第12話
朝日に照らされた埃は、数える気も起きないほどだった。
「まず庭から片づけようか」
「中じゃないの?」
「庭なら、埃が舞っても外だからね」
ルルは納得したように一度丸くなり、ベルフルール館の玄関へ向かった。
鉄の鍵で扉を開けると、昨夜より明るい庭が広がっていた。明るくなったぶん、石畳を埋める雑草も、イチイの生け垣から飛び出した枝も、よく見える。
「外にも、いっぱいある」
「昨日より仕事が増えたね」
「見えただけ」
「それを言われると、増えてはいないかな」
ルルは石畳の上で体を薄く広げた。半透明の縁で草の根元を囲み、何本もの草を体の表面に絡めていく。そのまま、地面に広げた体をぺりぺりと縮めると、雑草がまとめて抜けた。
「庭が、ルルについてくる」
「土だけは置いていってほしいな」
ルルが細かく震えると、根についた土が石畳へ落ちた。残った草だけを庭の隅へ運び、また体を広げる。手足のないルルには、一本ずつ抜くよりこちらのほうが速いらしい。
エルシアは古いリンゴの木から枯れた小枝を外し、幹に食い込んだつる薔薇をゆっくりほどいた。つる薔薇は門柱に這わせ直し、伸びすぎた先だけを風で切る。イチイの生け垣も、道へ張り出した枝をそろえるだけにした。
「全部、短くしないの?」
「館が隠れすぎないくらいでいいよ。鳥の場所まで取ることはないから」
最後に屋根へ上がり、石板の隙間をふさぐほど厚い苔だけを払った。薄く残った苔は、緑から茶色へ変わりかけている。
「あれ、残ってる」
「秋の色だからね。雨が流れるなら、全部きれいにしなくてもいい」
「きれいは、なくすことじゃない?」
「残したほうがきれいなものもあるよ」
屋根の上から見ると、ルルが抜いた草は庭の隅に小さな丘を作っていた。本人はその横で、仕事を終えた石のように丸くなっている。
「休んでる?」
「庭の形を見てる」
「それなら、私も見ようかな」
◇
午後、エルシアは館の鉄の鍵を持って町へ出た。室内の掃除に使う箒と硬い刷毛、それに掃除用の粗布を買い足し、日が傾く前に戻る。
箒を広間へ置いたあと、エルシアは庭の石段に腰を下ろし、ルルも隣で丸くなった。朝には隠れていた石畳が、西日を受けて鈍く光っている。
雲は薄く長く伸び、つる薔薇の向こうで桃色に染まっていた。
「雲、昨日と違う」
「同じ形でいるのが苦手なんだろうね」
「ルルもできる」
ルルが横へ伸び、雲よりずっと低いところで細長くなった。
そのとき、歌が聞こえた。
イチイの生け垣とつる薔薇の間に、淡い女の影が立っている。顔立ちは分からない。けれど、長い服の裾を持ち上げるような仕草をして、石畳の上を軽やかに回った。
歌声が高くなる。影は右へ三歩進み、片腕を上げ、薔薇の前で一度止まる。それから最初の場所へ戻った。
「昨日の歌」
「そうだね」
また、同じ旋律が始まった。
◇
エルシアは石段から立ち、影と少し距離を取って声をかけた。
「こんばんは。ここで一緒に暮らしてもいいですか」
返事はない。
影は右へ三歩進み、片腕を上げ、薔薇の前で止まった。
「昨日の歌も、あなたでしたか」
やはり返事はない。エルシアへ顔を向けることもなく、同じ場所へ戻り、同じ高さの音から歌い直す。
ルルが体の先を伸ばし、影の進む先に置いてみた。女の影は避けず、踏むこともなく、そのまま重なって通り過ぎる。ルルの体には何も残らなかった。
「ルルのこと、見えてない?」
「見えていないというより、今を見ていないのかもしれない」
三度目も、歌と動きは同じだった。呼びかけに答えず、こちらに反応せず、庭の物を動かすこともない。
「昔の歌と動きだけが、ここに残って繰り返されているんだね。残留思念だと思う」
「思いが、残るの?」
「強い思いが、場所に染みつくことはあるよ。ただ、誰のどんな思いだったのかまでは分からない」
分からないものを、分かったことにはしない。エルシアは影の通り道を空けて、また石段に座った。
同じ歌を聞きながら、ふとルルに尋ねる。
