3話 元聖女の輿入れ
薄明の空の下で執り行われた、ベアトリスの儀式を思い返す。
世界の境界線が曖昧になるほど、幻想的な空をそのまま映した聖なる泉。
その真ん中でベアトリスは一瞬、俺を見て笑った気がした。
悪戯を仕掛ける子供のように無邪気な、彼女の本当の笑顔。
山間から吹き下ろす冷たい風に、真紅の髪を靡かせながら、彼女は真っ直ぐに東の空へと向き直る。
父である国王、連なる王子達、国の重鎮や教会の者が固唾を飲んで彼女を見ていた。
ベアトリスは手に持った葉をそっと水面に浮かべ、契約の文言を歌うように唱える。
「彼誰時、黎明の空に集う者達よ。秘色の水を敬愛する者達よ。我は灰を投じず、声と心を捧げる者也。相愛の縁、妄愛に溺れ、我と誼みを結びたまえ――」
「ベアトリスッッ!!」
俺が放った叫びが、遮る物のない明けの空に溶けていく。
一瞬の出来事だった。
聖なる泉に立つベアトリスの足元から波紋が広がっていく。
鏡面のように薄明の空を映していた水面が、その表情を歪ませながら黒い濁りを宿した途端、教会の者達の顔色が強張った。
息を呑む音。戸惑いの声。
その中でベアトリスは微笑みを浮かべたまま、そっと虚空へ手を伸ばす。
その指の先に姿を現したのは、禍々しい黒い光だった。
「あれは――光の精霊じゃない!!」
「ベアトリス様! 下がりなさい!」
教会の司祭が狂ったように叫ぶその言葉に耳を傾ける事なく、彼女はその揺らめく黒の光に目を細める。
そしてふと、何かを確信したように、小さな笑みを浮かべて頷いた。
その頷きに呼応するように、黒い光が膨れ上がりベアトリスを飲み込んだ。
それは、ほんの一瞬の出来事。
でも俺はその真っ黒な光の中で——
羽を持つ人の形をした小さな何かが、彼女の滑らかな手の甲に、恭しく口付けを落としたように見えた。
「儀式の状況は理解しました。それで? 呪うと宣言した相手をわざわざ妻に娶り、この離宮に招き入れると?」
どこか陰気な空気が漂う、薄暗い執務室。
事の顛末を説明し終えた俺に、執事のカイルは形だけの笑みを浮かべながら底冷えのするような冷たい眼差しを向けた。
窓に背を向けているせいだろうか。
嘘っぽい笑顔に影が落ち、威圧感が倍増している。
正直怖い。俺が主人なのに。
彼女はすでに実家との縁も、教会との縁も切られている。婚礼なんてものはない。
ただの書類一枚で、彼女は罪人のように俺の離宮へと移される運びとなった。
相談すら挟む事なく行動した俺は返す言葉も見つけられず、彼の冷たい視線から目を背けることしかできない。
ちなみに、想いの告白なんてできるはずもなかった。
あまりの衝撃に「ふん、やれるものならやってみろ」なんて悪役全開の言葉を咄嗟に返してしまったなんて、カイルに言えるはずもない。
カイルは致し方なしとため息を一つこぼした。
「……こう言ってはなんですが、暗殺が狙いでは」
「暗殺する奴が、わざわざターゲットに宣言するか。それに、俺への殺意のために聖女の地位を投げ捨てるなんて馬鹿げてる」
「ギルバート様の諦められない粘着質な視線が気持ち悪かったとか」
「気持ち悪くない! 粘着質って言うな! それに……ベアトリスが気づいてる訳もない。王子としては話したことすらないんだぞ」
軽口を叩くこのカイルは、俺の乳母兄妹であり側近に当たる。
彼の生家は没落寸前の子爵家で、国王の婚外子である俺の世話役を押し付けられたのが始まりだった。
それでも周囲が敵ばかりの中で、彼と彼の両親は数少ない俺の信用できる臣下だ。
現在この離宮に住まう者は、地位は低くともこんな俺について来てくれた忠臣ばかり。
広大な王宮の敷地。その最果てにある古びた離宮。
朽ちかけた外観に蔦が絡みつくその姿から、封印された魔王城なんて呼ばれる始末だ。
そこが婚外子であり、狂王子と蔑まれる俺に与えられた住処である。
俺がこんな場所に押し込められているのには理由がある。
幼い時の俺は、婚外子にも関わらず『圧倒的な実力さえ示せば、正当に評価され王位を継ぐこともできる』と信じていたのだ。
