実習の続きと星の光
大学に近づくにつれて、あたりには甘い匂いが漂っていた。
だんだん、サイレンの音が近づいてきた。違う。私が近づいたんだ。
苦いような、焦げたような、複雑な匂いもしてきた。
「どうやら、あそこのチョコレート工場が爆発したみたいだぞ」
「爆発してから火が出たみたいね」
ご近所さんが外へ出ておしゃべりしている声が、人波をかき分けて走る私の耳にも聞こえてきた。
大学の看護学部は、他の学部とちょっと離れていて、住宅街の中にある。
直ぐ近くにはチョコレート工場があって、今の時期は夏に向けてアイスクリームを作っているって地元民のヨッシーが言っていた気がする。
ようやく、看護学部の校舎の前にたどり着いて、私はひざから崩れ落ちた。
「……何も……変わって、ない、だと?」
そう、走って走って、息も絶え絶えになって到着したのに。
良いことなんだけどね。いつも通りの校舎がそこに鎮座していた。
「あれぇ?紀……じゃない、相良さん。どうしたの?下校しなかったっけ?」
のん気な声が横からして、ふと見ると渡来先生が、車いすを押してこちらへ戻ってくるところだった。
「先生こそ……何を、やってるの?」
久しぶりの全力疾走で、上がった息はなかなか整わない。
「ああ。
近くのチョコレート工場で火事があったんだよ。多分、粉塵爆発じゃないかって消防の人は言ってたけどね。
結構、大きな衝撃でさ。隣の老健のスプリンクラーが誤作動しちゃって水浸しでねー。
まあ、お陰で延焼も避けられたみたいなんだけどさ。入居者の皆さんのベッドも水浸しでさー」
何ですと?情報量が多くて分からない単語もあって、理解が追い付かない。
粉塵爆発はーーあれか。空気中に舞った細かい粒子に着火して急激に燃焼するってやつ。
テレビの科学番組で実験映像を見たことがある。カカオとか砂糖とかって燃えるんだっけ。だからこんなに香ばしい匂いが漂っているんだね。
「老健って?」
「ああ、まだ授業でやってないね。介護老人保健施設の略でさ、リハビリ中の方たちがいる施設なんだよ。
説明はともかく、とりあえず、皆さんを中に案内しても良いかな」
はっ!そうだった!渡来先生は車いすを押していた。
他にも、施設の職員さんや大学職員の人たちが、お年寄りたちを支えながらこちらに向かっている。
皆さん、ケガはなさそうに見えるけど元気がない。
「紀亜ー!大丈夫―?!無事―?!」
振り返ると、舞りん、真緒ちゃん、絹恵さんにヨッシーと尾崎君までが走ってきた。
「まったく!鉄砲玉みたいに飛び出していくんだからっ!ケガとかしてない?」
舞りんが優しい。
みんなを巻き込むまいと「忘れ物した」なんて言い訳はとっくにバレてたらしい。心配して大学まで戻ってきてくれたんだね。
ご心配をおかけしましたが、何ともないというか、何もしていない。
そこに、いったん学内に入居者さんたちを案内した渡来先生が外に出てきた。
そう、老健は、病院じゃないから“患者さん”じゃなくて“入居者さん”って言うんだって。
「おお、来たね1年生!
こういう時は、災害現場に戻ったらダメなんだよー。でも、来ちゃったからには手伝う気があるってことだねー」
渡来先生、笑顔だけど眼の奥が笑っていない気がする。ちょっと背筋がヒヤッとした。
「ちょうどいい。今日の学内実習でやったベッドメイキングの練習だよー。
老健の入居者さん、60人ぐらいだからさ、1人あたり10台ほどで良いからさー。よろしくねー」
ああ、やっぱり怒ってる……。
あんなに汗だくになってようやく1台のベッドにシーツをかけたのに、独りで10台もなんて……。
鬼だーー渡来先生は鬼になったんだ……。ニッコリ笑顔なのに、眼だけ笑っていなかったし。
もちろん、学内の実習室にベッドは60台も入らないので、大学の体育館が解放されて、簡易ベッドを広げることになった。
「3台目、終わったー。そっちはー?」
「私は今、4台目に入ったところです。紀亜さんは?」
「え?私はようやく3台目に入るところだよ。って、言っていたら2台目のベッドからシーツが出てきちゃったよ……」
そう。広い体育館に病院倉庫から災害時用に備蓄していた簡易ベッドを移動するところまでは、病院の事務員さんたちも手伝ってくれたんだ。
だけど、怒りの渡来先生が「当直のお仕事、大変でしょ」って連れて帰っちゃった。
「ダラダラやってたら、入居者さんたちの就寝時間が過ぎちゃうからね。皆さん、入院するほどの健康被害はないけど、お疲れだから時間も考えて手早くやってねー」って、やっぱり眼の奥は笑っていない顔で言ってた。
ベッドメイキング、独りでやっていると、片側のシーツを入れたつもりでも、反対側を作っていたらズレてくるんだよね。
で、もう一回、もとの位置に戻って引っ張りなおしてーーって繰り返していたら、一生、終わらなない気がする!
