悪辣なる慈悲
ルルルの身体が、動かなくなった。
「……ル」
無意識に、ただ名前を繰り返し呼んでいた。
「……ルル」
声が喉に引っかかる。
呼べば、返事が返ってくる気がした。
いや、返ってきてほしかった。
いつもみたいに。
「うるせぇナァ」とか「おいドン草」とか。
ふざけた声で、当たり前みたいに起き上がってほしかった。
「――ルルル!」
返事はない。
床を赤く染める血溜まりが、じわじわと大きくなっていく。
ルルルの腹部を押さえた手の隙間から、赤黒いものが静かに滲み続けている。
さっきまであれだけ軽く笑って、あれだけ強く戦っていた人が。
オレなんかよりずっと強いと思っていた人が。
今は、石床の上で力なく横たわっている。
冷たい石の匂い。
焦げた空気の匂い。
血の匂い。
全部が混ざって、喉奥に張りついた。
「ルルル…聞こえてるでしょ? ねぇっ……!」
感情のままに肩へ手を伸ばしかけて、怖くなって手を止めた。
揺らしていいのか分からない。
動かしていいのか分からない。
傷口を押さえればいいのか、触らない方がいいのか。
何をすればいいのか、何も分からない。
下手なことをしたせいで、オレが死なせてしまうかもしれない。
その考えが、指先を凍らせる。
また、 “失う”のかもしれない。
村の光景が、頭の奥でちらついた。
倒れた人。
戻らない人。
自分が助けられなかったもの。
そして、どこかでそれを喜んでしまった自分。
――いや。
違う。
今回は違う。
今度は、そんな感情なんてない。
それなのに、そう言い切れる自分に、またある種別の気持ち悪さも覚える。
けれど、今はそんなことを考えている場合じゃない。
違うものは違う。
今度は、あの時とは全く違う。
こんなのは、絶対に嫌だ。
せっかく仲良くなれた。
やっと、こんなにも気の合う人と出会えた。
訳の分からない世界で、馬鹿みたいな軽口を叩き合える相手ができた。
やっと――仲間と呼べる相手ができた。
なのに。
なのに、また目の前でいなくなるのか。
「ルルルっ……!」
涙が落ちた。
感情が溢れた、というものではない。
身体が勝手に、終わりに備え始めたみたいな感覚だった。
熱いのか冷たいのかも分からない。
ただ頬を伝って、顎から落ちて、ルルルの服に滲んだ。
その時だった。
ゆっくりとした足音が聞こえて来た。
こちらの絶望を楽しむような、余裕のある足音。
それは近づいてくる。
一歩ずつ。
わざとらしいほど、ゆっくりと。
「――間違いねぇな」
その声に、オレは顔を上げた。
ヴァル・モクスフッドが、こちらを見ていた。
あの凶面に、愉しそうな笑みを貼り付けている。
見るだけで喉が詰まるような顔。
なのに、その目はどこか確認するように、オレを舐め回していた。
「これのことか」
「……」
「ケッ。面白れぇ」
ヴァルはオレを見て笑った。
この状況で、無様にもただ座り込むことしかできないオレを見て、笑った。
……嗤われた。
でも、その目は一瞬、オレではない何かを見ているようにも思えた。
「おい、てめぇ。せっかく会えた記念だ」
ヴァルは愉快そうに口元を歪める。
「プレゼントを選ばせてやる」
「……は?」
「そんな警戒した面すんなよ。俺をそんなに興奮させたいかぁ?」
そう言って、ヴァルはオレから視線を外した。
「あそこで横たわってる金髪と――」
ヴァルの視線の先には、ブラドリーナがいた。
オルディアンが抱えたまま、動かない彼女。
「てめぇが必死こいて名前呼び続けるそいつ」
そして今度は、オレの目の前で倒れているルルルを見る。
「どっちかだけ助けてやる。――だから、選べ」
「……」
意味が分からなかった。
――否。
意味が分からないと思ったその直後に、分かってしまった。
こいつは、今、「命を選べ」と言っている。
助ける命をひとつだけ選べ。
それをオレが決めろと。
「……」
ブラドリーナは、とても真っ直ぐな人だったと思う。
そんなに長く一緒にいたわけではない。
それでも分かる。
会議の場でも、決闘の場でも、彼女の行動には一貫して彼女なりの信念があった。
