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魔女は、最初で最後の旅に出る  作者: イメヤシクサ
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第11話

 女の歌は、細い糸が切れるようにふっと途絶えた。


 ベルフルール館の玄関に立ったまま、エルシアは庭の奥へ目を向ける。古いリンゴの木も、伸び放題のイチイの生け垣も、黄昏の中で静かに影を濃くしていた。


「終わった?」


 ルルが体の縁を細く伸ばし、外の気配を探る。


「今のところは」


「次はいつ?」


「それは歌っていた人に聞かないと分からないね。私たちは、夕市が終わる前に買い物をしようか」


「歌より先?」


「今夜、床で寝たいなら」


 ルルは館の床とエルシアを見比べるように、丸い体を左右へ傾けた。そして迷いなく玄関へ向き直る。


「買い物、先」


 一人と一匹は、まだ明かりの残る市場へ急いだ。


     ◇


 昼の市が終わったあとも、夕市には別のにぎわいがあった。


 仕事帰りの職人がパンを買い、家々から来た使いが野菜の残りを選んでいる。炙った腸詰め、煮たリンゴ、削りたての木、羊毛に残る油。通りを一つ進むたびに匂いが変わり、ルルの体も忙しく向きを変えた。


「エルシア。あっちは甘い」


「今日は寝具を買う日だよ」


「こっちは焼けてる」


「水桶もいるね」


「向こうは、ぱりぱりの匂い」


「ルル、ちゃんと聞いてる?」


「全部聞いてる。匂いも全部来る」


 聞くことと従うことは、別らしい。


 桶屋の店先では、大小の木桶が塔のように積まれていた。ルルは一番上へ体の先を伸ばしたものの、途中にあった小さな水桶の取っ手に絡まり、そのまま揺れた。


「これ、ルルを運べる」


「水を運ぶものなんだけどね」


「水とルルは、似てる」


「代金は一つ分でも、中身が勝手についてくるんですかい」


 桶屋の主人が面白そうに尋ねると、ルルは取っ手から体を外した。


「ルルは売られない」


「それなら安心した」


 エルシアは水桶と、大きな木のたらいを一つずつ選んだ。続いて金物屋で洗面器と鉄鍋を買う。主人が鍋底を指で弾くと、低い音が響き、ルルの表面に丸い波紋が広がった。


「お腹に来る音」


「煮込みもお腹に来ますよ」と主人が言う。


「その鍋にする」


「決め手はそこなんだね」


 最後に、羊毛を詰めた敷き寝具と厚い毛布を二組そろえた。寝具の山をくくっていた紐へルルが何度も体を伸ばすので、荷運びの男は最初、結び目がほどけているのだと思ったらしい。三度目で気づき、荷を背後へ遠ざけた。


「これは食べられませんよ」


「知ってる。ふかふかを見てる」


 ルルの先端は、まだ寝具を追っていた。


 買った品は市場の荷車で館まで運んでもらうことにした。エルシアは残りの礼金から代金を払い、帰り道で薪もひと束買った。ベルフルール館へ戻るころには、通りの窓に一つずつ灯りがともり始めていた。


 鉄の鍵で館の玄関を開けると、荷運びの男たちは水桶、木のたらい、洗面器、鉄鍋、寝具を広間へ置いた。女の歌声は聞こえない。荷車の軋む音だけが、静かな庭へ少し長く残った。


