26話 元聖女と闇の精霊1
離宮にある、俺の研究室。
防御、攻撃に使える数々の魔法陣。
病を根絶するための研究結果。
それらが入り乱れるこの空間は俺の最も私的な場所だ。
部屋をぐるりと囲む棚には、王子として与えられる費用のほとんどを費やして買い溜めた魔術書や研究本、民間療法で伝えられる植物のサンプルも仕舞われている。
その窓際に鎮座するのは、本や文具を収められる棚やキャビネットが上部に取り付けられた、重厚で大きな研究デスク。
そこで俺は何日も研究に明け暮れた。
方程式を何度も書き換え、魔法陣を書き散らす。
床一面が書き殴った理論と方程式、失敗した魔法陣で埋まっていた。
聖なる泉。
そこに集う精霊は、人前に姿を現す。
あの日、俺も確かにベアトリスの周囲に集まる精霊を見た。ベアトリスは、契約の儀式で声まで聞いたらしい。
なら、ベアトリスの側にいる精霊も条件さえ揃えば姿も見れるし話すこともできるはずだ。
髪を掻き上げて息を吐く。
そのタイミングを見計らったように、コトリと音を立て、デスクの上にカップが置かれた。視線を上げた先に立っていたのは、まさかのベアトリスだ。
僅かに視線を逸らせながら、トレーで口元を隠し居心地悪そうに立っている。
「ベアトリス……?」
「ちょっと休憩した方がいいわ。倒れちゃうわよ」
信じきれなくて思わず目を擦った。
でも、まだそこにいる。
何これ夫婦みたい。いや、夫婦だけど!
休憩なんてしなくても体力と気力が回復していく。
「いや……もう少し」
「だめ。私が淹れたのよ。ちゃんと飲んでよ」
ベアトリスが、俺のために!?!?
慌ててカップを手に取り、その縁に口を寄せた。
少し味が薄くて、それすらも死ぬほど尊くて美味しい。
あのロベルトの一件から、少しずつベアトリスの態度が軟化している気がする。食事は一緒に摂ってくれるし、エスコートまで許されるのだ。
そしてここにきて、まさかの差し入れ。
嬉しすぎて、にやけそうになる顔を必死に耐えた。
今死んだら、死因は過労でなく幸福摂取過多に違いない。
「どう?」
「え……あっ、まぁ、及第点だな」
「そう……よね」
はい、爆死。
思わず口から飛び出す忌々しい言葉がバランスを取るように不幸を招く。
ふと部屋の外にシーナを始め何人か使用人の気配がした。
どうやら、休憩を入れさせたい彼らの手先としてベアトリスが送り込まれたようだ。
仲が良くて結構である。
残念なことを口走ってしまったが、これからもぜひベアトリスに淹れてもらってくれ。お願いします。
納得したように息を吐いたベアトリスは、俺の手元の魔法陣や書き散らした方程式を覗き込んだ。
「これで、本当に精霊の姿が見えるの?」
「ああ。聖なる泉と同じ環境を作る魔法陣だ。ただ、話すために何が必要か分からない」
「同じ環境って……どうやって」
「以前、選定式で教会を訪れた時に泉の成分を調べた」
失敗した。ベアトリスの目が冷たい。
ようやく、普通に会話し食事できる関係性にまでこぎ着けたのに! 俺の口ぃ!!
