払う理由はない。問いかけに答えず、同じ動きを繰り返す影だと分かってからは、ルルも以前ほど輪郭を震わせなくなった。
けれど、一緒に暮らすことと、どこへ入っても構わないことは別だった。
「ここに魔法印を置こうかな」
寝台に敷いた寝具の上で、各地の風土をまとめた本の挿絵を見ていたルルが、体を丸く盛り上げた。
「歌の人、消すの?」
「消さないよ。館から追い出す魔法印でもない」
「じゃあ、何する?」
「ここから先は私たちの寝室です、夜は入らないでください、と伝えるための線だね」
エルシアは扉の枠を指でなぞった。庭の影が館へ入れるのか、今も確かめられてはいない。それでも、先に境を示しておけば、互いに困らずに済む。
「庭は、歌っていい?」
「もちろん。廊下まで来ても、それだけなら構わない。寝室だけは別にしたいかな」
「寝てるエルシア、話し合えない」
「よく知ってるね」
「いっぱい呼んだ」
最初の夜のことらしい。エルシアは小さく笑った。
境を示す魔法印には、言葉と魔力を留めやすい紙がいる。羽根ペンと色付きのインク、魔法印を閉じる封蝋も必要だ。館にある古い記録を使うわけにはいかないので、材料を町で買うことにした。
「ルルも行く?」
「今日は留守番する。本の味、目で見る」
「昨日より上手な言い方になったね。誰か来たら、扉を開けずに用件を聞いてくれる?」
「聞く。名前も?」
「できればね」
ルルは任された役目を確かめるように、玄関のほうへ体の先を伸ばした。
◇
午前の広場には、旅芝居の一座が小さな舞台を組んでいた。
柱の間に城門を描いた幕を張り、色あせたマントを着た役者が、古い騎士の物語を演じている。騎士は長い戦から戻り、預かった銀の鍵を主君の娘へ返そうとしていた。ところが、城門を守る役人は鍵を見ても騎士本人だと信じない。
「名を証すものはあるか!」
「この傷と、この鍵では足りぬか!」
「傷なら私にもある!」
役人役が袖をまくると、そこには炭で描いた大きな傷があった。子どもたちが笑い、騎士役が本気で困った顔をする。
エルシアも足を止め、一場面だけ見るつもりが、騎士が城門を通るところまで見届けた。最後は主君の娘が、騎士のひどい歌声を覚えていたおかげで本人だと分かる。
「名誉より歌が役に立つこともあるのか」
隣にいた老人が感心したように言い、連れの女が「下手な歌なら忘れにくいからね」と返した。
舞台にもう一度拍手が起きたところで、エルシアは広場を離れた。
筆記具店の中には、紙と乾いた羽根の匂いが満ちていた。壁には巻いた羊皮紙が太さごとに並び、棚には小瓶に入ったインクと封蝋が色別に置かれている。
「魔法印を書ける羊皮紙を探しています」
店主は特に驚く様子もなく、何種類かの紙を卓に広げた。
「細かい文字ならこちら。長く貼っておくなら、少し厚いものがいいでしょう」
その中に、赤みの強い羊皮紙があった。祝祭の招待状や瓶の札にも使われる店の定番で、表面は落ち着いた赤茶色をしており、光にかざすと細い筋のような独特の繊維が斜めに見えた。
エルシアは端を指で曲げ、すぐに戻る硬さを確かめる。
「これをください」
「何枚にします?」
「まずは一包み」
店主は紙の角をそろえ、薄い布で包んだ。
次に、エルシアは羽根ペンを一本選ぶ。店主が差し出した紙片に線を引き、先が引っかからないことを確かめた。インクは深い青を選び、小瓶の栓を指で押さえて、緩んでいないか確かめる。封蝋は暗い金色の細い棒を二本、紙と一緒に包んでもらった。
「ずいぶん色を使う印ですね」
「命令する印ではないので、見て分かるほうがいいんです」
「なるほど。夜中に踏んだら困る線ですか」
「踏むものではありませんが、考え方は近いです」
代金を払い、包みは革の鞄に入れず、腕に抱えた。これは館で使う材料だ。旅の荷物にするつもりはない。
食料品店では夕食分の豚肉を量ってもらい、塩漬けキャベツと小さな黒パンも買った。肉の包みから匂いが漂っているのに、ルルがいないのは、少しだけ不思議な感じがした。
◇
昼を過ぎてベルフルール館へ戻ると、玄関の内側で待っていたルルが、扉の隙間に体の先を寄せた。
「エルシア。客、来た」
エルシアは鉄の鍵で錠を開け、材料と食料を持って中へ入る。
「どんな人だった?」
「隣の庭の人。前に、塀の向こうで話した。昨日も路地にいた」
「ラウルさんかな」
ルルの輪郭が横へ揺れた。
「前に聞いた。今日は聞いてない。短く話す人」
「それなら、たぶんラウルさんだね。何て言っていたの?」
「今日は出直します。明日、また訪ねます」
ルルはそこで少し平たくなった。
「ルル、ちゃんと聞いた。でも、用件は言わなかった」
「十分だよ。留守番ありがとう」
「追いかける?」
隣家までは、石塀を一つ隔てるだけだ。呼べば届く距離かもしれない。
それでもエルシアは首を横に振った。
「明日来ると言ったなら、明日聞こう。今から追いかけたら、出直した意味がなくなるからね」
「出直すの、むずかしい」
「待つほうは簡単だよ」
買ってきた羊皮紙、羽根ペン、色付きインク、封蝋は広間の卓に置いた。魔法印を記すのは、明るい時間に落ち着いて行うことにする。
◇
夕方、エルシアは台所の炉へ薪を入れ、鉄鍋を火に掛けた。
買ってきた豚肉を食べやすい大きさに切り、鍋の底で表面を焼く。脂の香りが立つと、ルルが台所の入口から少しずつ近づいてきた。
「留守番の匂いより、こっちがいい」
「留守番には匂いがないからね」
「客は、外の風の匂い」
「ちゃんと覚えていたんだ」
肉に焼き色がついたところで水を注ぎ、塩漬けキャベツを加える。固く巻かれていた葉が湯の中でほどけ、酸味を含んだ湯気が上がった。
「もう食べられる?」
「まだ。豚肉が柔らかくなるまで待とう」
「待つほうは簡単って言った」
「さっきの私に訂正させたいな」
ルルは鍋の前で丸くなり、煮える音に合わせて輪郭を小さく揺らした。
やがて豚肉に木の匙がすっと入るようになる。エルシアは煮込みを木の器によそい、黒パンを切って添えた。ルルの分は少し冷ましてから、浅い器に入れる。
「赤い紙、今日は書かないの?」
「今日は材料を買うところまで。明日、光のあるうちに作ろう」
「客も明日」
「そうだね。明日は扉が忙しくなりそうだ」
ルルは豚肉を一切れ包み込み、満足そうに丸くなった。
「扉は食べない。豚肉、食べる」
「その順番でお願いします」
一人と一匹は黒パンを煮汁に浸し、夕食分の豚肉と塩漬けキャベツをきれいに食べた。
明日の話は、明日聞けばいい。今夜の館には鉄鍋の湯気と、木の匙が器に触れる小さな音が残っていた。




