【ベアトリス視点】私が信じていたものは
ギルバートが離れた隙を狙って、薄暗い路地に入り込んだ。
ここはスラム街。
大通りの喧騒から少し離れた街の南側。
女性が一人で歩くなんて危険なことは分かっている。
お金になるような物すらほとんど持っていない。
でも、止めなくちゃ。
大通りから聞こえる賑やかな声が、背後に遠く離れていく。
——私の意識はこれから起こるはずの未来の記憶に引っ張られていった。
何度も王宮で聞いた貴族達の言葉が耳の奥でこだまする。
人間を壊す危険な妙薬。
何人もの人間がその薬のせいで人間性を奪われ廃人となった。
売り捌いた金で資金を蓄えた貧困層が反乱を起こそうとしている。
もし。もしもその話が本当だとしたら。
さっきの大通りが昔より潤っているように見えたのは、その危険な薬のせいかもしれない。
反乱を阻止しろ。
スラム街を焼き尽くせ。
意識の端で、王宮の正門で隊を成した兵士や騎士が王都へと雪崩れ込んだ光景が浮かんだ。あの時は王宮に仕える魔術師までもが反乱の鎮圧に駆り出されたと聞く。
それを私は、王宮に仕える聖女の塔から見ていることしかできなかった。
その危険な薬をスラム街の人間に与え、裏で反乱の糸を引いていたとされる人物は――
ギルバートだ。
スラム街を取り仕切っていた『イグナーツ』という人物の拠点から、大量の武器とギルバートの筆跡と一致する手紙が出たらしい。
トリスカ国の国使が失踪した事件にも関わっていた可能性が高いとして謹慎処分を言い渡されていたギルバートは、証拠が出たと同時に行方をくらました。
離宮の使用人、一人も残さずに。
捕えられたイグナーツは反乱の首謀者として処刑。
多くの死人と怪我人が出た。
薬に侵された被害者も多かった。
そこで初めて、平民の救済として王都に聖女の派遣が決定したんだっけ。
私がその救済措置に役立つことはなかったけれど、王宮の窓から真っ黒に焼けこげたスラム街が見えた。窓の隙間から煤と共に漂ってきた血と脂が焦げ付く生々しい匂いが、まだ鼻の奥にこびりついている気がする。
「平民を兵にして、王宮を乗っ取るつもりだったんじゃないか。ギルバートならやりかねない」
真っ赤に焼けた王都の南側を眺めながら、その時、私の婚約者だったアルフレッド王子は面白くなさそうにそう言った。
でも本当に……?
老人から子供達までギルバートに声をかける先ほどの光景が目に浮かぶ。
彼は真っ赤な目で睨みつけ冷たくあしらっていたのに、誰一人顔を青くすることなんてなかった。
軽い態度の奥に敬慕の情が見えた。
彼だってそうだ。
貴族達が顔を顰めるような、薄汚れた貧困層である彼らを大切にしているように見えた。
財産としてでなく。
兵としてでなく。
ただ一人の人として。
気がつくと私を見ている、あの柘榴のような赤い瞳を思い出した。脅したり煽ったりを何度もされたが、結局一度も酷い目になんて合っていない。
むしろ私の感情が昂ったり、強がったりしただけで勝手に精霊が魔力を使って彼を呪ってしまうのに、疎まれているようにすら感じたことがなかった。
疎まれていうというより、むしろ……
どくん、と心臓が脈を打つ。
「ダメ。変な情を持っちゃ。ちゃんと、自分の目で真実を見るの」
トリスカ国の一件でそう決めた。
彼が何かを企んでいることは事実だ。
でも、私の知っている真実じゃなかった。
私が知っているのは結果だけ。
あの時、私の名前を呼びながら、手を伸ばした彼の姿だけ。
ちゃんと――自分の目で見定める。
そう決めたでしょ。
「あなただけが頼りなんだからね? 勝手なことしないで、ちゃんと私の『お願い』を聞いてよ?」
視線は前に向けたままで見えない精霊に語りかけた。
光の精霊は、契約した聖女の感情に徐々に寄り添うそうだ。それと同じなのだろうか。
私が契約した闇の精霊は最近、勝手に動きすぎている気がする。特にギルバートに関して。
でも、いくら文句を垂れたところで精霊は答えない。
ただ、そこに気配を感じるだけ。
