第一話 はじまり色のリボン
王宮には、リボンが山ほどあった。
絹のリボン。
金糸を織り込んだもの。
真珠をひと粒ずつ縫いつけたリボンもあった。
朝露のような水色も、夕暮れに似た金色も。
王女リュシエラの衣装部屋には、季節ごとに箱へ収められている。
ある朝、リュシエラは鏡の前で小さくため息をついた。
「どれも、きれいだけれど」
専属侍女が桃色のサテンを差し出す。
「こちらはいかがでしょう。リュシエラ様のすみれ色の瞳によく映えます」
「きれい。でも、胸がきゅっとしないの」
「胸、でございますか」
「物語では、運命の品を見つけたとき、胸がきゅっ、て」
専属侍女は、少し困った顔で笑った。
「それは、恋のお話ではございませんか」
「恋!」
リュシエラはぱっと顔を上げた。
恋。
詩集では月明かりに似ていると言う。
小説では、胸の中に小鳥が飛び込むようだと書かれている。
リュシエラはまだ、その小鳥を見たことがない。
「確かめたいわ。そんなリボンがどこかにあるなら」
その日の午後、リュシエラは身分を隠して王都へ出た。
もちろん護衛は遠巻きにいる。
生成りの上着に青みの薄紫の細いリボンを結べば、町娘に見えなくもなかった。
王都の大通りはにぎやかだった。
焼き菓子の匂い、馬車の車輪の音、花売りの声。
いつのまにか、リュシエラは、大通りから一本外れた石畳にいた。
細い路地の奥に、すりガラスの扉があった。
古びた看板には、かすれた金文字で「Ruban de Toile」と書かれている。
屋号の下には「ときめき色のリボン屋さん」と添えられていた。
扉の向こうに、リボンが見えた。
派手ではない。宝石もついていない。
けれど暗い木棚に並ぶそれらは、ひとつひとつが静かに美しかった。
生成り、白、くすみローズ、深い茶色。
光の加減で波のように見えるリボン。
そして、青と白のストライプ。
リュシエラの胸が、きゅっとなった。
「……ここに?」
ドアをそっと開けると鈴が、ちりんと鳴る。
店内は外の騒がしさが嘘のように静かだった。
真鍮の取っ手がついた引き出し。
硝子瓶に入った小さな花。
封蝋の赤。古い鍵。
磨かれた裁ちばさみ。
リュシエラは、青と白のストライプのリボンをそっと手に取った。
細かな筋のある布が、指先に心地よく触れた。
甘すぎず、きちんとしていて、それなのに少しだけ可愛い。
まっすぐ結べば、背すじまで伸びそうなリボンだった。
「あなた、とてもすてきね」
そのときだった。
棚の奥で、別のリボンが淡く光った。
色はひとつに決まらない。
白のようで、薄紫のようで、朝焼けの桃色のようでもある。
光をまとったリボンが、するりとほどけてリュシエラの手のひらへ落ちた。
「まあ。あなたが、わたしを選んでくださったの?」
当然、結ぶしかない。
リュシエラは、店内の鏡の前で髪の横に結ぼうとした。
けれど。
きゅっと結んだはずのリボンは、するん、とほどけて床に落ちた。
もう一度。やっぱりほどける。
三度目には、リュシエラはたいへん丁寧にむっとした。
「わたしの結び方が、お気に召しませんか?」
店の奥から、くすくすと笑う声がした。
「違うわ。あなたが下手なのではなくて、そのリボンが正直なの」
柔らかそうなショールをまとった女の人が立っていた。
若いようにも、ずっと昔からこの店にいたようにも見える。
「いらっしゃい、恋に憧れるお客様」
「なぜ、それを」
「この店では、隠している気持ちほどよく見えるの」
女の人は不思議なリボンを拾い上げた。
「これは、ときめき色のリボン。
恋する気持ちや、大切な誰かを思う心に反応するのよ。
光ったでしょう? あなたを選んだの」
リュシエラの瞳が輝いた。
「では、やはりわたしのものなのですね」
「いいえ」
「え?」
「あなたは、それを身につける人ではないわ」
「リボンに選ばれたのに?」
「選ばれたからよ」
リュシエラは、たいへん困った。
「わたしは、胸がきゅっとするリボンを探していたのですけれど」
「ええ。だから、このリボンに見つかったのね」
「見つかった?」
「このリボンは、選んだ人を飾らないの」
「では、どうするのですか」
女の人は、魔女オルタンシアと名乗った。
そして、ときめき色のリボンを棚の奥へ戻した。
「外へ連れていくのよ」
リュシエラはしばらく黙った。
それから、王女としてたいへん礼儀正しく言った。
「……納得がいきません」
「恋に王位は通じないもの」
「わたし、まだ王位は持っておりません」
「では、なおさらね」
オルタンシアは、リュシエラの手に小さな真鍮の鍵を握らせた。
「少し出かけるわ。あなた、店番をお願い」
「少しとは、どのくらいですか」
「恋の相談がひとつ終わるくらい」
「それは長いのですか、短いのですか」
「お客様次第ね」
言うなり、オルタンシアは奥の扉の向こうへ消えた。
リュシエラが追いかけようとしたとき、入口の鈴が鳴る。
おずおずと入ってきたのは、花籠を抱えた少女だった。
「あの……好きな人に渡すリボンを、探しているのです」
リュシエラは、ぱっと顔を上げた。
恋。いま、この店に、恋が来た。
ときめき色のリボンが、棚の奥でほんのり光った。
少女が名乗るまでのわずかな時間、リュシエラは鍵を握りしめた。
今朝まで自分は、王宮の鏡の前でリボンを選んでもらう側にいた。
それが今は、誰かのためにリボンを選ぶ側に立っている。
たった一枚の扉をくぐっただけなのに、世界の向きが変わったようだった。
自分には結べない。
身につけることがないときめき色のリボン。
納得はいかない。
けれど逃げるわけにはいかなかった。
誰かが、勇気を探してこの扉を開けたのだから。
「お話を、聞かせてください」
リュシエラは初めて、店長として椅子をすすめた。
王女の作法ではなく、リボン屋の作法で。