技術だから、やるほど上手になるなんて嘘だー!って、天に向かって叫んでいたら、ふと、思いついて、提案してみた。
「二人ずつペアになってやらない?」
そう。二人でやったら、この無駄な動きが減るんじゃないだろうか。
私の提案に、みんな最初は担当台数が増えるのを嫌がったけど、実際にやってみたらコレが大当たり。
「せーのっ」
息を合わせて少し持ち上げながら、頭側のマットレスをシーツでくるむ。こちら側を引っ張っても、反対側で仲間が同じ作業をしているから、面白いようにピシッとシーツが収まっていく。
掌を下にしてシーツをつかんで、パーにしてスッと入れる。
こういうことか!
確かに、何台もベッドメイキングをこなしていると、コツがつかめてきた。
独りで孤独に作業するよりも、気持ち的にも楽になった。こうやって一緒に大変な作業すると、“仲間”って感じがするなぁ。
「なんか、面白くなってきたね、康平」
「キッチリと角が作れると、嬉しくなるもんだな」
あんなに尖っていた尾崎さんがヨッシーを相手に素直になっている!びっくり。
「おお!きれいに寝床を作ってもらって……。ありがとうね」
杖を突いたおじいさんが体育館に入ってきた。
なんとか全部のベッドにシーツをかけ終われてよかったよ。
「男性はこちら側、女性はあちら側ですー。パーテーションで区切っていますが、何かお困りのことがあれば、お声で知らせてくださーい」
あ、渡来先生も、入居者さんたちと戻ってきた。
未だ実習に行ったこともないから、たくさんの入居者さん達を前に、私たちも緊張してきた。
私たちは、手分けをして入居者さんをそれぞれのベッドへ案内して、臥床するのを手伝った。
「こんな広いところに、寝床がいっぱいあって、なんだか修学旅行みたいでウキウキするわね」
「本当にそうね。あなた、修学旅行はどちらへいらしたの?」
「私は日光。お寺のお堂に布団を敷いて、みんなで夜通しおしゃべりするつもりが、いつの間にか眠っちゃってね」
おばあさん達は、和やかにおしゃべりしている。
ヨッシーと尾崎さんは、おじいさん達と話し込んでいる。
「都会の人は修学旅行なんて、しゃれたことができただろうけど、この光景は、集団就職で上京した後の寮みたいだと儂は思うけどな」
「どちらから上京されたんですか?」
ヨッシーはコミュ力が高いなぁ。
「山形だよ。東京に出れば、儂みたいな学がないモンでも、仕事がいくらでもあったからな」
「お前さん、何の仕事してたんだ?」
「何でもやったさ。道路工事から、工場での製造業から、料理人もやったよ。一時期は店も持っていて、美味い洋食を出してたんだ。あんたは?」
「俺は鉄道関係。駅員から、乗務員、つまり車掌を5年ほど勤めて、後は運転士」
「え、電車の運転士ですか?!」
尾崎さんの食いつきがすごい。いわゆる鉄男さんなのかな。
「いやいや、最初は汽車だよ。トンネルに入る時に窓を閉め忘れると、煙が中に入って来て真っ黒になったもんだ」
「汽車と電車では運転感覚って、どんな風に違うんですか?」
尾崎さん、「効率」とかクールに言っていた時と全然表情が違って、眼がキラキラしてる。
“好きなモノ”って、すごいエネルギー源になるんだなぁ。
ヨッシーは元料理人のおじいさんとカフェご飯の話で盛り上がっている。
「先生!ここ、私のお家じゃないわ。早く帰らないと、お母さんが心配しちゃう」
急に不安そうな表情で話し始めたおばあさんを、隣のベッドに居たおばあさんがなだめていた。
「あぁ、小百合さん。大丈夫よ。今日はここが私たちのお家なのよ」
小百合さんと呼ばれたおばあさんが言う「先生」とは、どうやら私たち看護学生のことのようだ。
医師と間違えているのかな。
「小百合さんは、ちょっと認知力がね……。普段は良いんだけど、時々、すごく幼くなっちゃうことがあるの。そうすると、お若い人はみんな学校の先生だと思っちゃうの。
大丈夫よ、小百合さん」
「こんなに広いところじゃ、眠れないわ。先生!私が眠るまで、お歌を歌ってちょうだいな」
おお、小百合おばあさんからのリクエストだ。
「そうだな、こんな機会でもなくちゃ、若い人の歌なんてもう聴けないからな。冥途の土産に聴かせてほしいね」
元運転士のおじいさんが話に乗ってきた。ほかのおじいさん、おばあさんもちょっと硬い表情の中に期待が混ざった複雑な顔をしている。
そうだよね、ついさっきまで事故現場のすぐ近くにいたんだし、こんな体育館で一晩、過ごさなきゃならないんだもの、不安だよね。
「僕、高校では音楽選択しなかったんだよ」
「俺も、歌は非効率的だから、やってない」
ヨッシーが早々に辞退したのに乗っかって、尾崎さんも、また効率の話に戻っちゃった。
男子が早々に歌い手から離脱を宣言したところで、舞りんが真緒ちゃんに声をかけた。
「真緒、ホワネスの歌でも歌ったら?」
「無理無理無理無理!
