整外病棟、田中主任の主張
「ふえっ、ふえっー、ふぇーん!」
「‥‥‥あー、はいはい。どーした?湊斗ぉ」
何時だ?今。
え、4時かあ‥‥‥。起きるのには早いけど、二度寝したら遅刻するやつじゃん!
軽く絶望を感じながら、1歳9か月になる息子、湊斗を抱き上げる。
保育園に行くようになってから、夜泣きするんだよね。こっちが泣きたいっつーの!
あーはいはい。ごめんごめん。赤ん坊に怒っても仕方ないもんね。
この夜泣き、いつまで続くんだろ。このところ、寝不足が当たり前になってる。
それにしても、これだけ騒いでるのに、夫は全く起きない。何でだろ。
半分はコイツのせいなのに、無性に腹が立つ!
自分は仕事があるからって言うけど、アタシだって職場復帰してるのに!
オムツを替えた。だけど、寝ない‥‥‥。
保育園に預けるタイミングで断乳もしたから、ミルクでの寝かしつけが出来ない。
仕方ないので、湊斗を抱えてリビングでゆらゆらすることにした。そうすると眠ってくれるから。
ようやくウトウトしたところで、ベッドに置こうとするとセンサーが発動したみたいに起きちゃう。
何だろうね、この「背中センサー」って。他の人の子育ても、こんな感じなんだろうか。
そんなことを考えながら、自分の胸の上に湊斗を乗せて、ソファーに寝転がって、湊斗ごとブランケットにくるまったら、ちょっと眠くなってきた。
子どもの体温と程よい重さと、規則正しい寝息が眠気を誘うよね‥‥‥。
「ひゃー!大変!パパ!パパ!起きて!
もう7時まわってる!朝ごはん?着替え?あー!おむつパンパン!」
ふと目を開けるとリビングの時計が見えてびっくりした!
アタシの出した声に驚いた湊斗がまた泣き出した。夫は寝癖がついたまま、食パン齧って出かけるし、自分の身支度しながら、湊斗の支度して朝食は‥‥‥もうパンだけでいいや――あ、保育園の連絡帳も書かなくちゃ!
ホント、毎朝カオスだわ。
「ママ、ママ。マーマー!えーん!」
湊斗の泣き声に後ろ髪を引かれながら、保育園の扉を閉める。
今から走れば、コンビニでおにぎり買えるかな。結局、湊斗の世話で精いっぱいだったから、アタシは朝食を食べられなかった。これじゃあ昼まで持たなさそう。
今日もちゃんと考える余裕なんてなかったなあ。
里帰り出産で実家に居た頃は、お母が何でもしてくれて、楽できた。
でも、夫は早く東京に戻って来いって。淋しいし、高知への交通費もバカにならないし、自分の世話もして欲しいってことだったみたい。
でも、帰って来ても、平日の昼間は、当たり前だけど夫は仕事へ行くから、湊斗と二人っきりになる。
湊斗は可愛いけど、赤ちゃんはすぐ泣くし、何で泣いてるかわからない。
言葉が通じないから、1日まともな会話が出来なくて、夜になってようやく帰ってきた夫と話が出来ると思っても、全然、アタシの話を聴いてくれない。
頭がどうにかなりそうになったころに、大学職員用の保育園に空きができたって連絡が来た。
家の中で息子と二人きりで居る状況に限界を感じていたアタシは、直ぐに申し込みをした。
保育園に入るということは、大学病院への職場復帰をするということがセットになるのを、申込書類を書きながら気付いた。
出来るだけ産休を長引かせて、専業主婦生活を満喫しようと思っていたのに、春に区の保育園に外れたから、もう1年、休めると思っていたから。
でも、経済的にもキツくなってきたところだったので、子育てと仕事の両立に不安はあったけど、復帰を決めた。
配属部署が心配だったけど、ラッキーなことに産休に入る前と同じ整形外科病棟に戻ることになった。これからバリバリ働いて、子どものために貯金したり、美味しいものを食べに行ったり、旅行もできると思った。
だけど、復帰してすぐ気が付いた。
産休を合わせたら2年近く離れてた間に、カルテのテンプレート記載とか病院内のルールが新しくなって、病棟内の物品の置く位置も変わってて、忘れていることも多い。
「主任なのに、こんなことも分からないなんて」と思われたくないから訊けずにいたら、スタッフはアタシが分かってると思ったのか説明してくれない。
分かるわけないじゃん!何で丁寧に説明してくれないんだろう。不親切だなあ。
「なんでアタシが学生指導にかかわっちゃいけないんですか?!」
来週からの学生実習、ピカピカの1年生が来るっていうから、張り切っていたのに。
伊藤さんはいつもそうだ!アタシの邪魔ばっかりして。
年齢は同じ学年だけど、アッチは大卒だから入職はアタシの方が1年先輩。
主任になったのは同じ年だけど、知らない間に大学院に行ってて、卒業と同時に補佐に昇進した。
「かかわるな、なんて言ってないわよ。日々の指導はもちろんお願いしたいわ。
ただ、学生カンファレンスや学内発表会は、臨床実習指導責任者の私が行きます、という話よ」
ちぇ、実習カンファなんて、適当に学生を褒めれば良いだけでしょ。
カンファにの日は、患者受け持ち担当から外れる。だから、その日は定時で上がれるだろうし、楽できると思ったのに‥‥‥。
でも、日々の指導は頑張るわ。育休明けの調子をつかむのに丁度いいしね。
「田中主任さん、今、お声をかけても良いですか?
