凛太郎、呆然とする
「東京国税局査察部の者です。今から査察を開始します。皆さん、何にも手を触れないようにお願いします」
織部統括官を先頭にして、柿乃木税理士事務所に大勢の係員がロビーに入って来た。受付の樋口萌美は立ち上がったまま何も言えずにそれを見ていた。係員達は何班かに分かれると、それぞれドアを開いて中へ入って行った。織部と姉小路は一番奥にある柿乃木啓輔のいる所長室を目指して歩いた。
「そのままで!」
織部は男子トイレから出て来た凛太郎を見ると、大声で命じた。
「は、はい!」
凛太郎はその声に驚き、固まってしまった。姉小路はチラッと凛太郎を見て、
(伊呂波坂ちゃんの妹ちゃんと写っていた男だ)
凛太郎を確認すると、織部に続いて所長室へ入った。
「柿乃木啓輔さん、東京国税局査察部の織部です。只今より、査察を開始します。何も触らないようにしてください」
織部が身分証と捜索差押令状を示して言った。
「え?」
啓輔は査察は明日だと聞いていたので、どうして国税局が来ているのか理解できず、
(情報が間違っていたのか?)
何もできていない状態で来られたので、そのまま椅子に座ってしまった。
「急ぐぞ」
二人の後から幾人もの係員が畳んだダンボールを抱えて入って来た。不意打ちをかけたので、査察の時間が短い。基本的に査察は日没までなのだ。すでに時刻は午後二時を過ぎている。日没までは数時間しかない。
「柿乃木先生、税理士の貴方が、脱税を指導するとは悲しい限りです。せめて潔く、ご協力願います」
織部は机を回り込んで啓輔に詰め寄った。
「はい……」
普段は職員に威張り散らしている啓輔は、まさに借りて来た猫のようにおとなしかった。
「そろそろ、査察に入っている頃ですね。織部統括官は姉小路さんと一緒に柿乃木税理士事務所を訪れているはずです」
自販機コーナーで、中禅寺茉祐子が麻奈未に言った。
「そうね」
麻奈未はスマホの時刻を見て、溜息混じりに呟いた。
「マスコミもこちらの動きを察知して、大々的に報道するでしょう。柿乃木税理士が有罪であろうと無罪であろうと関係なしに顧客が離れます。そうなれば、柿乃木税理士事務所は立ちいかなくなります」
茉祐子が厳しい現実を突きつけて来た。麻奈未は茉祐子を見て、
「そうね」
また溜息を吐く。茉祐子は苦笑いをして、
「国税も鬼じゃありませんから、税理士会に接触して、職員の身の振り方を支援してくれるように動いています」
「それは何度か私もした事があるからわかってる。多くの場合は、顧客を担当していた職員が顧客を引き連れて事務所を移る事になるのよね」
麻奈未はコーヒーのカップを手にして一口飲んだ。
「はい。顧客にとって一番の不利益は担当者が変わる事です。税理士事務所がどこであろうと、担当者が同じなら安心するんですよね」
茉祐子はホットレモンティーを飲みながら言った。
「税理士会にいる友人からの話ですが、すでに立候補している先生がいらっしゃるようです」
麻奈未はカップをゴミ箱に放り込んで、
「もういるの? どの先生?」
すると茉祐子は麻奈未に顔を近づけて、
「野間口絵梨子先生です」
その名に麻奈未は目を見開いた。
柿乃木税理士事務所は嵐が過ぎ去ったような状態になっていた。出先で話を聞いたベテラン職員達が帰って来たのは、国税局の査察が終わってから少し経った日没後だった。ベテラン達は所長の啓輔に話を聞こうとしたが、啓輔は所長室のドアを施錠してしまい、誰とも話そうとしなかった。
「終わりだな、この事務所。身の振り方を考えた方がいいぞ」
一番の年長者の職員が凛太郎達に言った。
「行く宛てがない奴は相談に乗るから、連絡くれ」
そのベテランは荷物をまとめると事務所を出て行った。それに続くようにベテラン達はさっさと出て行ってしまった。
「優菜さん」
職員達が自分の将来の事で頭がいっぱいなのに、凛太郎は優菜に声をかけた。優菜は内勤部署の部屋の片隅で、ぼんやりとしていた。
「あ、高岡さん」
