17話 あの日の約束
あの日──
俺は大陸精霊祭の喧騒に紛れて、王宮の外に飛び出した。
生母であり、王宮の使用人だった母は国王を惑わせた罪ですでに処分された。それなのに生かされた俺の命。
最初はまだ幼い王子のスペアのスペア。
そして、今は王妃や側妃の争いの矛先を向けるためだけに俺は存在を許されてる。
でもいつかは消される命だ。
どうせいらない命なら、と自棄になった俺は、全てを捨てて王宮から逃げ出した。
この日のために手に入れた見た目を変える児戯のような魔術。白銀の髪をありふれた黒へ。血のような赤い目を濁った黒へと変えた。衣装を脱ぎ捨て、使用人の目をかいくぐる。
王宮の外を知らない無知な俺でも、正門から出るなんてできないことは分かっていた。
森に紛れれば、遥か先に見える城下町に辿り着けるだろうと踏んで、草木を掻き分け突き進む。
今なら、囲われた高い城壁に行く手を阻まれる事は分かっているけれど。その時は生きる事に夢中でそんな事すら知らなかったし、思い至らなかったんだ。
森の中を闇雲に進んだ俺は、すぐに方角を見失った。
歩いて、歩いて、たどり着いたのは開けた空間だった。
そこに聳え立つ大きなケヤキ。
その木漏れ日の中に、真っ白な服を着た女の子が立っていた。
見た瞬間に息を呑んだのは、女の子が幻想的な光の粒子を纏っていたから。
澄んだ空や瑞々しい木々の葉に浮き上がる真っ赤な髪。
金色の瞳だけが、その光の粒を反射して太陽みたいに輝いていた。
呼吸を忘れるくらいに綺麗で、ふと頭に浮かんだ言葉が口から零れる。
「……精霊?」
「――っ! 誰!?」
彼女が声を発した瞬間、光の粒は金の軌跡を残し四方八方に散っていった。
女の子と目が合った俺は反射的に背を向けた。
抜け出してきた身だ。変装したとはいえ、王子だと気づかれるわけにはいかない。
「いや……誰かいると思わなくて……ごめん」
「ちょっと待ってよ!!」
背後から呼び止められて、ふと足が止まった。
恐る恐る振り返ると、彼女は気まずそうに俺を睨みつけている。
「貴方は……使用人の子供?」
「え、どうして」
「貴族の子供が薄汚れた服を着て、こんなところにいるはずなんてないでしょう? 使用人区画から抜け出して来たんじゃないの?」
視線を落とすと、白いシャツが草の汁や土でひどく汚れていた。ズボンは所々破けている始末だ。
なるほど、確かに王子になんて見えるわけがない。
「そう……だけど」
「私はベアトリス。あの……あっちにある教会から来たの。貴方、名前は?」
ベアトリスと名乗った彼女が示す方角に視線を向けると、生い茂る木々の先には聖なる泉が広がっていた。
言われてみれば、彼女が着ているのは聖女の服だ。
でも、祭典で見る聖女より遥かに幼い。
——教会に住まう聖女候補の少女。
泉が見えるということは、すぐそばに教会があるはずだ。厳重に警備されていて、周囲は騎士も巡回している。
かなり進路を逸れていることに気づいた俺の背中にじわりと冷や汗が滲んだ。
「……言いたくない。誰かに言われたら困るから」
「あっ。ずるい! 私は名乗ったのに」
「勝手に名乗ったのはそっちだろ。聖女候補が……どうしてこんなところにいるんだよ」
聖女候補は、上位の貴族から選ばれた魔力の高い女の子。
聖なる泉のそばに作られた教会で日夜、祈りと勉学に励んでいる。光の精霊と契約を結んだ暁には、いつか王子や、高位の貴族や、他国に嫁ぐと期待された少女達。
俺の悪態に対して、ベアトリスは当たり前のことを言われたとばかりに目を見開いた。
「決まってるでしょ。抜け出して来たのよ」
よく見ると目元が赤い。輝いていると思っていた金色の目に溜まっていたのは涙だった。
望まれ、選ばれた彼女達に、泣いて逃げ出すような理由があるなんて思わなくて「えっ」と間抜けた声が出る。どんな理由があるか知らないが、彼女を探しに来た誰かと鉢合わせたらもっとまずいことになる。