「また、ずいぶん運び込んだわね」


 石塀の向こうから女の声がした。


 隣家の庭では、短く切った薪を抱えた男と、肩に毛糸の羽織り物をかけた女が、こちらを見ていた。男が先に会釈する。


「隣のラウル・ベッカーです。こちらは妻のマルタ。新しく館を借りた方ですか」


「エルシアです。こちらはルル。冬祭りまで、お隣になります」


「冬祭りまで?」


 マルタはベルフルール館の暗い窓を見上げた。


「あなた、仲介人から歌のことは聞いたの?」


「はい。さっきも少し聞きました」


「聞いたうえで、寝具を二組も?」


「一組だと、どちらかが床で寝ることになるので」


 マルタは返事に困ったようにラウルを見る。


「前の借り手は三日で出ました」とラウルが淡々と言った。「歌は夕暮れから聞こえます。夜には庭で物音もするそうです」


「じゃあ、今度の借り手も長くは続かないわね」


「本人の前で言いますか」


「あとで壁越しに聞かれるより親切でしょう」


 エルシアは小さく息を漏らした。


「少なくとも、今夜はいます。鉄鍋を使っていないので」


「そこが基準なの?」とマルタが言う。


「ルルは、ふかふかも使ってない」


 マルタの視線が、寝具へ向かって伸びたままのルルへ落ちる。肩の力が抜けたように、彼女は短く笑った。


「朝、まだいたら声をかけるわ」


「では、明日の朝に」


 エルシアが答えると、ラウルは何か言いかけ、結局もう一度会釈した。


     ◇


 台所の炉へ薪を入れ、鉄鍋で水を温めると、ようやく館の中に人の暮らす音が生まれた。


 ぱちぱちと爆ぜる火。鍋の底で水が鳴り始める音。エルシアは湯気が立ったところで火から下ろし、木のたらいで水桶の冷たい水と混ぜた。


 旅の埃を落とすため、奥の小部屋へたらいと洗面器を運ぶ。湯は肩までつかるほどには張らない。洗面器ですくって、少しずつ体に流しながら洗う。


 それでもルルは戸口に陣取り、薄く広がったまま動かなかった。


「エルシア、いる?」


「いるよ」


「沈んでない?」


「足首までしか入っていないから、大丈夫」


 洗面器の湯を肩から流す。床板へ水が落ちる音に、ルルの輪郭が震えた。


「いま、たくさん沈んだ?」


「流しただけだよ」


「流されてない?」


「私はここにいる」


 どうやら姿が見えないことと水音が組み合わさると、ルルにとっては危険らしい。エルシアが三度目の無事を伝えたとき、開けておいた小窓から、別の音が入ってきた。


 女の歌だった。


 庭の奥から、ゆるやかな旋律が夜気に乗って届く。言葉は聞き取れない。高くなった声が細く伸び、イチイの枝を抜ける風と重なった。


 エルシアは洗面器を膝の上へ置き、しばらく耳を傾けた。


「きれいな歌ですね」


「エルシア、歌と話してる?」


「聞こえているかもしれないから」


 庭へ向けて、もう少し声を張る。


「よければ、もう一曲お願いできますか」


 歌が止まった。


 声が遠ざかったのではない。歌っていた気配そのものが、驚いて息を止めたように消えた。枝のこすれる音と、炉で薪が崩れる音だけが残る。


 ルルは戸口から細い縁を伸ばし、エルシアの足元まで確かめてから、すぐに引っ込めた。


「いなくなった」


「驚かせたかな」


「エルシアが?」


「褒められると思っていなかったのかもしれないね」


 答えはない。襲ってくるものもなかった。


 エルシアは残った湯をもう一度肩へ流した。


「エルシア、まだ沈んでない?」


「歌が消えても、そこは続くんだね」


     ◇


 その夜、一人と一匹は二階でいちばん埃の少ない部屋を選び、新しい寝具を並べた。


 ルルは自分の敷き寝具へ一度乗り、ふかふかと沈む感触を確かめた。それからエルシアの寝具へ移り、毛布の下へ体を滑り込ませる。


「そちらは使わないの?」


「明るい時に使う」


「寝具は、暗い時に使うものだと思うけど」


 庭で、こつ、と何かが鳴った。


 毛布の中のルルが薄くなり、エルシアの脇へぴたりと広がる。


「エルシア」


「古いリンゴの木から、実か枝が落ちたのかも」


「どっち?」


「朝になれば見えるよ」


 エルシアは目を閉じた。


 少したって、生け垣がざわりと揺れた。


「エルシア。庭が動いた」


「風は動くものだからね」


「歌の人は?」


「今は歌っていないよ」


 さらにしばらくして、つる薔薇が窓の外で壁をかすかに引っかいた。


「エルシア」


 今度は返事がなかった。


「エルシア?」


 規則正しい寝息だけが聞こえる。ルルは毛布の中で何度か輪郭を揺らし、やがてエルシアの脇に沿う形で止まった。


 次にエルシアが目を開けたのは、朝の光が窓へ差し込んだときだった。隣家の庭で鶏が高らかに鳴いている。


 冷えた朝の空気は澄み、久しぶりに平らな場所で眠った体は軽かった。


「よく眠れたね」


 毛布の端から、ルルがゆっくり這い出して丸くなる。


「エルシアだけ」


 朝日が床へ伸び、舞い上がった埃を金色に照らした。明るくなった部屋を見回すと、昨夜は見えなかった汚れがずいぶんある。


「今日は掃除から始めようか」


 ルルは光の中の埃を見上げ、体を低くした。


「幽霊より、いっぱいいる」

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