【ベアトリス視線】闇の精霊の囁き
「私を! 置いていくなんて!」
何度目か分からない八つ当たりを、自室のクッションに叩きつける。
テーブルの上には『これで機嫌を直せ』とばかりに、かつて私が美味しいと言ったメニューが並んでいた。
まるで、私が食べ物で釣られる食いしん坊みたいじゃない。
ギルバートはどこまでも卑怯で、ずるくて、悪辣極まりない。
彫刻みたいに冷たく整った、綺麗な顔立ち。
だけど、口調はいつも偉そうだし、吐き出す言葉は脅迫まがいなことばかり。笑顔は人を煽っているようにしか見えない悪党そのもの。
温度を感じさせない白銀色の髪に真っ赤な瞳も相まって、慈善事業より高笑いをしながら人を血祭りにする方が似合ってる。
素直に「ありがとう」という隙すら与えてくれない姑息な男。
今回、彼は「戦力外だ」なんて酷い言葉で私を蔑ろにした。
私を散々妻だと言っておきながら、悪意や危険は全て一人で請け負ってしまう。
私を危険から遠ざけ、守るために。
本当に最低最悪な、狂王子。
「何かが起こって、また貴方に罪が着せられたら……どうするのよ」
彼は賢い。だから誰よりも理解しているはずだ。
周囲から悪意を集め尽くして、それを楽しんでいるかのように振る舞って、無敵の悪役を装っているけれど——
彼の立場は誰よりも危うい。
誰もが彼の不幸を願い、破滅を待ち望んでいる。
小さな綻びを見つければ、それを大きく引き裂いて、彼を叩き潰そうと狙ってる。
本当は、もっと格好悪く保身に走って欲しかった。
お役御免だとばかりに全てを投げ出し、僻地にでも行って次の王が決まるまで隠居生活をするとか。
実際、カイルの両親を守るために僻地へと逃す手回しをしたと聞いたもの。
王になるわけでもないのに、どうして自分から陰謀渦巻く沼地に足を突っ込んでいくわけ?
「『全部壊すことはもう、俺の望みでもあるんだ!』……だっけ?」
テーブルの上のデザートを勝手につまみながら、ゾーイがお腹を抱えてケラケラと笑った。
唇を結んで睨みつけた私に、ゾーイは楽しげに笑みを深める。
「僕はずーっと見てたからね」
「……ギルバートが今の歪んだ体制を壊したいのは分かってる。でも、命をかけてすること? スラムはもういい方向に変わっていってる。病気を退けるための方法は、これから少しずつ広がっていくと思うの」
病の元を探すのも、それを殺す方法を見つけるのだって、逃げた先でもできるじゃない。
失敗したら全てが壊れちゃう。
シーナも、カイルも、離宮のみんなも危なくなる。
私が見た、未来みたいに。
かつての記憶が脳裏をよぎるだけで、形のない不安が胸を一杯にする。
胸に手を当てると、心臓がドクドクと嫌な鼓動を刻んでいた。
ゾーイは怯える私を見ることすら楽しそうだ。
「ねぇ、ゾーイ。あなた何か知ってるんでしょ」
「何かって何を?」
「分からない。私には、分からないことばかりなの」
そもそも——
あの時の陰謀が全て偽りで彼が嵌められていたのだとしたら、レイヤード王子が殺された後、王宮を襲うことに説明がつかない。
復讐?
ギルバートがそんなことをするだろうか。
それに、あの時。
炎に包まれた王座の間で、私に伸ばされた彼の手。
ギルバートの陰謀を止めて彼を救いたいと思ったのは、あの最後の瞬間に伸ばされた手があったから。
今だから分かる。彼はあの時、私に向けられた刃を止めようとしたのだ。
どうして彼はあの時、私に手を伸ばしたんだろう。
役立たずの大聖女で、形ばかりではあるけれど彼の宿敵であるアルフレッドの婚約者だった。
私には、何の価値もなかったのに。
「ベアトリスはいつも迷子だよね。自分の決断にもよく迷ってるし」
「だって……私はすぐ間違えるもの。でもちゃんと決断した時も……あっ」
ふと、脳裏に浮かんだギルバートの顔。
その端正な顔立ちに、真っ黒なインクが垂れたあの時を思い出した。
それが、ずっと深い場所に埋もれていた、茜色に染まったあどけない少年の顔を呼び起こす。
「「全部壊して、助けに行くよ」」
記憶の中の名前も知らない彼の声と、目の前のゾーイの声が重なった。
そうだ。自分の道を定めたあの日。
まだ不安な私に、優しい約束をしてくれた男の子がいた。
ゾーイはずっと笑ってる。
涙が溢れた私の顔を見ながら凄く楽しそうに。
仕掛けた悪戯が成功した子供みたいに。
「やっと思い出した? 僕はずーっと見てたって言ったでしょ。まあ、僕の住処の真下だったから、見せられたって言った方が正しいのかもしれないけれど……」
立ち上がった私は、クッションを放り投げ、テーブルへと駆け寄った。
ゾーイの小さな身体を両手で掴んで、そっと胸に引き寄せる。
温度を感じさせないゾーイの体。
掴んでいるのに重さは全く感じない。
その空虚な身体からどこか優しいケヤキの香りがする。
「私との、約束のためだったんだ」
「そうだよ」
「私、ひどいよね。あんな大切な約束、忘れちゃうなんて」
「ベアトリスは元々悪い女だろ。前の精霊なんて、あの泉で一番古くて偉いやつだったのに。思わせぶりに契約しておいて、あっさりフッたんだから」
「あはは……本当にそうかも。私、自分のことばっかりの、本当に悪い女だね」
自分の口から漏れる笑い声と、ゾーイの笑い声が重なった。
静まり返った部屋に、本当なら交わるはずのない人と闇の精霊、二人分の声が響く。
「ねぇゾーイ。私ね、もう一つだけ、とっても悪いことをしてもいいかしら」
「何するの?」
「大人しく待たずに、彼を助けに行きたいの」
「あはは、いいね。ギルバートが凄く嫌がりそう。僕ね、あいつの困り果てた顔も情けない顔も大好きなんだ」
ゾーイの小指の先ほどしかない小さな手が、私の涙に濡れた頬にそっと触れる。
私の魔力が音もなくゾーイに流れていくのが分かった。
ゾーイは金色に瞳を輝かせながら、私の耳元に顔を寄せ、甘く妖艶に囁く、
「どうしてほしい? 僕が望みを叶えてあげるよ」