「早く戻らないと怒られるぞ。じゃ……俺はこれで」
少しずつ後ずさる俺を見て、彼女が何を思ったのか分からない。ベアトリスはハッと顔を上げると、距離を詰めてきた。
「ねぇ、お願い。少しでいいから私と遊んでよ」
「嫌だよ。行かなきゃいけないところがあるから……」
「後でいいじゃない。だって今日はみんな王宮にいるでしょ? 私、来年からはお役目が当たるから、自由に過ごせるのは今日だけなの。普通の子がどんなことをするのか教えてよ」
普通の子……か。
俺は誰からも望まれていない子供だ。たぶん普通じゃない。
だって、他の王子はみんな望まれて産まれてる。きっと他の子供だってそうだ。
普通の子供も、普通の王子もわからない。
そこから逃げ出したくて俺は王宮を飛び出したんだから。
「無理だよ。俺に、そんなの教えられない」
彼女から逃げようと背を向けた。
その瞬間、ベアトリスは駆け寄って俺の手を握った。
びっくりして、すぐ振り解こうと腕を上げたのに——できなかった。
「ね、いいでしょ? 少しだけ、私を普通の子供にしてよ」
未だ赤い目元のまま、どこか勝気に、悪戯っぽく笑った彼女の笑顔に見惚れてしまったから。
細められた金色の瞳の奥に、縋るような色を見つけてしまった俺は、拒絶の言葉が喉の奥へと引っ込んでしまう。
一度、振り返って空を見上げた。
木々の隙間から覗くのは、高く聳え立つ真っ白な王宮。
誰か探しに来るだろうか。
いや、俺はそんな気を配られる子供じゃない。
見つかったらまずいけど、姿が見えなくても気にはされないし、むしろ好都合だと微笑む人間の方が多いだろう。
「君の方は……誰か探しにくるんじゃないのか」
「来ないわよ。みんな王宮だって言ったでしょ?」
「……じゃあ、少しだけなら」
小さく頷くと、ベアトリスは花が咲いたみたいに笑った。
握りしめた手をさらに強め「こっちこっち」と引っ張っていく。
それから――
俺とベアトリスは夢中になって遊んだ。
まるで普通の子供みたいに、たくさん走って、たくさん笑った。
花を摘んで輪っかにしてみたり。
木の棒を握って戦ってみたり。
虫を捕まえてみたり。
ベアトリスは何ひとつ俺には敵わなかったけど、俺よりも遥かに好奇心旺盛でずっと瞳を輝かせていた。
「木に登ってみたいの」
ケヤキを指差すベアトリスが望むまま、彼女を手伝って木に登った。
大きく太い枝に、二人並んで腰を下ろす。
そこからは後ろに聳える王宮も、先に見える聖なる泉もよく見えた。
精霊が住まう泉だからだろうか。
コバルトブルーの美しい水面の上を光が踊るように反射し、不思議な輝きを見せている。
その光景に心を奪われ、落ちた沈黙。
しばらくして、ふとベアトリスが呟いた。
「私、最初は嬉しかったの」
「何が?」
「聖女の素質があるって分かったこと」
横を見ると、ベアトリスは泉を見たまま目を細めていた。
「苦しむ人々を救えるなんて言われたら嬉しいよね。私も小さい時何度も聖女のお世話になったもの。でも教会に入ると、少しずつ現実が見えて来たんだ」
「現実?」
聞き返すと、ベアトリスの小さな手に力が籠った。
遊ぶうちに汚れた白いドレスに、深い皺が刻まれる。
聖女の力を行使する対象は、王族と王族に阿る貴族達。
あとは一部の金持ちだけだ。
奇跡の力を扱うことへの素晴らしさを説きながら、その力は民に向けられていなかったと、ベアトリスは悔しげに呟いた。
「私……聖女になるなら、ちゃんと人の為に力を使いたい。でも聖女なんてさ、結局、権力のための道具に過ぎないって分かってる」
枝の上で膝を抱えたベアトリスは、輝く泉に視線を向け続ける。その横顔はひどく儚げで、痛々しくて、こっちの胸まで痛みはじめた。
「……どうせ道具にされるなら、逃げちゃえばいい」
握りしめた彼女の手に、自分の手をそっと重ねる。
一緒に行く?
