振り返りは大切です
「はーい!プリント、後ろに回してねー」
入学式から1か月ほどが過ぎて、高校までとは違って「看護学生になったんだなあ」と思うような授業が続いている。
今日は、渡来先生の「人体の構造と機能」の授業で、今、配られたのは人の身体の外枠だけ描かれたプリントだ。
「今日は、体幹部の内臓について記載してもらいまーす」
この人体図の中に、臓器をこの図の縮尺に合ったサイズで記載するのですって。
まずは、資料を見ないで描けって、無理じゃないかな。
肺、心臓、肝臓、すい臓、食道、胃、十二指腸、小腸、大腸、腎臓、膀胱、脾臓を、この限られた空間に配置することが、この授業のミッションだと言われますが……。
「簡単、簡単」とあちこちで声が上がる。
そうかなぁ。これだけの臓器を描き込むって、難しそう。
案の定、しばらくするとみんなも悩み始めた。
「え、胃ってそんな下だっけ?」
「だって、肝臓とかぶっちゃうじゃん」
「脾臓って1個だっけ?2個あるのは何だっけ?そもそも脾臓は何する臓器なの?」
確かに悩ましい。
高校時代、生物の教科書に載っていた人体模式図を見た時に、「グロいなぁ」と感じたけど、「そういうものだ」とも思ったし、それだけだった。
どこにどんな臓器があって、どんな機能か、なんてテストが終わったら忘れちゃった。
資料を見ずに、このミッションに挑むには看護学生1年目の初夏では難易度が高すぎた。
渡来先生も分かっていたようで、早々に模範解答を教室前の電子黒板に描き始めた。
「まずは、提示した臓器の中にはありませんが、横隔膜を描きます。横隔膜によって、胸腔と腹腔とに分けることで、目安が出来るからです。
横隔膜の頭側、つまり胸腔に配置されるのは、先ほどの選択肢の中では、肺と心臓、食道ですよ。
横隔膜より下には、消化管としては、まずは胃、十二指腸、小腸。
大腸は前から見ると、上に行って、横に移動して、下に下がって、くねっと曲がって真直ぐになったところが直腸で、出口の肛門へとつながります。
肝臓は右の上腹部に三角の形に描きます。大腸の前面です。
肝臓の裏に胆汁をためる胆のうがあります。
胃の後ろに隠れるようにすい臓があって、胆汁が流れる胆管と膵液が流れる膵管は十二指腸の出口に繋がっています」
待って、待って!
私の頭は追い付けない!
「腎臓で作られた尿が尿管を通って膀胱に溜められます。
脾臓は1個ですよ。左側腹部、膵尾部の横にあります。脾臓は、古くなった血球を壊したり、血液を蓄えたり、リンパ球の産制や血液中の遺物の除去など免疫に関する働きもしまーす」
渡来先生は、淀みなくしゃべりながら、手を動かして臓器を描き込んでいく。ときどきペンの色を変えながら。
そういうとこ、ちょっと尊敬し始めたのに、語尾を延ばす癖で台無しになる。
考えてみると、これだけの臓器が「身体」という空間の中に秩序正しく収められていて、なおかつ、それぞれ役割通りに機能しているって、身体って不思議で面白い。
そんなことを考えていたら、いつの間にか時間が経ったようでチャイムが鳴った。ざわめく教室内に渡来先生の穏やかだけど、はっきりとした声が響いた。
「はい、プリント回収しまーす。このプリントは、後でPDFにしてメールに送信するから保存しておいてくださいねー。
タブレットで描いても良いよー。お絵かきソフトで層別に描くと臓器の重なりが分かりやすくなるしね。
紙でも、電子でも、まずは今日、振り返りをするんだよー。早めに、繰り返しやることで、記憶に定着するからねー」
「紀亜、どうだった?」
声をかけてくれたのは、白石舞歌ちゃん。学籍番号が近くて、何かと一緒に行動することが多くて仲良くなった。
「人体の不思議について考えてた。
限られた空間の中で臓器がそれぞれの機能を果たすって、科学という名のロマンだよね。神秘的だねえ」
「この、つまんない授業にうっとりできるって、紀亜らしいね。
渡来先生、かっこいいのに、なぜか語尾を延ばすの、気にならない?似合ってるけど、気が抜けて眠くなっちゃうのよね。
それから、はいコレ。配られてた次回までの課題。
大学生になってまで宿題出すとか、マジ、無いよねー」
渡来先生への評価はちょっと厳しいけど、私の分まで課題をもらって来てくれるなんて面倒見がいい舞歌ちゃんからありがたくプリントを受け取って、私も帰り支度をした。
今日はこれから舞歌ちゃんと、なんとアフタヌーンティーに行くのです!
