28.俺はズルイから、こうして君を奪う
その日は鉛のようになった足を引きずるようにして部屋の前にたどり着き、ドアを開けた。そのドアですらひどく重い。食べる事もそのままに、シャワーを浴び、着替えてベッドに倒れ込んだ。
ぎゅう、とブランケットを握りしめ、目を閉じる。眠れない事はとうに分かっていた。分かっていた事、いつか来るべきだった事、でもそれをいざ迎えたこのショックはだめだ…もう泣けないし、でも哀しかった。
ピーンポーン…
玄関の方から来客を告げる音が耳に届く。誰だろうこんな時間に。むくりと起き上がってずるずると身体を引きずり玄関に向かう。重い扉を開ける行為なんてまたしたくないのに誰だろう。誰もかも構わないで欲しい。自分の部屋くらいは今まで起きた事も忘れて眠りたい。今はとにかく何も考えず眼を閉じ、丸まっていたかった。憂鬱に背中を押されてドアの前にいる人物を画面で確認する。画面上に現れたのは、さっきまでいっしょにいた茶髪の青年だった。黒い教誨服のような格好ではなく、ゆったりとしたリンネルのシャツにワークパンツ姿。服装が違うだけでこんな印象が変わってしまうのかと若干驚愕しつつ慌ててドアロックを外した。
「ヴィオ…」
夜の帳の中、まっすぐな灰青色の瞳がしかとこちらを捉えて離さない。入れてくれない?と笑った彼に警戒の意を表すと、彼は少し拗ねたように俯いてしまった。
「…分かった」
するとヴィオは急に表情を変えて良かった、とニッコリほほ笑むと、ドアを押しあけて中に入った。畜生詐欺か。しかし出逢ってからいつもこの軽いノリというか残酷すぎる純粋さに負けている気がする。とりあえずリビングのソファに案内し、お茶入れるわねと声をかけてキッチンへ足を向けようとする。しかしすぐに待ってと後ろから声をかけられて服の裾を掴まれた。
「いいから」
笑顔で笑って、ぐいと下に引っ張られると今度は隣に座らされた。自然な流れで肩を抱かれて思わず心臓が跳ね上がった。肩に置かれた手がゆっくりと背中を撫でていく。一定の速度でゆっくりと撫でられてじんわりと琴線が緩みかける。ややあってその動きを止め手を離したヴィオはゆっくりとこちらを見下ろして苦笑した。
「泣かないな。泣きつかれた?」
まさかそのためにわざわざ来てくれたのだろうか。再びゆっくりと優しく撫でられる感触に張っていた気がゆるゆるとほどけていく。じわり、と涙が目尻にたまった。それを見たヴィオはふ、と息をもらし、手をやってルナの頭を肩に乗せる。泣けばいい、と言われてとうとう涙がこぼれた。
「分かっていた…はずなのに…どうすればいいかわからない…」
「うん」
「好きなの。好きなのに。どうして出逢ってしまったんだろう…どうして愛してしまったんだろう…どうして…」
何故だかボロボロと思っていた事が口からこぼれてくる。涙が止まらずに流れ続けて、心が悲鳴をあげているとやっと気がついた。ヴィオが撫でている生ぬるい温度が肌を染めていく。どうして二三度会ったばかりのヴァンパイアに心を許してしまっているのだろう。それだけつらいというのが自分の中の本能が告げている。落ちていく涙をそのままにしていると、頬に骨ばった指が伸びてきて、そっと辿り、拭いとった。視線を折っていくと自然とヴィオと目が合う。深い森の中にある深い泉の色のような濡れた目がこちらを見ている。オレンジの色の室内光が彼を照らし、茶色の髪が仄かに光る。
「ルナ…」
呼ばれた、と思った瞬間には顔が近付いて、唇が触れていた。驚いているこちらを目を細めて見つめて、唇を離すと、また唇が撫でるように触れる。
「俺のキモチ、知って」
細められた目が近くて知らず身体がすくんだ。にい、とつりあがった唇が赤い。いつのまにか左手首を掴まれていた事に気がつく。それくらい優しく掴まれていた。少し力が入ったせいで、痛いと感じるほどではなかったけれどむずかゆい。
「俺はずるい男だから、ね」
