第二話 ただいまは言えないリボン
店の外では、夕方の光が石畳を蜂蜜色にしていた。
花籠の少女は、薄いばら色のリボンを胸に抱き、何度も頭を下げて帰っていった。
好きな人に渡す花束の茎を、そのリボンで結ぶのだという。
リュシエラは、扉の鈴が静かになるまで見送った。
「恋というものは、たいへん忙しいのね」
少女は何度も迷った。
何度も言い直し、最後には目を潤ませながら笑った。
王宮の詩集に出てくる恋より、ずっと不器用で、ずっと小さな声をしていた。
ときめき色のリボンは、棚の奥で淡く光っている。
自分には結べなかったリボン。
少女の話を聞いているあいだだけは、リュシエラの指先にも、ほんの少し温かさが残った。
「さて」
リュシエラは真鍮の鍵を見下ろした。
オルタンシアはまだ戻らない。
恋の相談がひとつ終わるくらい、と言っていた。
たしかに相談は終わった。
ならば、店主も戻ってくるはずである。
「オルタンシアさん」
返事はない。
「魔女さま」
奥の扉も、棚も、裁ちばさみも静かだった。
リュシエラは王女として大変礼儀正しく待った。
三十数えるあいだは。
それから、王女として大変きちんと怒った。
「人に店番を頼んでおいて、戻らないのはよくありません」
鍵を握り、奥の扉を開けようとした。
ところが扉は壁のように動かなかった。
押しても引いても、金具ひとつ鳴らない。
「まあ」
リュシエラは鏡に映る自分を見た。
生成りの上着。
青みの薄紫の細いリボン。
町娘に見えなくもない姿。
しかし中身は王女リュシエラである。
王女は、勝手に夕食を欠席してよい身分ではない。
帰宮が遅れれば、侍女たちが困る。
家庭教師が困る。晩餐の席順も困る。
「困る人が多すぎるわ」
そう言って、リュシエラは店の扉へ向かった。
すりガラスの向こうは、夕方から夜へ変わりかけている。
大通りへ続くはずの路地には、薄い藍色の影が落ちていた。
リュシエラは真鍮の取っ手に手をかけた。
そのとき、鈴がちりんと鳴った。
扉を開けてもいないのに鳴ったので、リュシエラはたいへん不服そうに扉を見た。
「あなたが鳴らしたの?」
もちろん扉は答えない。
そのかわり、店の中から一枚の紙がひらひらと飛んできた。
封蝋の赤い印がついている。
リュシエラが手に取ると、紙には丸みのある文字でこう書かれていた。
「店番のあいだ、店番は店を離れられません。食事と寝床は二階にあります。
護衛の方々には外でお茶を出しておきました」
リュシエラは紙を裏返した。
裏には、もう一行あった。
「心配しなくても、王宮の大人たちは知っています」
「知っている?」
リュシエラの胸が、今度はきゅっとではなく、すうっと冷えた。
王宮の大人たち。
父王。母妃。大叔母さま。
宰相。古い儀式に詳しい司祭長。
みんな知っている。
それは、どういう意味だろう。
店の外から、控えめな咳払いが聞こえた。
リュシエラはすこしだけ扉を開けた。
少し離れた軒下に、見慣れた護衛騎士が二人立っていた。
ふたりとも町人の上着を着ているが、背すじがまっすぐすぎる。
「リュシエラ様」
年上の騎士が小声で言った。
「王宮へ戻ります。供をなさい」
騎士は苦しそうに目を伏せた。
「恐れながら、それはできません」
「できない?」
「我々は、この店の外を守るよう命じられております」
「では、わたしを中へ閉じ込める命も受けているの?」
若い騎士が、はっと顔を上げた。
「閉じ込めるなど」
年上の騎士が小さく首を振った。
「古い魔法が働いております。我々の剣では、道を開けません」
リュシエラは黙った。
剣では開かない道。
王女の命令でも開かない扉。
そんなものが、この国に残っていることは知っていた。
おとぎ話の中だけでなく、王家の古い記録にもあった。
冠をいただく者が、遠くから守るべき伝承だった。
こんな風に、自分の靴先にからみつく現実ではなかった。
「王宮では、なんと言っているの」
騎士は一瞬、言葉を探した。
「リュシエラ様は、ご留学中と」
「留学」
リュシエラは、その言葉を口の中で転がした。
留学。
遠い国の学院へ行き、知らない言葉を学び、季節の便りを送るもの。
リボン屋の二階で眠ることではない。
「わたし、どこの国へ留学したことになっているの」
若い騎士が、泣きそうな顔をした。
「そこまでは」
「そう」
リュシエラは扉に手をかけた。
怒ってもよかった。泣いてもよかった。
王女として命じてもよかった。
けれど、店の奥ではときめき色のリボンが淡く光っている。
今日、少女がここで小さな勇気を見つけた。
それを見てしまった。
「では、あなたたちは外で守っていて」
「はい」
「……ご苦労さま」
騎士たちは目を丸くした。
リュシエラは扉を閉め、二階へ上がった。
小さな寝室には、白い寝台と木の机があった。
窓辺には、青と白のストライプのリボンが一巻き置かれている。
店で見たものと同じ、甘すぎず、きちんとしていて、少しだけ可愛いリボン。
リュシエラはそれを指で撫でた。
「ただいまは、言えないのね」
窓の向こうに、王宮の塔が小さく見えた。
近い。
けれど、今夜は遠い。
リュシエラは椅子に座り、机の上にあった便箋を引き寄せた。
【 父上、母上。わたしは今、留学先におります 】
そこまで書いて、筆が止まった。
留学先。
王都の裏通り。
ときめき色のリボン屋さん。
「おかしな留学だわ」
それでも、紙の上の文字は少しずつ続いた。
【 今日は、恋をしている女の子にリボンを選びました。
わたしには結べないリボンが、誰かのためには光ります。
まだ納得はしておりません。
でも、明日も鈴が鳴るなら、話を聞いてみます。 】
書き終えると、便箋はふわりと光り、窓の隙間から夜へ溶けた。
リュシエラはあわてて立ち上がったが、手紙はもうない。
代わりに、ときめき色のリボンが階下でほんのり光った。
まるで、よくできました、と言うように。
「褒められても、納得はしておりませんから」
そう言ってから、リュシエラは小さく笑った。
王宮には、山ほどリボンがあった。
けれど、こんなふうに返事をするリボンは一本もなかった。
その夜、リュシエラは初めて、王女宮ではない場所で眠った。
扉の下では、店の鈴が風もないのに小さく鳴った。
まるで明日の誰かを、もう待っているみたいに。




