5話 元聖女と攻防戦
あれから一週間経った。
ベアトリスと、一度も会うことなく一週間が経った。
いや、一度も会うことなくと言うと語弊がある。
彼女の気配は至る所で感じていた。
俺は自分の離宮で妻に後をつけられている。
そして彼女の気配と共に訪れるのは、小さな不運の連続。
本が落ちてきたり、飲もうとしたカップに虫が飛び込んできたり、階段を踏み外したり。
全て魔術や体術で回避しているが、その度にどこからともなく小さな舌打ちが聞こえる。
今日は執務中にいつもとは違う気配を感じた。
陽の光に温められた暖気に、洞窟からの冷たい空気が突然流れ込んできたような不思議な感覚。
「窓の外にベアトリスがいるな。気をつけろ」
「えっ?」
カイルが執務室の窓を開けた瞬間。
突風が舞い込み、全ての書類を吹き飛ばしていった。
「本当だ……よく分かりますね」
「聖女や聖女候補は身体に魔力を纏わせる癖がついているからな。数メートルも近づけば感覚的に分かるんだ」
俺は地面に落ちた書類を一枚拾い、手元に戻して続きを進めていく。カイルは部屋中に散らばった書類にげんなりと視線を向けた。
「魔術は使われないので?」
「物を集めるような魔術なんて普段使わないから用意がない。それに毎回使っていたら書き直す手間が勿体無いだろ」
「本来はこういう時に使うのが魔術なのですけどね」
俺は眉を上げ沈黙で返した。
一度発動させれば、その魔法陣は消えてしまう。精霊の力とは違い、魔術は使うたびに描き直しが必要なのだ。
計算し尽くした方程式と複雑な図形を書き込むのには時間がかかる。正直、火は火打石で起こした方が早いし、水は汲んできた方が早い。
俺は身を守るための護身用として使っているが、そもそも魔術は近距離戦闘や護身で使うようなものではないのだ。
武器として使う場合、流す魔力を繊細にコントロールしなくては暴発するし、発動の距離感を測るのも難しくなる。
だから皆が魔術を学ぶ訳じゃない。必要な際は魔術師が書いた高価な魔法陣を購入し使う方が一般的だ。
チラリと窓の下に視線を向けると、彼女の為に整えた庭園でお茶を飲んでいるベアトリスがこちらを見て微笑んでいた。
そんな彼女の側でワタワタと慌てふためいているのは、彼女につけた侍女のシーナだ。
ひとまず、ベアトリスにつけた侍女は彼女と良い関係を築けているようだ。決して姿を現さなかった彼女を、お茶の用意と共に庭園にまで誘い出したのだから、そういうことだろう。
庭園から偶然姿が見えた夫に対して、妻が呪いの力を放ち始めたのだからシーナが慌てるのも当然だ。
集めた書類を揃えながらカイルがため息を漏らす。
「このままにしておいていいのですか?」
「そろそろ晩餐くらいは一緒に取ってほしいとは思ってる」
「そうじゃありませんよ」
カイルは整えた書類を俺のテーブルに置き直した。
そこへ、再度舞い込んだ突風が嘲笑うように書類を吹き飛ばしていく。
耳を澄ませると、風の音に紛れた小さな笑い声を鼓膜が捉えた。
ベアトリスが嫁いでから何度も聞いた、鈴を転がすような奇妙な笑い声。
これが精霊の声らしい。姿は見えないし、距離感すら測ることはできないが、確かに存在を感じる。
「…………っ! ギルバート様!」
叩きつけられたカイルの掌がテーブルを揺らした。
畏怖や感動よりも、馬鹿にするような笑い声にイラッとしたのはカイルも同じだったらしい。遠ざかる笑い声を何となく目で追いながら、疑問が口からこぼれた。
「呪うと言われたが、やけに小さいものばかりじゃないか?」
契約の儀。そこでベアトリスと契りを交わした黒い精霊が起こす奇跡は至って小さなものばかりだ。
本を落としてみたり、風で書類を舞い上がらせたり。
日常で起こる不運。そんなレベルの些細なものばかり。