全てを投げ捨てるこの言葉を続けようとした矢先、ベアトリスは力強く首を振った。
「王宮の外を見たことある? スラムの方なんて死体が道に転がってるの。でもあの人達は聖女の力を受ける対象じゃないんだって。昔は国民からも聖女候補が選ばれていたけれど、今は精霊が少なくなったから」
「国民……? スラム……?」
聞き返した俺に、ベアトリスは呆れたように笑った。
「街に降りたこともないの? 使用人だって病気をしても聖女に治してもらえないでしょう? 大きな病気をしたら、人は死を待つしかないの。聖女に治してもらえるのは、ほんの一部の貴族だけ」
俺を見て不思議そうに首を傾げる彼女の目で、自分がいかに無知であるかを知った。
俺はただ自分の境遇を呪うだけで、外の世界を考えたことなんて一度もなかったんだ。ましてや、国民なんて意識したこともない。
森の向こう側には、まだまともな世界があると漠然と信じていた。
あれ……王子って、なんだっけ。
「聖女になれるのも、ほんの一部の貴族だけでしょう? せっかく選ばれたんだもん。ちゃんと聖女になって、奇跡の力を人のために使いたい」
言い切った瞬間、ベアトリスは決意したんだと思う。
小さく笑って、彼女は木から飛び降りた。
「うん、自分がやりたいことが何か思い出した。ありがとう。私……戻るね。君もそろそろ行かなきゃでしょ?」
笑顔のまま、ベアトリスは指を空に向ける。
見上げると、空にはすでに茜色が差していた。
いつの間に、こんなに時間が経っていたんだろう。
さっきまでの時間は全て精霊が見せた幻だったんじゃないかと思うほど、無邪気に笑っていた彼女の顔が酷く大人びて見えた。
「もし、どうにもならなかったらどうするの?」
「え?」
「道具のままだったら」
誰かの思惑のまま使われて。
いらなくなったら切り捨てられて。
もう嫌だと言わない彼女に、俺は静かに問いかけた。
ほんの短い沈黙。彼女は目をぱちくりさせて吹っ切れたように笑った。
「その時は君が助けに来てよ」
「え」
「冗談! ごめんごめん」
とてもわかりやすい、嘘くさい笑顔。
不安なんだ。
自分の望みと、世界の求める役割が違うことが。
努力した結果、なんの成果も挙げられず希望を打ち砕かれることが。
あの悲痛な顔が脳裏に深く刻まれる。
あの吹っ切れた笑顔が胸に消えない痕を残した。
助けに来てよ。
この時、俺は初めて心から誰かに必要とされた気がした。
こんなこと、使用人の子供にできるはずがない。
でも王子なら……?
王子なら……手に届くんじゃないか。
「……全部壊して、助けに行くよ」
ベアトリスは一度目を見開いて、また笑った。
気持ちだけ受け取っておくというように。
「そうならないように、せいぜい頑張るよ」
彼女は「今日はありがとう」と手を振って、まっすぐ泉に沿って駆けて行く。
茜色に染まった世界。影が長く伸びる中、駆けていく彼女の足元を照らすように、光の粒がぽつぽつと湧き上がった。
またね、なんて言われなかった。
使用人の子供とは、もう二度と会うことがないと無意識に思っているのかもしれない。
精霊から愛される彼女は、きっと誰よりもすごい聖女になるだろうから。
その遠ざかる背中が見えなくなるまで、俺はずっと彼女の姿を目で追っていた。
そして、木から飛び降りる。
目の前には聖なる泉。
後ろには王宮がある。
この間を、まっすぐ進んでいけば城壁にたどり着くはずだ。
聖女とか、国民とか、俺は何も知らない。
自分を守るのに精一杯で、意識すらしたことがなかった。
だって、これまで誰も俺なんて望んでなかったから。
でも――
茜色が空に広がり、どんどん深くなっていく。
その色が彼女の髪色みたいに見えた。
どうせ必要とされない命なら。
俺は聖なる泉に背を向けて、聳え立つ王宮に向かって歩き始めた。
その後——
狂王子の俺は期待の聖女候補ベアトリスと話す機会なんて与えられなかった。式典や、大陸精霊祭、聖女候補を選ぶ選定式で遠目に見るだけ。
あの日の思い出と約束だけを胸に抱き続けた結果。
気持ちだけがただ、ひたすらに重たくなっていった。
もう、自分の手でベアトリスを幸せにしたいと。




