あの日常へ
気がつくと、オレは椅子に座っていた。
入り混じるざわめきに、オレは迎え入れられた。
誰かの笑い声、紙の擦れる音、机を引く音。
遅れて届いたのは、鼻先をくすぐる木の匂い。
目の前には、机がある。
少し傷んだその木の天板には、見覚えがある。
どこか朧な、見慣れた空気。
ゆっくり顔をあげてみると、そこは教室だった。
「は…?」
村の公民館のように多目的に使用され、職探しの講義にも使われていた建物。
将来の仕事だの社会人としての意識だの、そういう鬱陶しい話を聞かされていた、あの場所だった。
「――どうした? アイト」
オレの声に反応して、すぐ隣に立っていた男がぐいっと顔を覗き込んできた。
知っている顔。
馴染んだ顔。
名前も、忘れるわけがない。
村で最も親しくしていたから。
なのに、その姿を見た瞬間、言いようのない嫌悪と懐かしさが同時に押し寄せる。
「……なんでもない。大丈夫だよ。――ドリオー」
またここか……。
真っ先に浮かんだのは、そんな感情だった。
嫌だった日常、抜け出したかった場所。
あの頃に、戻されている……。
その事実だけで、呼吸が浅くなった。
本来なら、まずこの不可思議な現象に驚くべきなのだろう。
なのにオレの心を占めているのは、「またあの人生へ戻されるのか」という拒絶感。
……そんなことを真っ先に考えてしまう自分も含めて、ひどく薄気味悪い。
「……本当か? ならいいけどよ」
そうぼそりと言って、どこか遠くを見つめるドリオー。
何を考えるでもなく、オレもつられて窓の外の方へと視線を流す――そしてすぐに、この世界の“違和感”に気づいた。
「ドリオー」
「ん?」
「――今って、まだ昼過ぎくらいだよね?」
「そうだけど……。それがどうした?」
まだ明るいはずの時間帯なのに、空の高い所に月が浮かんでいる。
しかも、それは現実離れした大きさで、黒く不吉な満月。
不自然に輪郭のはっきりした月が、昼の空に貼りついていた。
さらに、教室の前の壁際。
そこに、本来はないはずの扉が、ひとりでに立っている。
古びた木の扉、教室の造りにはまったく馴染んでいない。
まるで誰かが後から適当に立てかけたみたいに、不自然にそこにあった。
適当に視線を巡らせていると、廊下の先や窓から見下ろした外にも、同じような奇妙な扉がいくつか見えた。
「夢幻の世界…的なやつかな?」
絶対に現実ではない。
そう考える方が自然だった。
少なくとも、時間が巻き戻されたというわけではなさそうだ。
……よかった、と心の底からそう思ってしまった。
自分の身体を見下ろす。
手は動くし、足もあるし、感覚もある。けれど、どこか“入っている”感じがした。
自分で自分を動かしてはいるのだが、少しだけ距離がある。
追体験、とでもいうべきか。
あの日の自分の中に入り込んで、それをなぞっているような、妙な浮遊感。
「あ? ムゲン…? なんだって?」
横からつつかれて、意識が戻される。
ドリオーが怪訝そうにオレを見つめていた。
「ごめんごめん、こっちの話」
「お前今日変だぞ。疲れてんじゃねぇのか?」
「そうかも」
この夢世界が理解しきれてない以上、むやみに騒いでも仕方ない。
オレは一度深く息を吐き、彼の会話に適当に相槌を打ちながら、頭の中では別のことを考えていた。
「――アイトくん、ちょっといい?」
そこへ不意に割り込んできたのは、心をざらつかせる声だった。
恐れとも、警戒とも、嫌悪ともつかない嫌な感覚が胸の奥を掻きむしる。
思わず背筋が強張り、オレは反射的に振り向いた。
「……」
「今日、一緒に帰らない?」
――エレナ。
オレが勝手に物語のヒロインみたいな役を期待して、そして勝手に裏切られたような気になっていた、ただの村の少女。
「おー、デートのお誘いかあ? 大胆だなあ」
「ドリオーくんは黙ってて」
ドリオーを制しつつ、エレナは「どうかな?」とオレをじっと見つめてくる。
けど――。
「……ごめん、今日は用事があるから。オレは一人で帰る。
エレナはレンとでも一緒に帰りなよ」
きっと今、オレはひどい顔をしている。
まるで気色の悪いものでも見るように、恐れと嫌悪を浮かべた顔を彼女に向けている気がする。
「…え? それってどういう意味?」
「どうもこうもないよ。 “レン”と一緒に帰ったらどう? って言ってるの」
性格が悪いなと、自分でも思う。
でもこれが、良心の呵責が許すギリギリのラインでの、拭えないざらつきへの抵抗なのだ。
「……。そっか~、残念。じゃあまた今度ね」
込み上げた苛立ちを押し隠すように、エレナは足早に教室を出て行った。
「アイト……お前…」
「――ごめん、じゃあ今日はオレ先帰るから。また……いや、じゃあね」
今、ドリオーはどんな目でオレを見ているんだろう。
気にならないわけではなかったが、それでもあえて彼の顔の方は見ないまま、教室を後にした。
今はそんなことを気を取られている場合ではないのだから――。
あの石台の言葉。
意味は分からないが、きっとこれが石室から出るための試練の場なのだろう。
だとしたら、どこかに脱出の道があるはずだ。
「まずは……」
村の中に本来なかったはずの、不気味な扉。
どう考えても、あれが一番怪しい。