7号室の中村さんの受け持ちをさせていただいています、白石です。本日の検温に同行させていただきたく、お願いします」
「はいはい。あ、じゃあ、バイタルチェック、してみる?」
バイタルチェックぐらいなら、患者さんへの侵襲もないし、やらせても大丈夫でしょ。
「血圧、上が132、下が88、です」
「あ、そう」
こん人、あ、コレ土佐弁か‥‥‥。
この患者さん、降圧剤服用してるのに血圧高めなんだよね。鎮痛薬、結構使ってるけど、腎機能、肝機能は大丈夫だっけ。タブレットで検査データ見れるんだっけ?ああ、もう分かんないからステーションに戻ってから確認すればいいや。
「学生さんは、今でもアネロイド型の血圧計で測るんだね。臨床だと、もうほとんど使わないのにね」
アタシが学生の頃はさらに古くて水銀血圧計だった。重かったなあ、学校から持っていくの。
学生って、大学でも大変なんだね。
「昨夜は、痛みが減って、よく眠れたんだよ。
昨日の受け持ちの伊藤さんは、痛み止め、気にせず必要なら使っていいけど、『そろそろ痛みが落ち着く頃だ』って言ってくれた通りで、予言みたいだったんだ」
患者さんが嬉しそうに言う。そりゃ、ナースなら夜間痛の落ち着く時期なんて、伊藤さんじゃなくても分かるわよ。
「へえ、そうですか。
学生さん。こんひ、じゃない、この人の夜間痛のメカニズム、わかる?」
やばっ!また土佐弁が出そうになっちゃった。誤魔化すために「この人」って言っちゃったけど、バレてないよね。
ホント、朝の学生のせいで地方出身者ってわかっちゃうじゃん。
「あ、えっと、臥床することで血流量が増して‥‥‥」
「違う!それは術前の夜間痛でしょ?!アタシが訊いてるのは、術後の痛みよ。
まあ、1年じゃしょうがないか。ちゃんと勉強しといてね。後で聞くから」
びっくりした!
1年生でしょ?病態なんて質問されたら、オドオドして「わかりません」って言うのが関の山だと思ってたのに、答えようとしたよ、この子。やっぱり、大学教育ってすごいのかな。
でも、こう言っておけば、臨床ナースの凄さが理解できるわね。
「田中主任さん!やっと見つけた」
あ、伊藤さんだ。何か用?
「学生さんに腱板断裂の夜間痛のメカニズムについて、しかも、術前と術後の痛みの違いについて質問したんですって?どういう意図だったの?」
どういう意図も何も、学生の知識を確認したかったからに決まってるじゃない。
何を訊いてるの?こん人。学士だか修士だか、補佐様だか知らんけど!あ、コレ、若者っぽい言葉の使い方なんじゃない?
ああ、意図ね。そんなこと答えてる暇ないわよ。今日は緊急入院なんてやらされたから、ただでさえ時間がないのに!
保育園のお迎えに間に合わなかったら、延長保育のお金、おまさんが払うてくれるがー?
もう!腹が立ったから、適当に答えておいた。何て答えたか、覚えてない。
ホントに腹が立つ!伊藤さんも、保育園のお迎えがアタシばっかりなのも、育短なのに緊急入院を受けさせる師長にも!
しかも、整外じゃない、総合診療科の患者だから病態だって分からないじゃない!ベッドが空いてるからって、そんな患者を受けるなんて!
点滴準備なんて、ウチではあまりやらないし、久しぶりだから物品の位置も分からなくて焦る!
「お仕事中、すみません、田中主任さん」
誰?!
ああ、昼間の学生?何よ、忙しいのが分からないかなあ!