優菜は無理に口角を上げて笑おうとしたが、顔が引きつってしまった。
「所長とは話をできましたか?」
凛太郎は優菜の隣の席の椅子に座って尋ねた。優菜は俯いて、
「父は所長室に閉じこもったままで、誰も入れてくれません。だから、開業当時からいてくれた人達も呆れてしまって……」
目に涙を浮かべた。凛太郎は言葉に詰まってしまい、
(何て声をかけたらいいんだ? わからない)
自分の無力さを思い知った。
「どうしたんですか、統括官? 浮かない顔ですね?」
国税局へ帰る車の中で、姉小路は織部が腕組みをしたままなのを見て訊いた。
「あまりにもあっさり証拠が見つかった。そして、予想された政治家の圧力はなかった」
「良かったじゃないですか。滞りなく済んだのですから」
姉小路が愛想笑いをすると、織部は姉小路を見て、
「ブレインホークでも見つけてくださいというような状態で証拠が見つかった。見捨てられたんだよ、どちらも」
「政治家がトカゲの尻尾切りをしたという事ですか?」
姉小路は声を低くした。織部は前を向いて、
「そういう事だろう。余裕綽綽そうなのが、癪に障る」
口をへの字に結んだ。
「ブレインホークは社長が仮に有罪になったとしても、会社は存続していけるだろう。しかし、柿乃木税理士事務所は難しいな。信用商売だから、失われたものは大きい」
織部は窓の外の見える東京タワーを見た。姉小路は頷いて、
「しかし、まさしく自業自得でしょう。税理士として決してしてはならない事をしたのですから」
「それも恐らく、政治家に唆されてだろうがな。堪らんのは事情を知らなかった職員達だ」
織部は姉小路を見た。
「税理士会には支援を要請したが、どこまで動いてくれるかはわからん」
織部は再び外を見た。
「そうですね」
姉小路は俯いて自分の靴の先を見た。
夕方のニュースはブレインホークと柿乃木税理士事務所への査察で持ち切りだった。
「これだけ大々的に報道されたら、顧客が逃げるわね」
食器を洗いながら、聖生が言った。麻奈未は聞こえていないのか、無反応でテーブルを見つめている。
「そうだな」
父親の太蔵はそれだけ言うと立ち上がり、
「風呂に入る」
ダイニングキッチンを出て行った。
「茉祐子の話が本当なら、凛太郎さんは野間口先生のところに移るのかしら?」
聖生が独り言のように呟くと、麻奈未はビクッとした。そして聖生を見て、
「それはないと思う。凛君のご両親は税理士だから、どちらかの事務所に行くんじゃないかな」
「そうなの? だったらどうして、柿乃木税理士事務所にいたの?」
聖生は食器を洗い終わり、冷蔵庫から缶ビールを取り出しながら尋ねた。
「そこまではわからないよ。よその事務所で働く方がいいと思ったのかも」
麻奈未はまた伏目になった。聖生は麻奈未の向かいの椅子に座り、
「お姉、暗いね? 何が心配なの?」
麻奈未は不躾な質問をする妹を睨みつけて、
「心配とかじゃなくて、凛君のいた事務所の所長が脱税に関与していたってわかったら、ますます凛君とは元通りになれないの! あんたって、本当に無神経ね」
聖生は缶ビールを一口飲んで、
「それは悪うござんした。で、どうするつもり? きっぱり諦める?」
「それはない! 時間がかかっても、凛君とは元通りになりたい」
麻奈未は右手でテーブルを叩いた。聖生は苦笑いした。
「どうした? 凛太郎の事か?」
深夜、他に誰もいない一室で、男はスマホで通話をしていた。机の上には「税理士 木場隆之助」と書かれたプレートが置かれている。整髪料でかっちりとオールバックに固めた黒髪で、口髭を生やしており、チャコールグレーのスーツを着ている。
「自分の息子が路頭に迷うかも知れないのに、よくもそんな呑気な言い方ができるわね? やっぱり、貴方に凛の就職を任せるんじゃなかった」
スマホの受話口からはっきりと聞こえる程、相手の声は大きかった。
「俺だって、まさか啓輔が脱税幇助をするなんて、夢にも思わなかったよ。今更ながら、自分のところで働かせるべきだったと思っている」
