カルガモ行進の朝
「で?紀亜は何に腹を立てたんだ?」
あの後、険悪なムードに耐えかねた尾崎さんは帰ってしまった。
私は、尾崎さんに怒りをぶつけてしまったけど、すっきりなんて全然しなくて、ずっとモヤモヤした気持ちを抱えていた。
それは、舞りんも絹恵さんも同じみたいで、複雑な気持ちと思われる表情をしていた。
私たちは、洗髪練習でグループが使った道具やベッドを片付けてから、お見舞いにと保健室へ寄ったけど、佐藤さんは既に帰宅したと言われた。
いつもならカフェ○○に寄っておしゃべりするところだけど、私たちは早々に帰宅した。
私が帰宅すると、エプロン着けた秀ちゃんが晩御飯を用意して待っていてくれた。
帰宅した私の顔を見て何かを察した秀ちゃんは、私に冒頭の問いかけをした。
さすが、私が4歳のころからの付き合い。
秀ちゃんは、仏頂面の私の顔を見て、私が怒ったけど、それに納得していないことまでを理解してくれた。
だけど、自分の気持ちを説明できる気がしなくて、それでも聴いてほしくて。
とはいえ、面と向かっては話せる気がしなくて、洗面台での洗髪練習に付き合ってもらうことにした。
リビングから持ち込んだ椅子に座ってもらって、秀ちゃんの髪をブラシで梳かしながら、今朝からの出来事を、順を追って話してみた。
緊張して、咄嗟の時に出る佐藤さんの土佐弁が可愛かったこと。
でも、指摘したら標準語になっちゃって、ちょっと残念に思ったこと。
患者役に立候補したのに、絹恵さんに上手くアドバイスできなかったこと。
顔色の悪さには気付いたのに、倒れるまで佐藤さんの体調不良に気づけなかったこと。
舞りんが佐藤さんを心配して、尾崎さんと衝突してしまったこと。
絹恵さんが、あんな風に誰か感情をぶつけるのを初めて見て驚いたこと。
尾崎さんのイライラに、きちんと向き合おうとしなかったこと。
そして、自分の気持ちが整理できないまま、尾崎さんにぶつけてしまったこと。
あの時は、自分の感情を「怒っている」と思ったけど、今はどう表現したらいいか分からない。
話ながら、洗面台のシャワーを出して、肘で温度を確認する。
実習と同じように、使い捨てのゴム手袋をしているから、指先だと温度が分からないんだ。
黙って聞き役に徹してくれている秀ちゃんに前かがみになってもらって、頭全体にお湯をかける。
そうだよ。
手袋しない手で患者役の尾崎さんの首筋に触るなんてやらないよ、普通。
本当に調子が悪かったんだな、佐藤さん。
洗髪の手順をなぞって実際に行っていると、ふらつきながらも頑張っていたんだなと思う。
「ソコじゃない?」
え?
ずっと黙って付き合ってくれていた秀ちゃんの声にびっくりして手が止まった。
「紀亜は、佐藤さんの体調不良に気付けなかった自分に腹を立てたんじゃない?」
そうなの、かなあ・・・・・・。
「夏フェスの時、ハッチの体調不良に気づいたのは、紀亜自身がステージ前の緊張を楽しんでたし、普段のハッチをよく知ってたからだろ。
看護学生だからって、身近な人の体調不良のすべてを把握するなんて神業、目標が高すぎるんじゃない?」
秀ちゃんに言われて、ストンと腑に落ちた。
そっか・・・・・・。私は、私に腹を立ててたんだ。
私は、シャンプーを手に取ってゴム手袋をはめた手で少し温めてから、秀ちゃんの髪につけた。
農業をしている時は後ろに一つに結んだ秀ちゃんの髪は、羨ましいくらいサラサラしている。
「シャンプーはさ、髪じゃなくて、地肌につけてよ」
そうなの?!そっか、だから絹恵さんのシャンプーが物足りなかったんだ。
私は、舞りんの手つきを思い出しながら、指の腹を使って秀ちゃんの頭皮をマッサージするように洗ってみた。
「お、そこ!気持ちいい」
なるほど。こめかみのあたりだね。では、頭頂部は?
「そっちも、気持ちいいよ」
しっかりマッサージしながら洗った泡を流そうとしたその時、聞きなれたもう一人の同居人の声がした。
「お前ら、会話だけ聞いてたら、何だか卑猥だよ」
不意に登場したお兄ちゃんの言葉にびっくりして、洗面所を水浸しにしたのは、私が悪いわけじゃない!
