もう一つの帰路
――ところ変わって、わずかばかり時を置いた頃。
セントラディア中心部の外縁では、すでに街の喧騒は遠ざかっていた。
色石を組んだ建物が並ぶ大通りは、もうとっくに背後にある。
商店の明かりもまばらになり、道はやがて整然と舗装された路面から、都市の外れへと続く平石敷きの道へと変わっていった。
片側には、都市を囲む水路が見える。
その輪郭は、よくある堀のように緩やかな弧を描いてはいない。
直線のまましばらく伸びたかと思えば、少し先で鋭く折れており、まるで巨大な図形の一辺をなぞるような形だ。
夕暮れの名残を沈めた水面は暗く、ところどころに灯りを映して鈍く揺れていた。
反対側には建物はなく、等間隔に立つ数少ない街灯だけが、頼りない光を通りに落としている。
そのさらに奥には、木々の暗がりが広がっていた。
そんな人気の薄れた石道を、一台の小さな車両が進んでいた。
だが、その先頭に馬の姿はない。
狼や、大型のトカゲのような生き物もいない。
代わりにその車両を引いているのは、人間だった。
瀟洒な趣の人動車。
造りは堅牢ながら、余計な重厚さはない。
けれど、随所に控えめな装飾は施されており、ただの荷車とは違う品のようなものがある。
引き手は二人。
そしてその車内には、三人分の影があった。
「いやいやぁ、なかなか骨の折れる仕事だったぜぇ」
そう言って大きく肩を回したのは、灰髪のところどころに青い毛束が入り混じった、どこか軽妙な雰囲気の青年だった。
軽い調子。
だが、どこか人を食ったような響きのある声。
「主役とかそういう役回りって、俺ちゃんの柄じゃないんだけどなー。
あんな役を任せてくるとか、やっぱ鬼畜だぜ、姫ボスは」
「うふふ」
その向かい側から、可愛らしい笑い声が返ってくる。
小さな笑い声だった。
けれどそれだけで、この車内の中心がどこにあるのかは明らかだった。
「そうは言っても、なかなかの出来でしたよ」
「そうやって褒めて、またこき使う気でしょう?
ほんっとに、天使みたいな笑顔して恐ろしいお姫様だよなぁ」
「さて、それはどうでしょう」
小柄な少女は、甘く柔らかい微笑みを浮かべた。
無垢に見える。
優しげにも見える。
なのに、その奥に何があるのかは少しも見えない、可憐な笑みだった。
「ブッキー君は、いつも何でも上手にこなしてくださいますからね」
「ほら、そういうとこですよ」
ブッキーと呼ばれた青年は、苦笑しながら背もたれへ身体を預ける。
それから軽く肩を回し、誰にともなく呟いた。
「しっかし、今日はなんか身体が重いし。緊張しすぎて疲れたのかなぁ……。
あー、あとついでに腹もむずむずするわ」
「お腹も、ですか?」
その呟きに、隣に座っていた女が、おずおずと顔を上げた。
くすんだ紫の髪。
伏せがちな目。
そこにいるのに、気を抜けば輪郭ごと背景に溶けてしまいそうな女だった。
おまけにその印象を裏切ることなく、声まで存在感に遠慮するように小さかった。
「重たい……? それに、腹部の違和感……」
「ビレーがそんな深刻そうに考え込まないでくれよ。腹壊しは俺ちゃんよくあることだし、そんなに気にするほどじゃないのかなー……なんて思い込もうとしてたのに、なんか余計に悪化してきたぜ」
「す、すみません……!」
ビレーは慌てて頭を下げる。
だが、すぐにまた不安そうに視線を落とした。
「でも……その、わたしも、少し気になることがあったので」
「何がよ?」
「あの時から……誰かに見られているような、狙われているような……そんな感じがしていたので」
常のごとく、自信なさげな言葉だった。
しかし、それを聞いたブッキーはわずかに顎を引いた。
「け、けど別に気に、しないでください……!
多分わたしの余計な発言、でしたよね……すみません」
「別にそこまでは思ってねぇけど……。まぁ、勘違いだといいけどな。ビレーは相変わらず、そういうのに敏いからなぁ」
「いやぁ、怖い怖い」とわざとらしく両手をあげながら、ブッキーは車外へ視線を向ける。
「自慢できることでは、ないです。……怖がり、なだけなので」
「――ビレーさん」
そこで、 “姫ボス”と呼ばれる、人形めいた見目麗しい少女が静かに口を挟んだ。
「臆病であることは、決して悪いことではありませんよ。
危険を見落とさない目を持っている、ということですから」
「は、はい……」
「恐れるから、備えられる。疑うから、見落とさずに済む。そういうこともあります」
「あ、ありがとうっございます」
仕える相手からそんな気遣いまで受け取ってしまい、ビレーはさらに小さくなった。
そんなやり取りに、ブッキーは苦笑する。
「で、姫ボス。あそこは本当に放っておいてよかったんですか?