「いや、本当、少し水や土をもらっただけで……」
「そうじゃなくて、別に無理しなくていいわよ」
ふと、ベアトリスの顔に影が落ちた。その全ての感情を押し込んだ表情に僅かな既視感。
どうやらベアトリスは自分の不安を押し殺して、一人で抱え込んでしまう悪癖があるらしい。
「何が不安なんだ」
「……何も言ってないわよ」
「でも、何か思ってるだろ」
ベアトリスはハッと息を呑んで俺を見た。
俺はカップを置き、彼女からトレーを取り上げた。
彼女の表情に気を配りながら、話し始めるのを静かに待つ。
「闇の精霊って、教会の教えに反しているのよ。彼らは光の精霊と対なる者。癒さない、育てない、守らない。周囲に不幸を齎して、自身を破滅させる絶対的な悪だって」
言い伝え、御伽噺、逸話。
その全てで光の精霊と対をなす存在として描かれる闇の精霊が、精霊を信仰する教会に快く受け入れられるはずがないことは分かっていた。
一気に話した彼女は、自分の罪を受け入れるように手を強く握りしめる。その指先は白く、震えていた。
「きっと私はすでに教会にも目をつけられてる。闇の精霊にどう対処するべきか教会も悩んでいるんだと思う。私、貴方を止められたら破滅してもいいと思っていたの。だから……」
「怖い?」
彼女は小さく頷いた。
そんな決死の覚悟で嫁いでいたことに驚きを感じたが、表情には出さなかった。
彼女はこの魔法陣で姿を現すのが悪意あるものだと思っているのかもしれない。
「本質を見誤ってると思う」
「本質って……精霊の?」
「ああ。俺からすれば、不遇な死を何度も遂げさせる光の精霊も変わらない」
道具も、精霊も使い方次第なのだ。
それに俺はベアトリスがここにいる事を少しも不幸だと思っていない。
唇を尖らせ、首を傾げるベアトリス。
全く分かっていないその頬に、そっと手を伸ばした。
指先がその頬に触れる直前、ベアトリスの細い肩が跳ねる。
その瞬間に感じる不運の気配。
俺が向かい合う棚付きの大きなデスク。
その棚にしまってある本が、パタリと倒れた。
その倒れた本に押された予備のインク壺が落下する。
ご丁寧に、衝撃で蓋まで飛んだインク壺は俺の頭上に落下した。最後にコトンと音を立てて地面に転がるのは、空になったインク壺。
「……まあ闇の精霊が俺の破滅を望んでるのは確かかもな」
みっともなく黒に染まった髪を指さしてベアトリスに訴える。手狭な研究室に小さな鈴の音が拍手のように響いた。
彼女と契約した『人に不運をもたらす闇の精霊』は間違いなく、ほぼ間違いなく俺に対してだけ不運を齎す基準を下げている。
精霊には、意思があるのだ。
まぁ、自分で気に入った聖女候補を選ぶのだから当然だけど、ベアトリスと契約した闇の精霊は俺に敵意を抱いている。
「姿を暴いて、その上でどちらが上か叩き込んでやる……話し合いといこうじゃないか」
感情のまま物騒な言葉を口走ってしまい、思わず口を手で覆った。
恐る恐る彼女を見上げると、ベアトリスは両頬を手で覆って固まっている、
その金色の目は、真っ直ぐ俺を見ていた。
「ベアトリス……?」
「ギルバート。私たちどこかで……」
ベアトリスが小さく呟いたその時、研究室の扉をノックする音が響いた。
「カイルです。夕食の準備が整ってしまいました」
「……っ! わかった。すぐに行く」
遠ざかる足音。俺はハンカチを取り出し、乱暴に髪についたインクを拭った。
一度お湯で清めないと落ちないだろう。
魔法陣を描く方が早いか、水を浴びたほうが早いか。
「で、さっき何を言いかけたんだ?」
「え? あっ……いえ、なんでもないの。インクを……倒して悪かったわ。高価なものなんでしょう?」
言い淀んだベアトリスの態度に少し引っ掛かりを覚えたが仕方ない。
水を浴びるのは諦めて、ペンを握り空白のある羊皮紙を引き寄せた。
その中央に汚れを落とす魔法陣を描きながら口を開く。
「身体で払ってもいいんだぞ?」
「バカなこと言わないでよ!」
軽い冗談のつもりだった。
頬に口付けるとか、額に口付けるとか、その程度の。
驚いてデスクを叩くベアトリスの指先が、カップに引っかかった。
勢いよく、カップがソーサーの上で跳ね上がる。
ガシャン。
カップに入っていた残りの紅茶が、宙を舞う。
その紅茶は、精霊の起こす不運に導かれるまま、俺の髪と手元の魔法陣をずぶ濡れにした。




