【ベアトリス視点】私の信じていたものは2
薄汚れ寂れたスラム街。
幾つもの角を曲がり、帰り道もわからなくなってきた頃。
増築に増築を重ねた歪な形の建物が目の前に聳え立っていた。
「ここだよ」
覚悟を決める暇もなく、少年の一人が傷んだ木の扉を押し開ける。
元は酒場だろうか。
明かりのない埃っぽい部屋には、壊れた椅子やテーブルが乱雑に積み重なり、カウンターの上や床には割れた酒瓶が転がっていた。
「ほら、こっちこっち」
「あっ……ちょっと待って」
手を引かれ、部屋の奥にある階段を上がる。
一段登るごとにミシリミシリと軋む階段の先にはまた一つ扉があった。
押し開けた先から、筋となった光が薄暗い階段を照らす。
「ギル様の奥さん連れてきたぁ」
「え!? ギル様の!?」
想像していたのは、真っ暗な部屋に集まる人相の悪い、悪人面の男達。
でも、違った。
扉の先にあったのは、やけに開けた空間だった。
窓は小さいのに、蝋燭の明かりがいくつも灯っているせいで妙に明るい。嗅いだことのない、少しツンとした何かが鼻の奥をくすぐる。
中にいたのは白いワンピースを着た女性達だ。突然入って来た私を見て目を丸くする。
「え……ここは?」
「あら? 何も聞いてないの? ノア、ルイ。あなた達、誰を連れてきたの!?」
「ギル様の奥さんだよ!」
「一緒にいたもん! ね、ギル様の奥さんだよね!?」
何も知らない私に、女性は少年達を睨みつける。
細くて小柄だが、妙に迫力のある女性。口調から何から教会でも王宮でも出会ったことのないタイプの人だ。
子供達を叱りつけるその迫力に、私は慌てて姿勢を正した。つい、貴族ぶった礼をしようとしてドレスがいつもと違うことを思い出す。
「あっ……すいません。ベアトリス・エルヴァニアと申します。ギルバート様からこちらのことは何も伺っていなくて……その、はぐれてしまって。この子たちに助けてもらったんです」
私の言葉に子供達は誇らしげに胸を張った。
女性は片側の眉を上げ「この辺りはまだ危ないから気をつけないと!」と今度は私を叱りはじめる。
集まる視線。奥にも人がいたらしく、扉から何人もの女性が何事かと顔を出した。
「こら、見せ物じゃないのよ! みんな仕事に戻りなさい!」
それに気づくと、私を叱っていた女性は、仕事に戻るよう声をかけ苦い顔をして私に向き直る。
「ここじゃなんだし奥で話そうか。ベアトリス様、こっちにきて」
女性はくるりと向きを変え、建物の奥へと進んでいった。振り返るとすでに子供達は消えていて、私は小さく息を呑む。
相手は私を味方だと思ってる。
探るならギルバートがいない今、絶好のチャンスだ。
怯む心を奮い立たせ、彼女の後を追った。
外観の通り、建物の中はさらに入り組んでいた。
元は共同住宅か何かだったのだろうか。狭い廊下。軋む廊下の両側には扉がある。
一つに部屋にはいくつかのベッドが並び、その上にちらほらと人が横になっていた。
奥に進むたび、空気は重く沈んでいく。
背中には嫌な汗が滲み、口の中が渇き始めた。
教会の聖女を思わせる白い服に油断したかもしれない。
周囲を警戒しながら、少しでも情報を集めようと一つ一つの部屋に視線を向けた。
その一つで、ふと足が止まる。
ベッドに腰掛けたまま苦しげに肩で息をする男性に、白い服を着た少女が寄り添っていた。
少女の見定めるような静かな表情に胸がざわついた。
彼女は何かを決めたように小さく頷くと、サイドテーブルから折り畳まれた小さな紙を取り出す。
何をする気?
嫌な胸騒ぎに少女の行動をじっと目で追うと、彼女はそれを開いて、紙に包まれていた何かを男性の口に流し込んだ。
「あ……ダメっ!」
慌てて飛び込んで、少女の手から紙を取り上げる。
半分ほど口に入ってしまっただろうか。紙の上には茶色い木の根のような粉末が載っていた。
男性の様子は普通じゃない。
これが、人を狂わせる妙薬の正体!?
粉末を顔を近づけると、土のような妙な香りがする。
ギルバートの離宮近くにある、庭師が管理している畑の香り。いや、それよりももっと臭い。人が食べるものとは思えない。
「貴女……! この人になにを飲ませたの!?」
「えっ……何ですか!? 私は……!」
思わず少女に詰め寄った。
私より幼い。十代半ばだろうか。
ギルバートのあの悪どい顔が脳裏をよぎる。
先ほどの双子と言い、女性といい、か弱い人間に手を汚させていたなんて……!