たぶん・・・・・・。
昨日の夕食は、秀ちゃんが作っていてくれた私の大好きな豚の生姜焼きと千切りキャベツだった。
焼いた豚肉の脂と生姜焼きのタレがかかったキャベツは千切りが細いほど美味しい。
千切り、大変なんだよね。でも細い方が好き。とんかつ定食についているようなキャベツ。
美味しかったなあ。
そんな現実逃避をしている私は、実習着で学生ラウンジの入り口に立っています。
今朝、更衣室で舞りんと一緒になったところまでは、良かったんだけどなあ。
お互いに朝の挨拶をして、昨日のことには触れないままに待ち合わせのラウンジに来てみたら、尾崎さんがどっかりと座っていた。
「機嫌が悪いです」と表情が物語っていたので、昨日よりもヒートアップしそうな舞りんをなだめつつ、絹恵さんと佐藤さん、引率の渡来先生を待っているところなのだ。
「中に入らないのですか?」
絹恵さーん!待っていたよ。
だけど舞りんは、「仲間が来た!」みたいな顔してる!
「入り口をふさいでたら、ほかのグループの方が入れませんし、寒いですから入りましょ。
ああ、尾崎さん。お早いですね。
あら?何だか不機嫌そうですね。何かありました?」
尾崎さんと舞りんは、絹恵さんの言葉が予想外だったからか、まさにハトが豆鉄砲を食らったような顔をした。
絹恵さんてば、すごい!
登場から数十秒で、尾崎さんと舞りんの両方のイライラを吹き飛ばしちゃった!
「あー、間に合った!」
「佐藤さん!体調どう?今日は――顔色、良いけど」
こちらもすごいタイミングでラウンジに駆け込んできた佐藤さん。走って来たせいか、昨日に比べて頬が紅潮していて顔色が良く見える。
「うん!昨日はお風呂でしっかり温まって、早めに寝たの。今朝は、ちゃんと朝食も食べたんだ。簡単に納豆ごはんとレトルト味噌汁だけど。
だから元気!ごめんね、迷惑かけて。尾崎さんも・・・・・・」
「あ、俺……」
「お、みんな揃っているね。佐藤さんも今日は体調大丈夫そうかな。
はい、みんな体調チェック表、出してねー」
渡来先生の登場で、尾崎さんが何か言おうとしたのに、流れちゃった。
「はい、じゃあ整形外科病棟の実習チーム、出発しまーす」
梅洲大学病院は、看護学部と同じ敷地の中にある。
私たちは、看護学部から渡来先生の後ろを二列縦隊でてくてく歩いてる。
何だかカルガモ親子の引っ越しみたいね。
「それにしても、元気になってよかったよ」
「心配かけてごめんね。一人暮らしに浮かれて、好き勝手に生活してたツケが回ってきたみたい。
倒れて初めて、お母さんのありがたみがわかったよ」
「佐藤さん、土佐弁が出ませんね」
舞りんと佐藤さんの会話を聴いていた絹恵さんが、私と同じ感想を言った。
「俺のせいじゃないぞ」
後ろから声がした。尾崎さんの独り言かな。今は反応する気になれないけど。
佐藤さんの標準語は、尾崎さんの言う通りかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
私たちが微笑ましいと思った言動が、佐藤さんに影響しているかもしれないし。
そんなことを考えている間に、カルガモの隊列は病院の職員通用口に着いた。
病院の入り口と職員用エレベーターホールの自動ドアは、セキュリティロックがかかっていて、病院職員や教員のIDカードがないと入れない仕様になっているんだ。
「おはようございます。今日からお世話になる1年の基礎実習生です。師長さんか伊藤補佐さんはいらっしゃいますか?
