ルルル・ネフリ
――ワタシは誰なのだろう。
そもそも、自分のことをワタシと呼んでいたのかさえわからない。
ただ、今の自分にはそれが一番しっくりくるというだけ。
✦✧✦
さがしていた。
ずっと、何かをさがしていた――。
夜だった。
湿った土の匂いがしていた。
木々の間を抜ける風が、濡れた葉を擦らせる音がした。
遠くで水が落ちるような音も聞こえた。
それが小川の音だったのか、崖下のどこかで雫が滴っていただけなのか、今となってはもう分からない。
ただ、暗かった。
人の気配がある場所からは、もうずいぶん離れていた。
街灯なんてものはない。
手に持った小さな明かりだけが、頼りなく足元を照らしていた。
けれど、その明かりも徐々に弱くなっていく。
残りがどれほど持つのかも分からなかった。
いわくつきの場所――。
そんな噂がある場所だった。
誰もいないのに女の声が聞こえる。
幽霊が出る。
来たはずの道が消える。
ここではない、まるで別の世界のような場所に繋がっている。
そんな噂だけが、湿気みたいに溜まっている場所。
馬鹿みたいな話だ。
けれど、そんな風聞を信じていた人がいた。
いや、信じていたというより、信じたかったのかもしれない。
「―――!」
名前を呼んでいた、と思う。
たしかに、誰かの名前を呼んでいたはずだった。
けれど、その音だけがはっきりと思い出せない。
喉の痛みは残っている。
何度も何度も叫んだ感覚はある。
胸の奥が焦げるような焦燥も、まだそこにあった気がする。
なのに、名前が欠けている。
まるで記憶の中で、その一音だけが黒く塗り潰されているみたいに。
「どこだよ……!」
そう叫んでいた。
「返事しろよ!」
返事はなかった。
木々の影が揺れる。
暗がりの奥で、何かが動いたように見える。
近づいてみれば、ただの枝だった。
揺れる草だった。
風でずれた影だった。
足元は悪い。
ぬかるんだ土。
苔の生えた石。
落ち葉の下に隠れた段差。
昼間なら簡単に避けられたはずのものが、夜の闇の中ではただの黒い穴に見える。
こんな場所にずっといたら、頭がおかしくなってしまいそうだった。
それでも、止まれなかった。
早く見つけなければいけない。
なぜそこまで必死だったのか。
なぜ一人でこんな場所まで来たのか。
なぜ、放っておけなかったのか。
その理由はもう曖昧だ。
けれど、奥の方に感情だけはまだ残っている。
見つけなければ。
手を、取ってあげなければ。
まだ間にあうはずだ。
そう思った。その時だった。
足元が崩れた――。
「――っ!?」
地面があると思って踏み出した場所に、地面がなかった。
土が滑る。
小石が跳ねる。
バランスを崩した身体が、そのまま前に傾く。
咄嗟に手を伸ばした。
指先が細い枝を掴む。
けれど、その枝はあまりにも頼りなく、簡単に折れた。
世界が傾く。
足が空を蹴る。
ありもしない足場を探して、何度も虚しく宙を掻く。
落ちていく。
その事実だけが、遅れて頭に届く。
肩が岩にぶつかる。
痛い。
けれど、そこを押さえる余裕なんてない。
次に背中。
次に膝。
ついには、どこかで腕が嫌な方向に曲がった気がした。
闇と岩肌と枝葉と夜空が、ぐちゃぐちゃに入れ替わる。
何にぶつかっているのかも分からないまま、身体だけが斜面に削られていく。
叫ぼうとした。
けれど、声になる前に、全身が何か硬いものへと叩きつけられた。
落下が止まった。
世界も止まった。
全身の感覚が、遠のいていくような感覚。
視界の端に、赤いものが広がっている。
最初は、それが何なのか分からなかった。
だが少し遅れて、自分の血だと理解する。
理解した瞬間、痛みが一気に押し寄せた。
「ぁ……ッ…!」
息ができない。
身体が動かない。
意識だけが、暗闇の底でかろうじて繋がっている。
何もできず、流れ出す自らの血をただ眺める。
赤い筋が地面を伝い、それが地面に刻まれた謎の模様に触れたのが見えた。
見たことのない紋様だった。
魔法陣。
そんな言葉が頭をよぎる。
複雑な線。
円のような図形。
記号のような文字のような、読めそうで読めない何か。
自分の血がそれに触れたのと同時に、紋様が呼応するように光ったように見えた。
意味が分からなかった。
だがそれが何なのかを考える前に、ワタシの意識はそこで途切れた。
さがしていた名前を、もう一度呼ぼうとした。
けれど、それはもう声にはなってくれなかった――。
✦✧✦
次に目を開けた時、ワタシは赤子だった。
最初は、意味が分からなかった。
「……?」
視界がぼやけている。
天井らしきものが見える。
誰かの顔らしい影が、ぼんやりと近づいてくる。
身体が、思った通りに動かない。
手を動かそうとしても、指は短く、力も入らない。
喉から声を出そうとしたら、言葉ではなく情けない泣き声だけが出た。
なんなんだこれ。
そう思った。
赤子の身体の中で、赤子ではない何かが、そう思っていた。
明らかにおかしい。
普通に考えれば、理解できる状況ではない。
けど、どこかで聞いたことがあった。
身近にいた人が、好んで見ていた物語。
なんとなく横で眺めていた、ファンタジーだとか異世界だとか、そういう話。
記憶は曖昧だった。
けれど、その概念だけは残っていた。
これは、いわゆる“転生”と呼ばれるものなのだと。
そう理解するまでに、あまり時間はかからなかった。
「あ、目が覚めたのね~。ルルル」
女の人の声がした。
柔らかい声だった。
大きくもなく、急いてもいない。
ただ聞いているだけで、こちらの呼吸まで穏やかになるような声音。
焦りも、騒がしさもない。
この人が、母親らしい。
「おお、起きたか。ルルル、ほら、パパパだぞー!」
今度は大きな顔と、大きな声が覗き込んできた。
図体のでかい男だった。
目尻に笑い皺があり、口元がだらしないくらい緩んでいる。
大きな手が、こちらへそっと伸びてくる。
「べろべろべろ~」
何をしてるんだ、この人は。
そう思ったけど、口から出たのは泣き声だった、
父親らしきその人は、なぜかものすごくうれしそうに笑った。
「おお、元気だなぁ。いいぞいいぞ。いっぱい泣いて泣きまくれ、泣き散らかせ。
でっかくなれよ~」
隣で母親も小さく笑う。
「この子、あなたに似たら本当に大きくなるかもしれないわね」
「身長抜かれちゃったりしたらちょっとへこむかもな~。
でも、元気に大きく育ってくれるのはいいことだ!」
「この子が大きくなりたいって思うかは分からないけどね~」
「思うさ。な、――ルルル」
そう言って、父親がまた顔をぐいっと近づけてくる。
ルルル。
それが、この身体のワタシに与えられた名前らしかった。
でも、この身体の中にいるワタシは、本当にルルルなのだろうか。
ワタシではないワタシの意識が、確実にある。
ワタシはいったい誰なんだろう。
ルルルなのか。
それとも、別の誰かなのか
名前も、顔も、住んでいた場所も、どんな声で話していたのかも、ほとんど思い出せない。
ただ、何か大事なことをしていた気がする。
何かを。
……誰かを。
さがしていた、気がする。
でも、それが何だったのかはもう分からない。
胸の奥に、空洞のようなものだけが残っていた。
そこに何が入っていたのか分からないまま、ワタシは『ルルル・ネフリ』としての人生を生き始めた――。




