【ベアトリス視点】闇の精霊の祝福
一瞬の出来事だった。
レイヤード王子の手を取ろうとした私の横を、ギルバートが追い抜いた。
思いっきり振り上げた彼の拳が、レイヤード王子のこめかみを直撃する。
レイヤード王子は、殴られた衝撃で吹き飛んだ。
「俺の妻だ。悪役の執着を舐めるなよ」
小さく吐き捨てるように呟いたギルバートは、振り向くこともなくその場に崩れ落ちる。
彼の身体の下から這い出た血が、白い大理石の床を赤く染めていく。
「ギル……ッ!」
駆け寄ろうとした視界の端で、レイヤード王子が頭を押さえながらゆっくりと身体を起こした。
憎しみの籠った瞳で、彼はこちらを睨みつける。
「悪役の執着、舐めちゃダメなのは本当ね」
咄嗟に向きを変えた私は、思いっきり、その顎に向かって足を振り下ろした。
何かが砕ける音がして、レイヤード王子の目が上転する。小さく「ガッ……」と呻いた彼は、再び冷たい床の上へと倒れ込んだ。
「貴方も可哀想な人なのかもしれない。でも私は許さないから」
浅い呼吸を必死に整えながら、ちゃんと意識がないことを確認して今度こそギルバートに駆け寄った。
身体を仰向けにし、血の気のない頬を必死に叩く。
「ねえ、ダメ、起きてよ。私、こんなこと望んでない。ちゃんと帰って来るって言ったじゃない。全部、壊して助けに行くって約束してくれたじゃない。まだ何も壊れてないわよ? 約束……破らないでよ!!」
私はどうすれば良かったの?
これじゃあ、私とギルバートが入れ替わっただけだ。
こんなつもりじゃなかった。
光の精霊に何度やり直すチャンスを与えてもらっても、何も変えられず沢山の人の死を遠い場所から見聞きしているだけ。
闇の精霊と契約しても、大切な人を、自分の代わりに死なせてしまうだけ。
結局、私には何ができたの?
「どうせ……全て失うなら、貴方が生きている方が良かった」
冷たい彼の手を握って、浅くなっていく呼吸の音だけを感じる、地獄のような短い時間。
周囲の焦げる匂いも、熱も、煙も何も感じない。
何もできない自分の無力さを呪いながら、全てを諦めようとしたその時——
「——ス! ベアトリス!!」
大きな声と共に、突然、耳を引っ張られた。
深い絶望から意識が引き上げられる。
反射的に横を向くと、いつの間にか私の手首からネックレスを取り返していたゾーイが睨みつけていた。
「ねぇ! 聞いてる!?」
「……ゾーイ」
「しっかりしろよ! まだ死んでないだろ!」
「でも、私、傷なんて治せない。もう、何もできることが」
ゾーイの顔を見るだけで、また涙が堰を切ったように溢れてきた。
ゾーイの力は、不運を齎すこと。
誰かの願いと正反対の結果を齎すことだ。
今、ほとんど残っていない魔力をかき集めたところで、ギルバートに力を使うなんてできない。
私の言葉で、一瞬ゾーイは痛々しく顔を顰めた。
それがいつかの自分に向けられた言葉のように思えて、私はぶんぶんと必死に首を振る。
違うの、そんなつもりじゃない。
ゾーイをそっと両手で抱きしめて、額の前に持っていく。
「ごめんなさい。ゾーイは何も悪くない。貴方に会えて、私はすごく幸せだった。話せて、私を好きだって言ってくれて、すごく嬉しかったの。ただ、私が……私が無力だっただけ」
「……分かってるよ。僕も、呪うことしかできなくて……ごめんね。大好きなのに、何もしてあげられなくてごめん」
ただ、静かな時間だった。
蝋燭が燃え尽きるのをただ見守るだけの静寂。
私の掌の中で、ふとゾーイが羽を鳴らした。
「本質……」
小さな呟きに顔を上げると、ゾーイの真っ黒な瞳と目があった。その瞳に、小さな光が宿ってる。
「ベアトリス、ギルバートを助けられるかも」
「えっ!?」
ゾーイは、私の手のひらから飛び立った。
パチパチと壁越しから小さく音を鳴らす天井、窓の外の真っ黒な煙に視線を向ける。
そして、何かを決意したように小さく頷いた。
「ベアトリス、僕に、どうして欲しい」
「え……私は」
ギルバートを助けて欲しい。
彼と、これから先も生きていきたい。
でも、そんな無理な願いを口に出来なくて、喉を詰まらせる。
声にならない言葉を察したゾーイは小さく首を振った。
「違う、そうじゃない。ギルバートは色々な人から嫌われてる。破滅を願われてる。そうでしょう?」
縋るようなゾーイの言葉。
行き先を照らす小さな光のように、その言葉が道を示していた。
「ゾーイ、彼に向けられた悪意を呪ってほしい。彼らの思う通りになんてさせないで」
彼の破滅を喜ぶ人たち。
彼を嫌悪する人たち。
彼を恐れる人たち。
彼らの願いを——呪って。
「任せて」
ゾーイは、なけなしの魔力を私から優しく掬い取った。
瞳が金色に優しく光る。
ギルバートの身体に手を当てて、そっと虚空を見上げた。
目には見えない悪意が、すぐそばにあるように。
でも、いつもと同じじゃない。
一瞬だけ顔を顰めたゾーイの身体が、今度は金色に光を放ち始めた。
「……ゾーイ?」
「へへ、魔力が足りなさそうだったから。僕の魔力も使うね」
「え、待って——!」
ギルバートが以前、精霊についてまとめた書類を見せてくれたことがあった。
そこに、『精霊だけでは力を使えない。契約した人間の魔力で力を使う』という項目があったはずだ。
私が手を伸ばすより早く、ゾーイは光に包まれた。
「ベアトリス、幸せになってね」
ゾーイが、光の粒子となって空気の中に溶けていく。
鈴のように軽やかな声が優しく耳を撫でた瞬間、コトリと音を立ててネックレスと小さな何かが床へと転がった。
「ゾーイ……?」
慌てて転がった何かを拾い上げる。
混乱する頭の中、ギルバートの呼吸の音だけが静かに、規則的に響いていた。