御免ね、と囁くように紡がれる言葉がくすぐったい。そのまま磔のようにソファに倒されて、今度は頬に唇がかすめる。ぞくりとしてしまった。見つめ返した瞳、灰青色の瞳が室内光を含んで濡れたように光った。
「俺にしてよ」
「……ヴィオ」
「愛してる。…どうしようもなく君に狂ってる」
右手の甲に口づけながら、切なげに目を細めて上目づかいに見つめてくる瞳が痛い。ヴィオ、と名前を呼ぶと、その言葉を噛みしめるようにその双眸を閉じてみじろいだ。そのまま唇をそっと離して首筋に這わせた。
「…ヴィオ…」
「アイツを忘れて、俺を選んで」
茫然となる自分の首筋をヴィオの唇がなぞる様に触れていく。どうしようもなく身体がふるえる。これ以上の声がでない。じっと見つめているヴィオはルナ、と優しく頬を撫でた。次の時にブツリ、と突き破る音がして、唇をうっすら開いたヴィオの唇から二つの穴が見えた。赤い穴にテラテラと光って流れる血が唇を艶めかしくおぞましく見させる。次の瞬間、食いつく様にキスをされブツリと自分の唇に噛みつかれた。そのまま角度を変えてさらに深く口づけられ、息が詰まる。呼吸をしようとすると互いの唾液と血が混じり合ったモノを呑みこんでしまった。多少薄くなった血の味でもむせかえりそうになる。やがて唇が離されて必死に酸素を取り込もうと荒く喘いで、なんで…こんな事をと睨み付けると、彼は恍惚とした眼差しでこちらを見下ろしていた。
「…ごめ、んね…俺はズルイから…これ以上…何もしない…」
はあ…と熱い吐息をもらすヴィオの眼は真っ赤に濡れている。大丈夫ではない。ぜんぜん信用ならないと腕を押しつけて距離を取ると、ヴィオは残念、と言って軽く苦笑し身体を持ち上げた。軽くなった身体を起こし、乱れてしまった髪の毛を手ぐしで直して立ち上がる。噛まれた唇がひりひりと痛い。指先でそっと撫でると、凹とした部分が二つあるのに触れた。つきん、と痛んで思わず眉をしかめる。
「ルナ」
声と共に顎を掴まれ、またキスをされる。いや、違う。舌で傷口を舐められている。こうしたらすぐ治るからね、と笑う彼に、何も言い返す事は出来ない。柔らかく触れる唇の感触と、ぬめぬめとした舌が丸く傷口を撫ぜる感触に身体が意識と関係なく震えた。どうして、今、何で。今自分の中にあるのはただそれだけの疑問と、カインはきっと怒るという事、カインとは会えないのかという悲しみがせめぎ合っていた。それがヴィオにキスされて不意打ちの様に血を交わらせてしまった事で複雑に絡み合った糸の様になっていた。どうして二三度会っただけの自分に愛という感情までいだけるのか疑問だった。茫然となる自分にヴィオは優しく笑い、同じ事を繰り返した。
「ごめんね、俺はズルイから、こうなる日を分かって君に近付いた」
「……私は…カインが」
「君を泣かせるくらいなら俺が奪ってやるよ。それくらいやってやる。それくらい君が欲しい。君を俺のものにしたい」
キッと、刺さる様に向けられる眼差しは本物だ。抱き寄せられて抱きしめられる感触。柔らかく触れられる髪の毛、慈しむような愛撫に傷ついた心が嫌が応にも悲鳴を上げた。やだ、と蚊の鳴くような声で叫んでみても、今度は離してくれそうにない。
ずるい、ずるい、ずるい。そんな事するなんてずるい、そんな優しさはもっと卑怯だ。
涙がボロボロと零れて止まらない。だって私はまだカインが好きだ。カインが好きでたまらない。でもこの事で、彼の事も忘れられなくなってしまった。その優しさがずるい。その微笑みがずるい。その血の味がする痛みと快感を混ぜ合わせた様なキスも、抉り取られた傷を甘く疼かせるから。
「かえって…帰って!」
必死になって彼の胸元を押し、引き下がらせると、ヴィオは哀しそうな顔をしてようやく離れた。そのまま何も言わずに腕を離すと、しばらくその場でためらう気配がする。そして一呼吸吸った後、かえる、と情けばかりの声がかかって、ヴィオは玄関に向かって行った。
パタン、と戸が閉まる音がした瞬間、耐え切れずに脚から崩れ落ちてそのまま泣きじゃくった。