アフタヌーンティーに行くことを、「アフタヌーンティー活動」略してヌン活と呼ぶらしい。
今回のヌン活は、六本木!北海道のだだっ広い大地に木が六本、生えている場所じゃないのよ。本物の東京の六本木!私も都会のおしゃれ女子大生の仲間入りなんじゃない?
天気も良いし、予約の時間まで余裕があるから川沿いの道を歩くことにした。交通費をケチっているわけじゃないんだよ。
こういうの、“お散歩界隈”っていうんだって。
梅川の水は大都会東京を流れているとは思えないほど澄んでいて、水面にお日様がキラキラと反射する。だけど、この川の水、数年前まではすごく汚くて、夏には臭いもひどかったんだって。
この梅洲という地域を医療特区にするのに、KAIROSっていう生成AIを主力産業とした企業が出資して、川をきれいにしてくれたそうだ。その上、AIが無人運転する水上バスも整備したんだって。
舞歌ちゃんいわく、この地域で生まれ育った、昔の汚い川を知っている人はKAIROSに感謝しているらしい。
すごい会社だねえ。
横を歩く舞歌ちゃんは、ヒラヒラと淡い黄緑色のシフォンが揺れるかわいい系のワンピースを着ている。木漏れ日がキラキラして、時々、水上バスが行き交う水音が聞こえてきて、何だか幻想的。
「舞歌ちゃんは、森の妖精さんみたいにきれいだねぇ」
思わず、心の声が漏れ出た。舞歌ちゃんは、「そんなことない!」って真っ赤になってプリプリしているけど、そういう仕草も妖精さんみたいで可愛らしい。
「紀亜の方こそ!そんな地味な服着て黒縁メガネかけてるけど、ちょっと整えたら、絶対に可愛くなるのに!」とか、ブツブツ言っているけど、聞こえなーい。
初夏に差し掛かる日差しを遮る濃い緑の葉が茂る下を、舞歌ちゃんとおしゃべりしながら歩く。入学式のころは桜吹雪だったのにね。
そんな風景を前に絵を描いている人がいる。あ、あのおじいさん、左利きなんだな。うちのお兄ちゃんと同じだ。
そんな風にぼんやりと眺めていたら、おじいさんが左手に持っていた筆を落とした。拾おうとしたのか、でも、そのままゆっくりと身体が傾いでいった。
舞歌ちゃんと顔を見合わせて、慌てて近寄って声をかけた。
「大丈夫ですか?」
だけど、おじいさんは目の焦点が合わなくて、ぼんやりしている。何かおかしい。そうしている間にもおじいさんの身体はどんどん傾いていく。
こんな時、どうしたら良いんだろう……。
まだ、病気のことなんて、こんな時の対処なんてまだ習ってない。
心臓がドキドキする音が耳の奥で響いて、背中に汗がツーっと流れた。
さっきまでは木漏れ日がキラキラしていたのに、葉擦れの音が私の不安と焦りを搔き立てる。
それでも必死に、授業で習ったことを思い出そうとするけれど、どうしたら良いか分からない!
えっ?!この人、どうなっちゃうの?私、どうしたら良いの?!
気持ちだけが焦って、座ったまま倒れこむおじいさんを支えるので精いっぱい。
この状態のおじいさんをこのまま寝かせていいのかすら、分からない。
「誰か、誰か!助けてください!おじいさんが!誰か!」
気付いたら、必死に叫んでいた。
高校生の時、ショッピングセンターで受けたAEDの講習で救急救命士さんが、「人を呼べ」って、言っていたことを思い出したから。
看護学生なのに。こんな時なのに何もできないなんて……。
「どうしましたか?」
不安な気持ちを慰めるような優しい声がして、肩に乗せられた手の温かさを感じて、赤い革のトートバックが目に入った。
あれ、この人知ってる。
すごい美人。入学式で会った人だ。
確か同級生の星野芽衣さんの叔母さんだったっけ。叔母さんにしては若いと思ったんだった。
「おや、芽衣の同級生ね。看護学部の1年生か。よく頑張って声出したね」
美人さんも私に気付いたみたいで話し方がフレンドリーになって、私の肩をポンポンと叩きながら、優しい笑顔を向けてくれた。
何もできない自分の情けなさをわかってもらえた気がして、涙が出そうになった。実際に出ていたかもしれない。
そこからは早かった。
星野さんの叔母さんは、叔母さんというには若くてきれいな人だから、美琴さんと呼ばせてもらうことにした。
美琴さんは、おじいさんを寝かせて、声をかけた。
「わかりますかー?わかったら、右手を握ってください。
左手は握れますかー?声を出せますかー?」
おじいさんは、美琴さんに握られた右手は握れたけど、左手は動かないみたいだった。
他にもベタペタと、おじいさんの身体に触れた後、美琴さんはおもむろに空に向かって叫んだ。
「クストー!傷病者発見!救急隊を要請して!