「何度か致命傷レベルのものもありましたよ……精霊の力ではなく、偶然だとでも? さっきの笑い声は幻聴だとでも言う気ですか?」
「いや、ちゃんと聞こえてる。彼女から感じる魔力は減っているし、精霊に力を使わせていることには違いないと思う」
懐から取り出した魔術書から、風の魔法陣のページを開いた。ペン先に向け魔力をインクに混ぜながら、幾つかの方程式を書き足していく。最後の方程式を書き込むと風の魔術であることを示す緑の光が一瞬だけ浮かび上がり発動の準備が整った。
その中央に指先で魔力を流し、意識をベアトリスのいる庭園に向ける。
その瞬間、淡い緑の光と共に発生した旋風が、庭園の花弁を巻き上げた。彼女の側に立つシーナは、風に乗った花弁が二人の周囲を舞う姿に目を輝かせ楽しんでいる。
一方のベアトリスは、周囲を舞う花弁が蝶の形で舞っていることに気づいたのか、唇を噛みながらキッと俺を睨みつけた。
「ロマンチックかと思ったんだが……照れているわけじゃないよな?」
「そう見えるなら相当です。精霊とベアトリス様に対しての煽りにしか見えません」
カイルは再度書類を整え直して、また突風に襲われでもしたら堪らないとばかりに俺が覗いている窓を閉じた。
そして、乳母兄弟ではなく側近としての真剣な表情で俺へと向き直る。
「それよりも、情報が漏れていた方が問題かと」
「……魔術の件か」
俺が魔術を使えるのは秘匿事項だ。
己の身を守りつつ、少しでも自身の価値を上げるためにと身につけた魔術。
然るべき時が来るまで、公にするつもりもなかった。
なぜベアトリスは知っている?
「まさかずっと俺のことを……?」
「そんなわけないでしょう。教会で暮らしていましたし、王家も知らないギルバート様の魔術を知れるはずもありません」
「逆を言うと、他の王子からの手先として来ているわけではないということだ」
それならば問題はない。
執務机に座り直し、魔力をインクに程よく混ぜながら、魔術書の魔法陣を描き直した。
非効率的ではあるが、それを上回る利便性と有用性。王子であり魔術師でもある俺は、暗殺を回避する為にも常に備える癖がついている。
一方、聖女は精霊と契約する事で力を使う。
契約した精霊によって使える力は変わってくるが、最も望まれるのは病気や怪我の治癒が行える精霊と契約することだ。植物を育てたり、土を豊かにしたり、水を清める精霊もいる。
精霊の力さえ分かれば、契約者は魔力と引き換えに『願う』だけで奇跡のような力が使えてしまうという規格外の能力。準備に時間がかかる魔術とは比べ物にならない。
ましてや大怪我を負ったり、病に罹ってしまえば、それを治癒できるのは一部の優秀な聖女だけになる。
本当に俺を呪いたいのならばもっとやりようがあるはずだ。
「そもそも、ベアトリスはなんの精霊と契約したんだ?」
「さぁ……私は見ていませんから」
ベアトリスの聖女候補時代。
彼女が湖畔へと降りると、光の精霊がいくつも彼女に集まったそうだ。その中にはこれまで確認されたことがないほどの輝きを持った精霊までいたそうで、ベアトリスはおそらく上位の精霊と契約できるだろうと目されていた。
でも、黒い精霊なんて聞いたこともない。
ベアトリスの契約の儀で教会の者たちが見せたあの表情。
「教会は……何か隠しているんじゃないか?」
「まあ、考えられますね。教会と王家は互いに利を貪るだけの間柄。一枚岩ではありませんから」
教会に所属する老獪達の慌てようからして、儀式を変更したのはベアトリスの独断だ。
教会の者と、ベアトリスはあの精霊の正体を知っている。
「ベアトリスに話を聞いてみる必要があるな。今日の晩餐の席には着いてもらおうか」
「……悪い顔で笑わないでください」
ベアトリスとようやく一緒に晩餐が取れると、俺はそっと拳を握った。