よし、点滴準備できたからベッドサイドへ行って、サーフロー入れて点滴つないで、申し送って保育園に迎えに行かなくちゃ!
「ママ、やー!」
ようやく二語文が出たと思ったらコレ?!
走って保育園にお迎えに来たって言うのに、朝とは逆に帰りたくないから泣くって、どういうこと?!
理不尽すぎない?!
抱っこ紐の中で、ビチビチ跳ねるカツオみたいな息子をなだめながらスーパーで買い物して、何とか食事を作った。
最近は自分で食べたがるくせに、こぼしたり遊んだりするから、テーブルの上も下もまたカオス‥‥‥。掃除して、片付けは後にして、湊斗とお風呂入って、寝かしつけた。
これで一息つけると思ったのに。
「え?また煮込みうどん?仕事で疲れて帰って来てるんだからさ、もうちょっと肉とか元気が出るもの出してくれない?」
何やって?!あんた、ケンカ売っちゅーが?!
「お、おはようございます。実習2日目になります、う、うけしゅ大学、1年の白石です。
本日もよろしくお願いちまつ」
「『うけしゅ大学』って、受ける―。若いっていいわね」
昨夜、夫とケンカしてヤサグレてた気持ちがほぐれた。
ホント、若いっていいわね。
「田中主任さん、今、いいですか?
7号室の中村さんを受け持っている学生の白石のことなんですけど、昨日は、ご指導いただきありがとうございます。
ただ、今回実習は、1年の基礎実習なので現場の空気感を体験してもらうことが主な目的です。もちろん、病態の理解は重要ですが、質問は難易度を下げていただけるとありがたいです。
あ、今、白石が患者さんのところに昨夜の痛みについてお話を伺いに行っています。
本日も、よろしくお願いします」
何なの?!渡来先生も、アタシに学生指導をさせたくないわけ?専門学校卒だから?
1年生ぐらい、指導できるわよ。主任なんだから!
しかも、ベッドサイドに行くのに受け持ちナースじゃなくて、なんで教員に言うのよ!
イライラする!
夫とのケンカのせいか、湊斗の夜泣きのせいで寝不足だからか、今日も満足に朝食が摂れなかったからなのかは分からないけど。
「ちょっと、学生さん!ベッドサイドに来るなら、ちゃんと受け持ちに声かけてって、言われてないの?!
バイタルは?測るんじゃないの?血圧計は?はあ?手ぶらで来たの?」
やる気があるんだかないんだか分からない学生だわね。
「えっと、とりあえず話を伺おうと思ったので‥‥‥」
「言い訳はいいから!早く持ってきなさいよ。効率が悪いわね」
しょうがない、学生が戻ってくるまで待つしかないか。ああ、この時間で他の仕事ができるのになあ。
「昨夜は悪かったよ、ゴメン。僕も新しい仕事を任されててさ、余裕がなかったんだ。
でも、会社の先輩に言われたんだ。『出産前後の失言は、一生、根に持たれる』って。
だからってワケじゃないけどさ、明後日、二人とも休みだろ。
もう、母乳あげてないから、少しは吞めるんでしょ?久しぶりに外食しない?
湊斗もいるから、ファミレスになるけど」
やったー!
今日はすごくラッキーデーだわ。ほぼ定時で上がれたし、保育園では湊斗が「ママー」って駆け寄ってくれたし。
こういう日が続くといいなあ。
「田中主任さん、お忙しいところ、失礼します。今、お時間、1,2分ほど頂いても良いでしょうか」
「何?」
「この後のカンファレンスに出席されないと聞いたので、初日に質問された件について、レポートしたので、見ていただけたらと」
ほら!やっぱり学生もアタシの指導を求めてるじゃない。なのに伊藤さんってば、アタシが学生カンファに出るのを嫌がっちゃって。ホント、心が狭いわー。
それにしても、初日に質問って、何か言ったっけ?ああ、昨日、渡来先生も言っていたわね。
「え?ああ、そんなこと言ったわね。真面目ねえ。どれどれ」
へえ、すごいまとまってる。これで1年生?やっぱり大学教育ってすごいのね。
でも、アタシだって、臨床経験を積んでるし!主任だし!
頑張った学生さんは誉めてあげなきゃね。専門学校では、ほとんど褒めてもらう経験なんてなかった。それでも褒めてあげられるアタシ、偉いわあ。
「‥‥‥ふうん。よくかけてるわね。
やればできるじゃない」
ん?どうしてみんな、止まってるの?アレ?
顔色の悪くなった学生は、渡来先生に回収されて行った。
アタシに向かってきた師長さん、ちょっと怒ってる?
なんで?せっかく褒めてあげたのに。




