査察の行方
「お帰りなさい……」
優菜は凛太郎がレジ袋を下げて帰って来たので、立ち上がって声を弾ませて出迎えようとしたが、彼の後ろからターコイズブルーのスカートスーツを着た綺麗な女性がついて来たので、絶句してしまった。
(誰?)
凛太郎さんが自分との交際を断わったのはこの女のせい? 優菜は一瞬そう思ったが、恋人にしては年齢がいっている気がした。
「柿乃木先生のお嬢さんですね? 私、先生とは古い付き合いがある税理士の高岡綾子です」
その女性は微笑んで黒革のハンドバッグから名刺入れを出し、名刺を一枚差し出した。
「高岡先生? では、高岡さんの?」
優菜は名刺を受け取りながら、自分がとんでもない勘違いをしそうになった事を恥じた。
「はい。凛太郎の母です」
綾子は恭しく頭を下げて応じた。凛太郎はそれを見て項垂れた。
「このたびは大変でしたね。お父様は奥のお部屋にいらっしゃいますの?」
綾子は廊下の先に見える所長室のドアを見た。優菜は名刺を両手で持ったままで、
「はい」
凛太郎を見た。凛太郎は綾子が話の主導権を握ろうとしているのを阻止するために、
「優菜さん、これ、どうぞ」
わざと綾子の前を遮ってレジ袋を差し出した。
「あ、すみません」
優菜は綾子がキッとして凛太郎を睨んだのを見たが、気づかないふりをしてレジ袋を受け取った。
「父は昨日から所長室に閉じ籠ったままで、呼びかけても返事もしてくれないのです」
優菜は綾子が父の旧知だと知り、ある期待を持って話した。
「そうですの。では、私が呼びかけてみましょうか」
綾子は笑顔で応じると、スタスタと所長室へ歩き出した。
「ちょっと、母さん!」
凛太郎は優菜にごめんと小さく頭を下げると、大股で歩く母を追って駆け出した。
「柿乃木先生」
綾子は所長室のドアを四回ノックして呼びかけたが、何の応答もない。
「柿乃木先生、寝てますの?」
綾子は最初より強めに四回ノックした。しかし、やはり何の反応もない。
「柿乃木先生、高岡綾子です。出て来てお話ししましょう」
綾子が言った。それでも啓輔は応答しなかった。綾子はハンドバッグを開いて、
「出て来ないつもりなんですね? では、貴方が昔私に送って来たお手紙を全部お嬢さんにお渡しして帰りましょうかね」
封筒の束を取り出した。凛太郎はギョッとした。気になって近づいて来た優菜もハッとした。すると、所長室の中で何かが落ちる音がして、続けて啓輔の悲鳴が聞こえた。靴音がドアに近づいて来て、ロックが解除される音がし、啓輔が顔を出した。
「あら、お久しぶり。元気?」
綾子はどう見ても元気そうには見えない啓輔を見て訊いた。
「私を脅すのか?」
啓輔は充血した目で綾子を見た。綾子は手紙の束を見せて、
「脅しじゃないわよ」
ニヤニヤして、優菜に渡そうとした。
「やめてくれ! 何が望みだ?」
啓輔は手紙を奪おうとしたが、綾子はそれを往なして、
「往生際が悪い。子供じゃあるまし、部屋に閉じ籠もるなんて最低ね。潔くしなさいよ」
手紙の束をハンドバックに戻した。
「二人で話しましょうか?」
綾子は凛太郎と優菜を見てから啓輔を見た。
「わかった」
啓輔は綾子を招き入れた。綾子はドアを閉じながら、
「私に任せて、凛。大丈夫だから」
ウィンクをした。凛太郎は優菜と顔を見合わせた。
「統括官のおっしゃる通りでした。脱税の手口は稚拙で、とても税理士主導には思えませんでした」
姉小路が織部に報告した。織部は姉小路を見上げて、
「どんな手口だった?」
姉小路は織部に証拠の書類を渡して、
「顧問料の水増し請求です。二倍の金額の請求書を送って全額を振り込ませ、その内半分を裏金として戻し、政治家に流していたようです」
織部は書類を見て、
「では、柿乃木は何のうまみもなく、共謀したという事か?」
姉小路は眉をひそめて、
「表向きはそういう事になりますね。しかし、柿乃木がそこまでバカだとは思えません。何か裏がある気がします」
織部は書類を机の上に置いて、
「だろうな。もう少しナサケに動いてもらうか」
「ですね」
姉小路は中禅寺茉祐子の不敵な笑みを思い浮かべて身震いした。
「どうした?」
織部が尋ねると、
「いえ、何でもありません。では、こちらはこちらで調べを進めます」
姉小路は一礼して自分の席に戻った。その向かいにある麻奈未の席には麻奈未はいなかった。
(伊呂波坂、すまんな。もう少し、堪えてくれ)
織部は麻奈未の席を見てから、もう一度書類に目を通した。
「俺を笑いに来たのか?」
啓輔はソファに腰を下ろしながら言った。綾子はその向かいに座ると、
「まさか。貴方を笑いに来る程、私は暇じゃないわ。凛の事で来たのよ。私の事務所に引き取るために」
「そうか」
啓輔はテーブルの上に散乱しているピザが入っていた箱を片付け、ゴミ箱に放り込んだ。
「今日は職員がいなかったけど、みんな逃げ出したの?」
綾子は脚を組んで尋ねた。啓輔はその脚をジッと見ながら、
「みんなではない。様子を見ている者がほとんどだ。ウチは給与が別格だからね」
綾子は啓輔の視線を気にかける事なく、脚を組み替えて、
「なるほど。金でしか繋ぎ止められないのね。貴方らしいわ」