ついでに、大学病院のERにも連絡して!」
すると、手足のないネコ型ロボットみたいな機械が、どこからかスーッと私たちの方に寄ってきた。
美琴さんは、さらに続けた。
「11時48分ごろ、梅川緑道で高齢男性が意識消失発作。
第一発見者は、看護学部学生。意識レベル、JCSⅡの10、呼びかけには反応するが発語なし。
橈骨動脈触知可。プルス128、不整あり、やや弱く左右差なし。呼吸12でやや浅いが喘鳴なし。
左上肢の掌握指示に反応なし、運動麻痺の可能性あり。
もともとの顔貌が不明だが左口角が下がっている印象」
ロボットに向かって、謎の呪文を次々と伝える美琴さん。
私たちがぼんやりと美琴さんの行動を眺めていると、直ぐに救急車が到着した。
そこからはさらに早くって、私の記憶はあいまいだ。
気づいたら窓の外には東京タワーがあって、三段重ねのティースタンドの前に舞歌ちゃんと並んで座っていた。
「なんにも出来なかった」
「うん……」
「いや、紀亜は、ちゃんとしてたよ。おじいさんを支えて、助けを呼んで」
「それだけだよ?」
「私は……なんにも出来なかった」
舞歌ちゃんは、沈んだ声でうつむきながら話してくれた。
「私の母親、専業主婦なんだ。
父親は、海外赴任してて、仕事で日本に来てもなかなか家には帰ってこなくって。だから、母は、いっつも浮気を疑って、文句ばっかり言ってるの。
あんな、腹が出たおっさん、だれも見向きもしなっていうのに。
でも、母がチクチク嫌味を言うから、父は仕事だけじゃなくて、気分的に家に寄り付かなくなってるんじゃないかな。
悪循環で、それがわかっているのに、私は結局何もできない」
舞りんは一人っ子だって言ってたから、お父さんとお母さんのネガティブなやり取りを一人で耐えてたんだね。
「私……母親みたいに、夫に依存する人になりたくなくて、手に職をつけたくて、看護学部に入ったの。
仕事を持つの、母は反対していたのに、それを押し切って看護大に来たのに。
でも結局、何もできなかった。やっぱり、私はダメなんだ……」
舞歌ちゃんが落ち込んでいる。
このまま、適当に慰めることもできるけど、それじゃいけない気がする。
こんな時、どうしたら良いんだろう。えっと、こういう時、お兄ちゃんならどうするだろうか。お兄ちゃんの仕事仲間の秀ちゃんやカナちゃんなら?
そうだ!
「振り返りをしよう!」
「えっ?」
「今日の授業の最後に渡来先生が言ってたじゃん。振り返りは『早めに、繰り返し』って」
おもむろにポケットからスマホを取り出した私に、舞歌ちゃんはさらにびっくり顔になった。
私は、過去にある出来事があって、それがきっかけで東京に来ることになったんだ。
それ以来、何か行動を起こすときには、スマホの録音機能を起動する癖がついている。
さっきの対応も、おじいさんに声をかける前に起動したので、美琴さんの声も録音していたのだ。
「ウチの兄はさ、妹の欲目を除いても、まあ、外見が整っているんだ。
その、兄がシスコンの心配性でさ、兄のファンというか、拗らせた人が私を兄の恋人と間違えて、言いがかりをつけられたり、意地悪されたりしたことがあって」
「それで録音?」
あれ?引かれちゃったかな。
実際には、兄のストーカーに暴力も振るわれたんだけど、重すぎるから割愛したのに。
録音は、心配したお兄ちゃん達が私のスマホに録音機能を設定してくれて、何度も練習したから癖みたいになったんだ。
そうそう、そんな私の身の上の話よりも、今日の振り返り!
私はワイヤレスイヤホンを取り出して、片方を舞歌ちゃんに渡して録音を再生した。
美琴さんの謎の呪文の解析をするのだ。さすがに、高級ホテルのラウンジで、そのまま再生できないからね。
だけど、何回聴いても、分からない単語ばかりで、二人だけの検討では早々に行き詰まってしまったのだった。