さすがに少し様子を見ながら、手をか――」
「何も問題はありませんよ」
ブッキーの言葉を遮るように、少女は答えた。
その声は穏やかだった。
穏やか過ぎるくらいに。
「あちらは、私たちの領分ではありませんから」
「それは、まぁ、そうなんですけど」
ブッキーは言葉を濁す。
特に的外れなことを聞いたつもりはなかった。
だが、あまりにも当然のように返されると、それ以上踏み込むのは少し躊躇われる。
少女は、そんなブッキーへ微笑みを向ける。
「――それに、いらぬ人の心配より、まずはご自身の今日の行動や出来事を省みることをおすすめいたします」
「それは、どういう意味ですかい?」
いまひとつ要領を得なかったのか、ブッキーが首を傾げる。
少女は答えず、そのまま今度はビレーの方を向いた。
「ビレーさんは、どこまでお気づきになっていますか?」
「え、わ、わたしですか!?」
突然話が振られるとは思ってはおらず、ビレーは肩を震わせた。
試されている。
そんなふうに感じたのだろう。
彼女は何度か息を整えてから、おそるおそる答える。
「自身は、ないですけど……ブッキーさんは、もしかしたら…ちょっと鈍感かも、とは……」
「え?」
「す、すいません! 別に、偉そうなことを言うつもりではなくて。
わたしが、その…敵意とか、視線とか、そういうものに過敏なだけで……ブッキーさんが悪いとか、そういうことではなくって……」
「なんかめっちゃ俺ちゃんへの配慮が滲む口ぶりに、こっちが逆に申し訳なくなってくるな……」
二人のやり取りを一歩外から見守るように、少女はただ微笑んでいた。
「では、もう少しヒントを。
ブッキー君。今日、ご自身の身体に何か違和感はありませんでしたか?」
「違和感、ですか? ……うーん」
ブッキーは顎に手を当て、しばらく真剣に考えてみる。
やがて、「違和感ってほどでもないですけど」と前置きしてから、ぽつりと口を開いた。
「強いて言うなら、さっき言った通り身体が重いかなーとは思ってますよ。
でもこんなの疲れでしょう、疲れ」
「うふふ」
「な、なんですか……。その笑い方、なんだか怖くて嫌なんですけど」
「では、本日のあなたへの講評です」
少女は、優しい声音と表情のまま告げた。
「過信と慢心は毒ですよ」
「……え? その通り、ではありますけど……」
ブッキーはその助言をどう受け取ったものかと、少女を見つめた。
だが少女はその視線を受け流すように、傍らに立てかけていた愛杖へ手を伸ばし、座ったままそれを手元へ引き寄せた。
「――もう少し、周囲への警戒度を上げられると完璧でしたね」
「それは……」
ブッキーが眉を寄せ、問おうとする。
反論ではない。
少女の言葉の意図を正確につかもうと、その言葉を吟味する眼差しだった。
「どういう意味――」
そして口を開いた直後だった。
車両の前方で、石を叩き潰すような重い音がした。
地面ごと何かが沈み込んだような、鈍く、腹に響く衝撃。
「――わっ!? なんだ!?」
車内が大きく揺れる。
ブッキーは壁に手をつきながらも、すぐに外へ飛び出した。
ビレーも遅れて、足元を慎重に確かめながら車両を降りる。
すると車両の前方では、人動車を引いていたはずの二人が地面に伏せていた。
ただ倒れているのではない。
二人の身体は石道へ縫いつけられたように動かない。
倒れた二人を含むように、敷石の路面が楕円形に陥没していた。
前輪も車軸も、完全に潰れ、壊されている。
「おいっ、一体何が起こったんだよ!?」
あまりに想定外の光景に、ブッキーは息を呑んだ。
大きく目を見開き、しばし呆然と立ち尽くす。
だがそれも一瞬。我に返るや、倒れ伏した二人へ駆け寄ろうとした――その時だった。
「――さて」
その足を止めるように、少し離れた場所から低い声が響いた。
まるで、車内から彼らが出てくるのを待っていたかのような、小芝居じみた声。
ブッキーは即座に身構え、その声の方へ振り向く。
進行方向の石路に、四人の影が立っていた――。
中央の後方には、長いマントの男。
その前に、赤、黄、青の重装兵。
赤は今にも殴りかかりそうな前傾姿勢で拳を構え、黄は大盾を背負ったままどっしりと腰を落としている。
青だけは静かに腕を下げたまま、こちらを見据えていた。
三者三様。
ブッキーたちを阻む意志が、そこに立ちはだかっていた。
――そして、その奥で腕を組んで立つダステンが、ブッキーたちを確かめるように見回す。
それから、徐に目を細めた。
「――背信者かどうかを見極める手間は、省けたようですぞ」