鼻で笑った。啓輔はムッとして、
「君が俺のプロポーズを断わったのは、結納金が足りなかったからなのか?」
嫌味たらしく言い返した。綾子は肩をすくめて、
「貴方のいろいろなサイズが足りなかったからよ」
啓輔の股間を見た。
「う……」
啓輔は顔を赤らめ、黙ってしまった。綾子はスッと立ち上がると、
「話し合うまでもなかったわね。もう少し骨のある男だと思っていたんだけど、木場よりもヘタレだわ」
啓輔も立ち上がって、
「離婚して十年も経つのに、まだ木場と連絡を取っているのか?」
綾子はハンドバッグを肩にかけると、
「凛の事で連絡しただけよ。それも三年ぶりにね」
啓輔はドアに歩き出した綾子の前に回り込み、
「君となら立て直せる。だから、俺と結婚してくれ」
その右腕に縋りついた。綾子はそれを振り払って、
「お断わりします。若い恋人とやり直したら?」
ドアノブに手をかけた。
「今でも好きなんだよ。君しかいないんだ。頼むよ!」
啓輔は尚も追い縋ろうとした。綾子は啓輔の手をハンドバッグで弾き返した。
「気持ちの悪い事を言わないで! 一体何年前の話をしているのよ!? 私達の関係は四半世紀以上前に終わったの! 今日は昔馴染みとして来ただけ。貴方と男女のあれこれを蘇らせるために来たんじゃないわ」
綾子は勢いよくドアを開いて出ると、壊れるのではないかという強さで閉めた。
「ああ……」
啓輔は縋ろうとしていた糸を切られた思いがして、しゃがみ込んだ。
「凛、行くわよ。あんたは今日から高岡税理士事務所の職員になるから」
綾子はドアの前にいた凛太郎を見た。
「ええ!?」
凛太郎と優菜がほぼ同時に叫んだ。
「辞表は後で出しに来なさい。柿乃木先生はお取り込み中みたいだから」
綾子はチラッと優菜を見て言った。すると優菜が、
「高岡先生、私も先生の事務所で雇ってください。もうこんなところで働きたくないんです」
綾子の前に立った。凛太郎は目を開いて優菜を見た。
「貴女はお父さんと話をしなさい」
「そんな事しても無駄です」
優菜は涙を目に浮かべて首を強く振った。綾子は優菜の両肩を掴んで、
「このままって訳にはいかないでしょ? 一度だけ話して。そしてそれでも尚、ここにはいられないと思ったら、私に連絡を頂戴」
軽く叩くと、微笑んで優菜を横にどけ、凛太郎の腕を掴んで歩き出した。
「母さん!」
凛太郎は抗おうとしたが、綾子が強く腕を握っているので、仕方なく続いた。そして優菜を見ると、頭を下げて詫びた。
「高岡さん……」
優菜は涙を流してそれを見ていた。
「あの子、あんたに惚れているわね」
綾子はエレベーターの中で不意に言った。凛太郎は綾子を見て、
「一時の気の迷いだよ。所長に対する当てつけで、俺を好きなふりをしているだけさ」
綾子は目を細めて、
「そんな事言ってるから、女の子にモテないのよ」
「え?」
凛太郎はその言葉にビクッとした。綾子は息子のリアクションが大きかったので、
「どうしたの? 当たってた?」
クスクス笑って顔を覗き込んだ。
「別に当たってないよ」
凛太郎は開いた扉をくぐり抜けた。綾子は凛太郎の右腕に自分の左腕を絡ませて、
「母さんに教えなさい。付き合っている人がいるの?」
「やめてよ、恥ずかしいから!」
凛太郎は綾子の腕を振り払った。
「いるんだ。丸わかり!」
綾子は凛太郎の鼻を摘んだ。
「別れたんだよ!」
凛太郎は綾子の手を振り払って叫んだ。そして、
「ああ……」
失言に気づき、項垂れた。
「え? 別れたの?」
綾子は目を見開いた。
「ごめん、いないと思ってからかってたんだけど……」
凛太郎の項垂れ方が予想以上に大きかったので、綾子は焦ってしまった。
「ごめんね、凛。母さんが悪かった」
綾子は背伸びをして凛太郎の頭を撫でた。
「取り敢えず、事務所に行こうか。ね?」
綾子は無反応の凛太郎を強引に引っ張って歩き出した。
綾子に突き放された優菜はしばらく呆然としていたが、涙を拭って所長室のドアを見た。
「父さん、開けて。話があるの」
力強く四回ノックをした。反応がないので、もう一度叩こうとした時、ドアがゆっくりを開けられ、啓輔が顔を出した。
「優菜……」
啓輔の顔は青白く見えた。優菜は溜息を吐いて、
「まだ終わった訳じゃないわ。考えましょう」
中に入ると、後ろ手にドアを閉じた。
「しっかりしてよ。この事務所の所長でしょ? このまま事務所を潰すつもりなの?」
優菜は俯いたままの父に言った。
「もうダメなんだ。みんなが俺を見捨てた。今日来ていない奴らはもう、よその事務所に行っているんだ。もう終わりなんだよ……」
啓輔は泣き言を言ってしゃがみ込んだ。
「本当にそう思っているのなら、私も出て行くわよ。どうなの?」
優菜は身を屈めて尋ねた。
「お前の好きにしろ。この事務所はもう沈む。泥舟なんだよ」
啓輔は涙ぐんでいた。優菜は立ち上がって、
「わかった。じゃあ、出て行くね。野間口先生によろしく」
ドアを開くと振り返らずに出て、また後ろ手に閉じた。
「ううう……」
啓輔は床に蹲って泣き出した。ドアの向こうで、去って行く優菜の靴音が響いていた。