難しいんだよ、どの曲も!それにここにいる人たち、みんな知らないだろうし。舞りんこそ、何か歌いなよ。絹恵さんでも良いよ」
「え、無理」
「私も歌は歌ったことないんですよ」
そんな会話が小声で繰り広げられている中で、ふと、渡来先生と目が合った。
渡来先生は、体育館に置いてあるアップライトピアノの前に居た。でも、何も言わない。
急に、時間が止まって、お兄ちゃんのストーカーが私を罵倒する声が聞こえて、殴られた時の痛みが戻ってきたような気がする。でも、何を言われているのか分からない。
心臓がどきどきしている。身体が丸くなって呼吸が浅くなる。
『紀亜!息を吐け!無理に吸おうとするな!吐いたら吸える。吸ったら声が出るから。
大丈夫、大丈夫。お前なら大丈夫だ』
急に、お兄ちゃんの声がした。お兄ちゃんの声の通りにしたら息ができるようになった。
歌うこと、あんなに好きだったのに……。
今はただ怖い。注目されることも怖い。
でも、入学式の時、みんなの前で話せてたよね、私。
「やっぱり、私なんかのためにじゃ、歌ってはくれないのねぇ、先生」
しょんぼりする小百合さん。
ええい!女は度胸!
とはいえ、何を歌おう……。私が歌えて、おじいさんやおばあさんも知っている曲。
これから眠ってもらうんだから、アップテンポの曲は合わないよね……。
もう一度、渡来先生と目が合う。
「歌います」
私から出た小さい声は、思ったより震えてしまったけれど、歌いだしの最初の声は心配したよりも伸びてくれた。
最初のフレーズはアカペラで。
続きで渡来先生が静かにピアノで伴奏してくれた。
地元から東京に来て、夜でも明るいことにびっくりした。
夜空を見上げても星なんてほとんど見えなくて。
でも、見えなくても存在している小さな星の、小さな光が、ここに居る人生の先輩たちに、ささやかな幸せが届きますようにと願いながら歌った。
久しぶりだったけど、声は出た。
思ったよりも出た。そうしたら楽しくなってきた。
歌える。もう二度と歌えないんじゃないかと思った時もあったのに。
言葉を紡ぐように、声が出る。
目の前にいる人たちの大きな幸せは願えないけど、小さな幸せが訪れますようにと。
そっか、歌は祈りなんだね。
短い曲なのに、すごく長いような。でも、やっぱり短いような不思議な時間を感じながら歌い終わると、すごく大きな拍手が聞こえた。
おじいさん、おばあさんだけじゃなく、学生のみんなも拍手をしてくれた。
「あれ、舞りん、泣いてる?」
「泣いてないわよ!目から汗が出ただけよ!」
舞りんの強がりに、みんなが笑いに包まれて、なんだかいい感じにまとまった。
なんだよ!渡来先生まで笑いながら、その細い目から汗出して。
みんな汗っかきだなっ!
遅れてやってきた施設の人の声掛けで、消灯となり、私たちはそれぞれ帰ることになった。
いつもの癖で録音した音源は、恥ずかしかったけれど、その日のうちに兄へ送った。
その後、兄と兄の友人たちが、何十回も、何百回も、目から汗を流しながら繰り返し聴いていたことを、私はずっと後になってから知ったのだった。