「ルルが最初に覚えている音は、どんな音?」
ルルはすぐには答えなかった。丸い輪郭が少し縮み、石段の冷たさを確かめるように低くなる。
「最初は、冷たい」
「音じゃなかったね」
「音より先。古い聖所の泉のそば。石も水も冷たい。ルルは、小さな塊で、ひとりでいた」
「その前は?」
「分からない。覚えてない」
エルシアは続きを急かさず、歌へ耳を傾けた。
「ときどき、足の音が来た。甘い供え物や、固いパンや、苦い草。いろんな匂いも来た。人の声も」
「その人たちと話したの?」
「まだ言葉、なかった。声の形をまねた。みず。いのり。さむい。少しずつ」
「一匹で覚えたんだ」
「声は来た。でも、ルルに話してる声じゃなかった」
影がまた薔薇の前で回る。歌は庭に満ちているのに、問いかけには答えない。
「寂しかった?」
「その言葉は、あとで覚えた。あのときは、冷たいと、静か」
エルシアは膝の上で指を重ねた。
「私も工房を出た日は、一人で歩いたよ。道には音がたくさんあったけど、私に向けられた声はなかった」
ルルの縁がゆっくり伸び、エルシアの靴に触れる。
「いまは、ルルが話してる」
「うん。聞こえてるよ」
庭の影は、同じ歌を繰り返していた。
それでも石段の上では、今ここにいる一人と一匹の言葉が、きちんと相手に届いていた。
◇
数日後、エルシアはエストラ市の道具屋で、館に置くオイルランプを一つ買った。書店にも寄り、各地の風土をまとめた本を選ぶ。北の雪深い土地の家、南の港を吹く塩気のある風、乾いた地方で水を守る暮らしが、挿絵と短い文章で載っていた。
「この本、味はある?」
「土地の話の味なら」
「口では分からない味?」
「できれば、目で確かめてほしいかな」
本とオイルランプを抱えて館へ戻る途中、近所の路地から明るい声が聞こえた。
マルタと近所の人たちが、低い石台に置いた木の盤を囲んでいる。盤には四角い区切りが刻まれ、濃い色と薄い色の木の駒が向かい合っていた。一人が駒を進めるたび、別の一人が腕を組んで考え込む。
「そこへ動かしたら、次で取られるわよ」
「言う前に考えさせてくれ」
「もう三回も待ったわよ」
マルタが顔を上げ、エルシアを見つけた。
「あら。まだ住んでるのね」
「冬祭りまでの契約ですから」
「契約より歌のほうが強いと思ってたわ」
盤を囲む人たちの視線が、エルシアとルルへ集まった。
◇
濃い色の駒を持った男が、声を少し落として尋ねた。
「なあ、あの歌が怖くないのかい」
「今のところ、こちらに害を及ぼす様子はありません。家賃は安いですし、夜には音楽まで聞けます。ありがたいですよ」
「音楽って、あれを?」
マルタが目を丸くする。
「はい。二曲目はまだ聞かせてもらえませんが」
「頼んだのか」
「歌がきれいだったので」
盤を囲んでいた人たちは黙り、互いの顔を見た。やがて、白い口ひげの男が持っていた駒を盤へ戻す。
「若い娘が意地を張ってるだけかと思ってた」
「私もよ」とマルタが言った。「でも、死者を追い払うのでもなく、怖がって逃げるのでもなく、歌を聴いて暮らしてる。どうやら本当に魔女なのね」
「一応、そのつもりです」
「一応で魔女をやる人は初めて見たよ」
石台の端が少し空き、ルルの前には薄い色の駒が一つ置かれた。
「ルルも動かす?」
「食べないならな」
「知ってる。見る」
笑いが起きた。若い旅人が何日で逃げるかを面白がるような笑いではなかった。
少し離れた壁際で、ラウルがその様子を見ていた。目が合うと会釈し、何か言おうとして口を開いた。
けれど、言いかけた声は路地の笑い声に重なり、彼は一度言葉を飲み込んだ。
「また、改めてお話しします」
「いつでも」
ラウルはもう一度だけうなずいた。
盤の上では、ルルが動かした薄い色の駒が、濃い色の駒とぶつからない場所で止まっていた。
遊びが一段落すると、一人と一匹は館へ戻り、オイルランプと本を広間の卓へ置いた。ラウルが言いかけた話は、次に会う時まで残った。




