現実
――時間は、巻き戻ってなんかいなかった。
何ひとつ、なかったことになんてなってなかった。
あれはもう起きたことだ。
過ぎ去ったことだ。
事実になってしまったことだ。
だから、もう。
「アエリス、ちゃん……」
「は、はい……。アエリス、ですよ」
こちらの今の様子を察していたのだろう。彼女は無理に優しい笑みを作り、それをオレへ向けてくれた。
でも、うまく笑えてはいなかった。
「意識が戻られて、本当によかった……。
あ、そうです。ちょうど今、アイト様にお着替えをお持ちしようとしていたところだったのですよ」
「あ、ああ……ごめん」
何に対して誤ったのか、自分でもよくわからなかった。
「いえ。評議にご一緒することさえできなかったこなたは、このくらいのことしか……できませんから」
アエリスの声が、少しずつ小さくなっていく。
「むしろ、何もできていないくらいで……」
そこで、彼女は唇を噛んだ。
「こなたが、あの場にいることができたら……」
その先は続かなかった。
自分がいたら襲撃に対処できたと言いたかったのか。
自分が代わりに傷つけばよかったとでも思っているのか。
ただ、同行できなかった後悔を吐き出したかっただけなのか。
何を言おうとしていたのかは分からない。
でも、最後まで言葉にできなくても、言わずにはいられなかったのだと思う。
彼女は彼女で、あの場にいなかったからこそ傷ついている。
自分を責めている。
その一方で。
オレは、今アエリスと話していることに、ほんの少しだけ息のしやすさを覚えてしまっていた。
アエリスは、あの死地にいなかった。
決闘も。
ヴァルの笑い声も。
ルルルの最期も。
その目では見ていない。
だから、彼女の声は、まだ戦場の外にあるもののように聞こえた。
それが、ほんの少しだけ楽だった。
そして、そのわずかな安堵感さえ、どこか卑怯なものに思えて、ひどく後ろめたかった。
「そうだ、オレ以外の他の……ルピナスは?」
ルルルの名前は、出せなかった。
ここで名前を出せば、それだけでいよいよ何かが確定してしまう気がしたから。
アエリスは一瞬だけ目を伏せて、それから答えた。
「ルピナス様は……こちらに運ばれてきた時、本当に危険な状態でした」
ルピナス様は。
どうしても、その「は」に耳が引っかかった。
ルルルと比べての“は”なのか。
オレと比べての“は”なのか。
そんなことにまで、いちいち躓いてしまう。
「ですが、ペル爺が命力を絞りだして治療に専念してくださったおかげで、ひとまず一命は取り留められました」
「そ、そう……生きてるんだ」
「はい。アイト様よりも早く目を覚まされました。
ただ、大事を取って、今は安静にしていただいています」
「それは……よかった。本当に」
よかった。
そう言った自分にも、すぐに引っかかりを覚えた。
ルピナスが無事でよかったのは、本当だ。
それは間違いない。
でも、今、「よかった」なんて言葉を発していいのだろうか。
少しでも前を向こうとする自分を、心のどこかが許さなかった。
それでも、とにかくルピナスは助かった。
そしてその次にくる話から逃げるように、オレは別の疑問を探した。
「……そ、そういえば」
無理やり話題を引っ張り出す。
「ルピナスも危ない状態だったなら、オレたちをここまで連れてきてくれたのは、絶対ルピナスじゃない、よね? ……誰が?」
「それが……」
アエリスは少し戸惑ったように眉を寄せた。
「こなたも初めて聞く名前だったのですが、少女が……派閥コレットと名乗られた少女が、皆様をここに連れてきてくださったのです」
「コレット……」
同盟者評議で見た、気弱そうな印象の少女。
今回の評議で新たに同盟に加わった派閥の、代表者。
「確か、新しく同盟に入られたとか、少し聞いたような……。
すみません。こなたもあの時は、今よりもっと冷静ではなくて」
アエリスが抱えている服に、きゅっと力が入る。
「ルピナス様は血だらけで、アイト様も意識がなくて、そして……」