本当に王位が欲しかった訳じゃない。
ただ――誰かに認められたかった。
父である国王から一度でいい、褒められたかったのかもしれない。
そんな淡い期待は、俺が実力を示せば示すほど苛烈な悪意という形で返ってきた。
正妃の息子である第一王子アルフレッドに剣術試合で勝利してすぐのこと。その夜の晩餐で毒を盛られ、俺は血を吐いた。
冷たい床に伏せ、苦痛に悶えながら見上げた先にあったのは、国王である父の温度のない冷徹な瞳だった。
その時に俺は、婚外子が超えてはいけない一線があることを知った。
王子が二人しかいなかったあの時とは違い、今は腹違いの王子が四人もいる。スペアのスペアなんて必要ない。
まぁ、そのおかげでベアトリスと出会えたのだから今では感謝すらしているがな。
「まあ、自分で対処できる」
「分かっていますよ。自分の身は自分で守ってください」
そう言い捨てたカイルも、俺と共に常に暗殺の危険に身を晒してきた歴戦の猛者だ。その結果、王宮騎士団員にも負けないほどの腕前を持っている。
「ひとまず様子見だな。ベアトリスのことを抜きにしても計画は果たさなくては」
「それまでにベアトリス様に暗殺されなきゃいいですけどね」
「ベアトリスは……人を殺せるような人間じゃないよ」
艶のある真紅の髪。太陽のような金色の瞳。
勝ち気で好奇心旺盛だった彼女は、どんな境遇にも負けない強い心があった。
その心は権力に振り回され、歪み、折れてしまったのかもしれないけれど……
聖女になることだけが全てじゃない。
あの日、彼女が俺を救ったように、今度は俺が彼女に手を差し伸べられたら。
「あ、ベアトリス様が到着したみたいですよ」
ふと、カイルが窓の外に視線を向けた。
静かな離宮の敷地に、迎えに寄越した馬車の蹄の音が遠くから響いてくる。
慌てて立ち上がった俺の肩に、カイルが黒の上着を掛けた。上質な黒の生地に銀糸で刺繍が施された俺の一張羅だ。
「……ちょっと圧が強すぎないか? もう少し爽やかさを出した方が……」
「悪役顔が何を言ってるんですか。爽やかな色なんて似合わないんですからさっさと行ってください」
目つきが悪いのは元からだし、眉間に皺を寄せてるのは、内面の情けない動揺や緊張が表に出てこないようにするためだ。
長年の癖になっているだけで悪役顔とは心外すぎる。
玄関ホールに出ると、すでに開かれた重厚な扉の先に馬車が止まっていた。
俺の姿を確認した御者が、馬車の戸にそっと手をかける。
開かれた扉の奥には、夢にまで見たベアトリスが座っていた。
身ぐるみひとつで追い出されたのかもしれない。
聖女候補時代に着ていた衣装とは比べ物にならないほど質素なドレス。宝飾品すら何も身につけてはいない。
痛ましさすら感じる状況の中、俺の姿を捉えた彼女の口元が、ふわりと優しく緩んだ。
ああ、やはりあの時の発言は俺の聞き間違いだったのだ。
まさか夫となる人間を呪うなんて、そんな物騒な事をベアトリスが言うはずがない。
ホールから一歩外へ踏み出すと、頭上から降り注ぐ太陽の光が俺を祝福するように照らした。きっと、多分、おそらく、俺の白銀色の髪はこれ以上になく輝いている。
「ベアトリス、手を」
ここは王子のようにカッコよく。
いや、まあ王子なんだけど。
ベアトリスから伸ばされる細い指先――
それは俺の手を掴む直前で、ふと上を向いた。
彼女の纏う魔力が陽炎のようにゆらりと揺らめく。
その瞬間、長年培われてきた直感が俺に危機を知らせた。
反射的に、体を横に逸らせる。
――ポトリ。
湿り気を帯びた生温かい『何か』が、ついさっきまで俺がいた場所に落下した。
それと同時に、頭上で鳥が一鳴き。
明らかに俺を狙ったとしか思えない不届きな鳥は、そのまま何食わぬ顔で大空へと高く羽ばたいていった。
「ギルバート様……フンが……」
背後から、憐れみを滲ませたカイルの声が俺に告げる。
言われなくてもわかってる。
俺は、最愛の妻を出迎えるという正念場で不運にもフンを落とされた。