「お嬢ちゃんどうした? こんなところで迷子かい?」
「きゃっ……!」
狭い路地裏で木箱に座っていた老人が、すれ違いざまに私の腕を掴んだ。老人から漂う擦れた匂いが鼻を掠める。
振り向くと皺のある顔から覗く目が、嫌な光を纏いながら私をしかと見据えていた。
「この辺は危ないよぉ? ヤバいやつも最近増えてるんだ。ワシが安全なところまで送ってやるからさぁ、何かくれねぇかい?」
「い……いりません! 離してください!」
振り解こうと腕を振るが、彼は笑みを浮かべたまま離さない。どこからともなく、窓の割れる音と誰かの雄叫びが聞こえた。言葉として形になっていない獣のような咆哮に肌が粟立つ。
「大丈夫だって、ワシはいい奴だからさぁ」
「離してっ……!」
老人の反対の手がするりと私に伸びる。
恐怖で昂った感情。耳元で聞こえた小さな鈴の音。それと同時に、木箱がバキリと音を立て、老人が手を離し尻餅をつく。
「痛ってぇ……」
「あああっ! ご……ごめんなさい!」
やってしまった。
腰をさすりながらうずくまる老人に近づくと、彼は私の腕を、さっきよりも強い力で掴み掛かった。
先程とは違う、明らかな敵意の目。
一瞬で足がすくみ上がる。
「立てねえや。お嬢ちゃんがなんかやったのかい? それなら介抱してくれたんや」
「えっ、ちょっと!」
逃げ出さなきゃいけなかったのに、何やってるの!
乱暴に腕を引いても振り解けない。
老人は地面に座ったまま、私の腕を掴み続ける。粗く作られた質素な服の縫い目がブチ、ブチと嫌な音を立て始めた。
感情を昂らせちゃダメ。また呪いが……!
「おじいちゃん、怪我したなら救護院に行こっか?」
「その人、ギル様の奥様だよ。怖がってるから離してあげてよ」
「えっ……ギル様!?」
どこからともなく聞こえた、幼い声。
突然離された手に、私は反動でその場に転んだ。
顔を上げると、路地の先に男の子が二人。
こちらを見てニコニコと微笑んでいる。
あの子たちはさっき見た。ギルバートを「ギル様」と呼んで路地に消えていった子供たちだ。
子供達は私に駆け寄って、手を引いて助け起こした。
茶色の髪の隙間から翡翠のような目が覗く。
見た目がそっくりだから双子だろうか。
「大丈夫?」
「ギル様とはぐれちゃったの?」
「あっ……えっとそうなの」
ギルバートのことを探ろうとしていたなんて言えなくて嘘をついた。男の子たちは、そんな私を疑う素振りもなく二人で顔を見合わせる。
「案内しようか?」
「もう大通りにいないんじゃない? ギル様って忙しいから」
「なら、アジトに連れて行く? おじいちゃんも怪我したんでしょ?」
「そうだね。武器が来たから、後でくるかも」
武器という言葉に私の耳が反応した。
反射的に彼らの細い肩を片側ずつ掴んで前屈みになる。
「武器があるの!?」
「あるよ。あ、でもちゃんと隠してあるから平気! 箱も分けたよ!」
「イグナーツ様の部屋にも隠したんだ!」
イグナーツ。
スラム街を取り仕切るリーダーの名前だ。
男の子は「あっち」と入り組んだ路地の先を指差した。
ここよりもさらに狭く薄汚れた通り。
家と家を渡る紐にかけられた、くたびれた洗濯物が路地をさらに暗く見せている。
騒いだせいだろうか。土壁についた小さな窓から、幾つもの目玉がこちらを見ていた。その目と合った瞬間、背筋に悪寒が走る。
「い……いや! わしはもう大丈夫じゃ! 気をつけてな」
不気味な路地の先に目を奪われた瞬間、座り込んでいた老人は立ち上がり、すごいスピードで反対側へと逃げていった。
「なぁんだ。やっぱり嘘か」
「気をつけなきゃダメだよ。よそ者ってわかると襲われちゃうよ」
平然と「襲われる」なんて言葉を口に出す少年に、こくりと喉が鳴った。
スラム街の最奥、反乱の首謀者であるイグナーツ、アジト。人間を壊す例の薬や反乱のための武器が、この先にあるかもしれない。
「じゃあ……そこに連れて行ってくれる?」
「いいよ!」
二人は両側から私の手を掴み、導くように路地の奥へと手を引いた。