「あらあ!渡来先生。久しぶり!成人なのに基礎の実習指導?下っ端は大変ねえ」
渡来先生が丁寧なあいさつをしたところに、元気のいい小柄な看護師さんから声がかかった。
確かに、今回の実習は基礎看護学だけど、人手が足りないらしくて、成人看護学講座の渡来先生が駆り出されているらしい。
でも、この人、言い方が引っかかるなあ。悪意はなさそうだけど、わざわざ「下っ端」とか言わなくていいのに。
「ああ、田中主任。復帰されたんですね。ご出産、おめでとうございます。
それで、師長さんか伊藤補佐さんは?」
「まあ良いじゃない。復帰したばっかりで、私、受け持ち患者が少ないから余力あるのよ。情報収集も終わっちゃったし。病棟内、案内するわよ」
提案ではなく、決定事項みたいに言って動き始める。押しが強いなあ。
「あら、さすが田中主任ね。情報収集が終わって余裕があるなら、物品庫の在庫チェックをお願い。そろそろ年末だから大掃除を視野に整理したかったのよ。助かるわあ。
学生さんは、伊藤補佐にお願いするから安心してね」
おお。田中主任以上に押しが強い師長さんだ。
ふと見ると、渡来先生がちょっとホッとした顔してる。
「おはようございます。当病棟で実習指導責任者をしています、師長補佐の伊藤です。
今回は、3日間と限られた時間ですが、皆さんが今の段階で出来るだけ多くの学びが得られるよう、支援します。どうぞよろしく。
今日は、夜勤から業務の申し送りだけ聞いてもらいます。
スタッフが患者ごとの申し送りをしている間に、病棟内の説明をして、カルテを確認してから受け持ち患者さんへご挨拶へ行きましょう」
田中主任さんよりも若く見える伊藤補佐さんは、キリッとしていて頼りがいのあるお姉さんの印象。
だけど、笑顔で声をかけてくれたので、私たちの緊張も少しだけ楽になった。
「それでは、これから申し送りを始めます。まずは業務連絡から。
夜勤帯での転倒転落やインシデントはありませんでした。
先日の師長会議議事録がファイルに入っています。各自で確認してサインをしてください。
病院ホールで行う、恒例のクリスマスコンサートのコーラス募集が来ていました。参加希望者は掲示のQRコードから申し込んでください。以上です。
師長さん、お願いします」
夜勤ナースからの業務申し送り、低い声で早口だから、気を付けてないと聞き逃しちゃいそう。
でも、学生が関係することはあまりなさそうだ。
病院ではクリスマスコンサートがあるんだね。患者さん向けかな。
そういえば、吹部の玲ちゃんも演奏するって言ってた気がする。
そんな風に、思考を飛ばしていたら、注目が集まっていた。師長さんが紹介してくれたんだ。
「今日から梅洲大看護学部の学生実習が入ります。学生さん、ご挨拶を」
「おはようございます!本日から3日間、実習をさせていただきます梅洲大学看護学部、1年の佐藤萌絵と申します。初めての病棟実習で緊張しちゅうが・・・・・・あ、よろしくお願いします」
佐藤さん、方言がちょっと出ちゃった。
「あれ?学生さんは、高知出身?私もなのよ!先月まで、育休で帰っちょったがよ」
「田中主任、それは後でね。佐藤さん、ご挨拶、ありがとう。じゃあ、学生さんたちはカンファレンスルームに移動しましょうか」
田中主任さんは、同郷だって嬉しそうに話してたのに、「学生さん」呼びだった。
伊藤補佐さんは、ちゃんと「佐藤さん」って個人を認識してくれていたのは、自分事じゃなくても少し嬉しかった。
「さすが同期。田中さんの扱いが上手ですね」
「まあね。腐れ縁だからさ」
ナースステーションを出るとき、渡来先生が伊藤補佐さんに声をかけた。
え?伊藤補佐さんの方が若く見えたけど、同期なんだ・・・・・・。
看護師さんって、年齢不詳な人、多いよなあ。
伊藤補佐が先頭、渡来先生が一番うしろになって、私たちはカルガモ行進隊列で、病棟内を案内してもらった。
昨日、学内で練習した洗髪台とか、シャワー室の場所、清拭の時のタオル類の置き場や使ったタオルを片付ける場所をざっくり教えてもらった。
「一度聞いただけじゃわからないと思うから、実際のケアはその日の担当ナースに声をかけて、一緒に行ってくださいね」
そりゃそうだ。初めての病棟実習で指導者さんがいないのに、患者さんへのケアなんて、できる気がしない。
病棟案内を終えて、カルガモ隊はカンファレンス室へ案内された。
そこで、カルテへのアクセスの方法を教わった。
私たちは、カルテに記載することはないので、学生専用の閲覧しかできないカルテでも、もらったIDとパスワードでアクセスするんだ。
学内で一通り教わっていた、カルテの閲覧操作を確認しながら、伊藤補佐さんが私たちの受け持ち患者さんを一人ずつ疾患や今の状態、職業や家族構成などを教えてくれた。
カルテを見ながらとはいえ、5人の患者さんの状況をスラスラ話してくれて、すごいなあと思った。私もいつか、あんな風になれるんだろうか。
・・・・・・いかん、いかん。今はカルテからの情報収集に集中しなくっちゃ。
そうして、しばらくカルテと向き合っていた私たちに、伊藤補佐さんが言った。
「では、受け持ち患者さんのベッドサイドに行って、紹介しましょう」