隆之助は相手の女性の声の大きさに顔をしかめてスマホを離した。
「それは私が反対したでしょ! 貴方のところで働いたりしたら、凛が女にだらしない浮気性の男になってしまうから!」
相手の女性は更にヒートアップして来た。
「おいおい、まだそれを言うか? 俺は浮気も不倫もしていないぞ」
隆之助はスマホを持ち直して反論した。
「その話は今はどうでもいいわ。凛は私が預かるから。貴方は一切関わらないで」
女性の声は怒気を帯びていた。隆之助は肩をすくめて、
「わかったよ。好きにしてくれ」
「好きにするわ」
そこで通話は切れた。隆之助は大きな溜息を吐くと、椅子に沈み込んだ。
朝になった。凛太郎は迷った挙句、事務所へ顔を出した。
「おはようございます」
ロビーのソファに優菜が座っていた。そこで夜を明かしたようだった。
「おはようございます、優菜さん。ずっといたんですか?」
凛太郎は優菜に近づいて尋ねた。優菜は凛太郎を見ずに、
「父がどうしても所長室から出て来ないので……。部屋にはトイレもシャワールームもありますから」
「ああ……」
立て籠もりにはもってこいの場所だったと凛太郎は思った。その時、優菜の腹が鳴った。凛太郎は聞こえなかったふりをしたのだが、
「やだ、高岡さん、聞こえたでしょ?」
優菜は顔を赤らめて凛太郎を上目遣いに見た。凛太郎は惚けようと思ったが、優菜が昨夜から何も食べないで父親を案じているのがわかり、
「何か口に入れた方がいいですよ。コンビニに行って来ますから、欲しいものを言ってください」
優菜の向かいのソファに座った。
「所長の分は?」
凛太郎は廊下の奥をチラッと見て言った。
「父は何か出前をとったようです。私がウトウトしている時、ピザ屋が来たみたいで」
優菜は憤然としていた。自分だけ空腹を満たしているのが腹立たしかったのだ。
「わかりました。経口補水液と栄養補給用のゼリーでいいですか? 一晩何も食べていないと、重いものは受け付けないでしょう?」
凛太郎は微笑んで立ち上がった。
「申し訳ありません」
優菜は弱々しく微笑んだ。凛太郎は頷いて応じると、ロビーを出て行った。
「貴方も随分と変わり身が早いわね、一色君。一度は私を裏切ったくせに」
野間口絵梨子は自分の事務所の所長室で一色雄大と会っていた。
「それを言わないでくださいよ。まさかあんな事になるとは思わなかったのですから」
一色は所長の椅子に座っている絵梨子を見下ろした。絵梨子はフッと笑って、
「それで、今日はどういったご用件かしら?」
目を細めて一色を見上げた。一色は苦笑いをして、
「高岡凛太郎を先生の事務所に引き入れるのを条件に、私を所長代理待遇にして欲しいんですよ」
絵梨子は机に頬杖を突き、
「図々しいわね。別に貴方に協力してもらわなくても、高岡凛太郎はウチに引き入れてみせるわ」
「え?」
一色はそんな返しをされるとは思っていなかったので、目を見開いた。
「私が興味があるのは、高岡凛太郎であって、貴方には全く興味はないの。出て行ってくれる?」
絵梨子はスッと立ち上がると、右手でドアを指差した。
「はい……」
絵梨子の語気の強さに気圧された一色は、すごすごと所長室を出て行った。
「凛!」
凛太郎はコンビニの目前でいきなり後ろから女性に抱きつかれた。
「わわ!」
周囲の人達は驚いて二人を見たが、
「母さん、どうしてこんなところにいるのさ?」
凛太郎が抱きついた女性に言ったので、ホッとしたように歩き去った。
「もう、久しぶりの母子の対面なのに、つれないわねえ」
母さんと呼ばれた女性はミディアムロングの黒髪でターコイズブルーのスカートスーツを着ている。
「ちょっと、恥ずかしいから離れてよ」
凛太郎は母親を振り払った。凛太郎の母は口を尖らせて、右肩から落ちかけていた黒革のハンドバッグをかけ直すと、
「啓輔がバカやったって聞いて、様子を見に来たのよ。何よ、その態度は」
腕組みをした。凛太郎はその言葉に呆然とした。