すると突然、バシンと頭に衝撃が走った。
痛みと驚きに振り返ると、案内していた女性が私を目を細めて睨みつけている。
「何やってんの。さっさと薬を返しな」
「……っ! 返さない。知ってるのよ! これが、人を狂わせるって!」
必死に感情を抑え、精霊に力を使わせないよう制御しつつ彼女を睨み返す。彼女は私の剣幕にぷっと吹き出して、突然笑い始めた。
「狂わせる……? 何言ってんだ。これは痰を出しやすくするための薬だよ。熱を冷ます植物も入っていたっけ」
「え?」
思いもよらない言葉に思考が停止する。その背後で、ベッドの上の男性がゴホゴホと何かが絡んでいるような咳をした。
少女は慌てて水の入ったコップを彼の手へと差し出す。
「大丈夫ですか? 苦いですよね。お水で流し込んでください。すいません、残りを返していただいても?」
「あっ……」
私の手から紙を抜き取った少女は、その残りをゆっくり彼の口へと流し込む。彼は「ありがとう」と感謝を告げると、ベッドに仰向けに沈んでいった。
「必ず、楽になりますから」
少女の手が、汗ばんだ男性の額に伸びる。
それは私が昔想像していた聖女の姿そのものだった。
ここは……何?
困った顔をした女性は、私の手を引いて廊下に出た。
「先に自己紹介すべきだったね。アタシはこの救護院の看護婦長をしてるエリーゼって言うんだ」
「救護……院? アジトってさっきの子供達が」
「ああ。昔はイグナーツ様がここを使っていたから、子供達がふざけてそう呼ぶんだよ。今、ここは「病の人間」を預かる場所になってる」
反乱軍の拠点じゃない……?
自分の中の真実に小さなひび割れが起こった。
「あの……ここでは何を?」
「ははっ、まあそう思うよね? 聖女もいないのに、病の人間を預かるなんて」
よく見ると、建物も部屋もギルバートの離宮より遥かに古いのに埃がない。シーツは綺麗に整えられ、ベッド脇の水差しには澄んだ水が入っている。エリーゼは背を向けて、さらに奥へと進みながら口を開いた。
「ギル様はさ、聖女の力に頼らず病に打ち勝とうとしているんだってさ。さっきのはギル様や魔術師が作った『病に効く薬』だ」
「聖女の力に頼らない? 病は……聖女じゃないと治せないでしょう?」
「まあアンタの言うことも分かるよ。『薬』なんて大体が詐欺のまがいもんだもんね。本当に効果があるのかも分からない、平民が気休めで飲むものだもの。まあ確かに軽い熱ならともかく大きなものは治せないよ。それは今も殆ど変わらない」
通り過ぎるいくつもの部屋。
一つはそこで小さな子供がベッドの上で丸くなっている。
一つはそこで女性が赤ちゃんを抱いている。
一つはそこで男性が呻いてる。
みんな一様に痩せ細り、目が窪み、顔色が悪い。
「聖女に治してもらうことができない平民にとって、病にかかるってことは、死と同じだろ。何人も子供を産んで、その子供のうちほんの一握りしか大人になれない。死は隣にいる。だからギル様は……って、あんた達なにやってんの! 掃除の時、蝋燭は離せって言ったでしょ!」
突然、エリーゼは空き部屋を掃除していた二人の少女に向かって声を荒げた。
雑巾を持つ少女の手元が見えやすいようにと蝋燭を近づけたのだろう。蝋燭を持った少女をエリーゼが慌てて引き離す。
「引火するから火には近づけるなって何度言ったらわかるの!」
「ごめんなさい……」
掃除する少女の手には、透明な液体が入った瓶があった。
透明だけど水とは明らかに違う扱いに、それがただの水じゃないことがわかる。
「使い方を間違えたら危険なの。ちゃんと気をつけて」
「はぁい」
蝋燭を持った女の子は、そろりそろりと距離を取る。
もう一人の女の子は瓶の中身を雑巾に垂らし、丁寧に空のベッドの周囲を磨きあげていった。
エリーゼは瓶を凝視する私にふと微笑みかける。
「瓶に入っている物が気になる? これはギル様がトリスカ国との取引でここに運び込んだ物だよ」
「トリスカ国……武器ってこと?」
「武器といえば、武器かもね。ギル様は確かにそう呼んでる。でもアンタ、ギル様の奥さんなんだろ? それなのに、何も知らないんだね」
私はゆっくりと少女に近づいた。
彼女の側にある瓶を持ち上げ、その蓋を取り香りを嗅ぐと、この建物の匂いを凝縮させたような刺激のある香りが鼻を掠めた。
「何これ、液体なのに武器なの?」
「ああそうだ。これでな、目には見えない病の元を始末してやるんだ」
もう聞きなれた低い冷ややかな声。
首筋を突然掴まれたように冷たい何かが全身を駆け巡る。
振り返ると、そこには仁王立ちしたギルバートが私を見下ろしていた。