「っ……」
そこで、言葉が止まった。
お互いの間に、沈黙が落ちる。
気まずい、とも少し違う。
もっと冷たくて、もっと重い沈黙。
コレットがどうやって運んだのか。
アグレイアスが関わったのか。
あの時、なぜ決闘を見届けていたはずの他の派閥の面々が消えていたのか。
疑問は浮かんだ。
でも、それはすぐに沈んだ。
今のオレには、それを考える余力なんてないのだから。
「そっか……」
この沈黙を生んでしまったのは自分な気がして、オレは半ば独り言のように呟いた。
「あの子にも、迷惑かけちゃったね」
「……」
「……」
再び訪れる沈黙。
お互いに分かっていたのだと思う。
同じ名前を避けている――。
どちらが先にそれを口にするのか、待っている。
それなら、アエリスに言わせるのは違う気がした。
聞くなら、オレから聞かなければいけない。
答えなんて、分かりきっている。
それでも。
ほんの少しだけ、まだ馬鹿みたいに可能性を探していた。
実は助かっているんじゃないか。
すべて夢だったんじゃないか。
あの人なら、またふざけて起き上がってくるんじゃないか。
そんな愚かな期待が残っていたからこそ、聞けたのかもしれない。
「――じゃあ、ルルルは?」
その声は、確かにオレの口から出たはずなのに、自分のものとは思えなかった。
「ルルルは……どうなったの?」
アエリスは、答えなかった。
ただ、目を伏せた。
それだけで十分だった。
首を横に振るよりも。
言葉にされるよりも。
その沈黙が、何よりはっきりしていた。
残っていた一筋の逃げ道が、静かに閉じた。
いや。
或いは最初から、一筋も逃げ道なんてなかったのに、勝手に残っていると思い込んでいただけだったのかもしれない。
「……そっ、か」
口から出た声は、自分でも驚くほど妙に軽かった。
中身が抜け落ちて、空っぽのまま音だけが出たみたいだった。
「そう、だよね……」
内心、察しがついていたからだろうか。
目の前が真っ暗になるような絶望感は、不思議となかった。
むしろ、すべてが妙にはっきりしていた。
それらが本当に自分の中へ届いているのかは分からないが、今この瞬間だけ、世界はやけに鮮明だった気がする。
アエリスの白い手。
両手で抱えた着替えの布目。
床板の小さな傷。
廊下の壁に伸びる、弱い明かりの影。
風もないのに、その光は今にも消えてしまいそうに揺れている。
世界は、何も変わっていない。
ルルルがいなくなっても、廊下は廊下のままそこにある。
夜は夜のまま続いている。
アエリスは服を抱えて立っている。
そのことが、一番残酷に思えた。
目の前が真っ暗になってくれなかったのは、きっとこの残酷さを見せるためなのだと思った。
「アイト様……」
アエリスが何かを言おうとする。
でも、言葉は見つからないようだった。
オレも、何も言えなかった。
慰めがほしいわけではないが、一人になりたいわけでもない。
本当は、このまま誰かの気配に縋っていたい。
けれど、このまま彼女と一緒にいれば、今自分の中にあるものをアエリスにまで伝染してしまう気がした。
だから――
「あー、ごめん」
無理やり声を出す。
笑顔を作った。
つもりだったが、きっとまともな笑顔にはなっていなかっただろう。
ただ、口角だけを不器用に上げた、できそこないの表情だったと思う。
「ちょっと……トイレ、行ってくる」
「あ……はい」
アエリスは道を譲るように、少し身を引いた。
彼女はオレの部屋へ着替えを持っていく途中だった。
オレはその反対へ歩き出す。
数歩進んでから、オレは一度だけ足を止めた。
そして、振り返る。
「――ごめんね」
その声に反応するように、アエリスは顔だけをこちらへ向けた。
「本当に、ありがとう」
「――え?」
彼女がそんな戸惑った声を漏らした時、オレはもう背を向けていた。
そのまま、振り返らずに歩く。
廊下の暗がりへ。
ただ歩いていく。
アエリスの視線が、背中に刺さっている気がした。
でも、オレは振り返らなかった――。