短い間ではあるけれど、尊敬できると思った瞬間もあった。
でも同時に。
彼女は、オレの言葉を信じてくれなかった。
オルディアンの発言を――記憶を信じ、派閥ブラドリーナの代表として、オレたちと敵対することを選んだ。
結果として、決闘という形にまでなってしまった。
別にそれを憎んでいるわけではない。
彼女なりの正義があったのだろう。
背負っているものもあったのだろう。
それは分かる。
けれど、分かることと、納得できることは違う。
もっとちゃんとオレに向き合ってくれてもよかったんじゃないか。
あんな乱暴な形になる前に、それこそ派閥代表として、オルディアンを止められなかったのか。
そんな気持ちが、どこかに残っている。
――だから、心の底から助けたいと言えるほどの存在には、正直なっていなかった。
一方で、ルルルは。
ルルルは、仲間だ。
初めて会った時から妙に気が合って。
馬鹿みたいにふざけ合えて。
何も考えずに笑い合える相手だった。
ルピナスも大事な仲間だ。
ルピナスは、尊敬できる。
格好いい。
オレの前を走っていて、いつか追いつきたいと思わせてくれる人だ。
でも、ルルルに対して抱いている親しみは、それとは少し違うものだ。
前を走る誰かではなく、隣で同じ歩幅を合わせてくれるような相手。
横を向けば、そこにいて。
くだらないことを言えば、くだらないことで返してくる。
そういう相手だった。
だから、この陰湿な問いの意味が分かった瞬間。
答えは、最初から決まっていた。
「――ルルルを」
自分でも驚くくらい、迷いのない発言だった。
「ルルルを助けてよ」
「……」
短い沈黙。
ヴァルが、ほんの一瞬だけ口元の笑みを消した。
その反応が、逆におかしかった。
こいつは、オレに悩ませたかったのだろう。
どちらも選べずに迷い、泣き、壊れるところが見たかったのだろう。
でも、オレは迷いなく答えた。
それが気に入ったのか。
気に入らなかったのか。
ヴァルは口元を歪める。
「クァハッハ」
低く、性根の悪さが滲むような笑いだった。
「なかなか面白ぇ奴じゃねぇか、てめぇ。流石にもう少し悩めよ。
あっちの不憫な番犬が浮かばれねぇだろ」
ヴァルがちらりとオルディアンの方へ視線を向ける。
けれど、オレはそちらを見なかった。
見られなかったという方が正しいかもしれない。
こんな発言をした後で、オルディアンと目が合ったら。
自分がどんな顔をすればいいのか分からなかった。
だが、今はそれよりも――
「助けてよ」
「あ?」
「ルルルを助けてって言ったんだよ。お前が言ったんだろ?」
ヴァルは少しだけぽかんとした顔をした。
そして次の瞬間、腹を抱えるかのように笑い出す。
「あぁ、どっちも助けてやるつもりはないんだがなあああ!」
耳障りな笑い声が、この地下の広間全体に響いた。
オレの心の奥を、名状しがたいどす黒いものが、じわじわと蝕んでいく感覚。
「――だってよぉ」
ヴァルはわざとらしく笑い涙を拭う仕草をする。
「選択肢のひとつは、とっくに死んでるからなぁ」
その言葉に、オルディアンの肩がびくりと跳ねた。
ブラドリーナを抱えたまま、彼は顔を上げない。
もうとっくに気づいていたのだろう。
彼女の――ブラドリーナの歩みが、そこで途絶えていたことを。
「……ふざけるな」
声が震える。
「ふざけるなよ……」
「ふざけてるさ。終始な」
ヴァルは当然のように言った。
「本気でやってたら、ここにいる奴らは全員、もう喋れてねぇよ。
――そこにはもちろん、てめぇも入ってることを忘れんなよ」
少し離れた場所では、ルピナスが膝をつき、荒く息を整えている。
ヴァルが攻撃を止めている今、彼女も無理には仕掛けない。
休んでいる。
いや、休まなければ動けないほど追い込まれているのかもしれない。
考えれば考えるほど、全部がヴァルの思うままに見えた。
その時だった。
「――うわあぁぁぁ、これが走馬灯ってヤツカーー!」
沈みきった空気をぶち破るように、場違いな声が跳ねた。




