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麻奈未の思いと凛太郎の思い

 伊呂波坂いろはざか麻奈未まなみはまた会議室にいた。しかし、今度の相手は織部利一郎統括官だった。

「柿乃木啓輔が脱税幇助で逮捕送検になるのは知っているね?」

 織部は会議テーブルに腰を下ろして言った。

「はい」

 麻奈未は姿勢を正して織部を見た。織部は頷いて、

「状況は悪くなった。しかし、君にとってはいいかも知れない」

 謎めいた事を告げたので、麻奈未は眉をひそめて、

「どういう事でしょうか?」

 織部は麻奈未を見て、

「君の交際相手はどうやら柿乃木税理士事務所を辞めるようだ。となれば、査察とは完全に無関係になり、君との交際にも支障はなくなる」

 麻奈未は一瞬喜びそうになったが、

「しかし、彼はブレインホークの担当でした。その点で、査察の対象にはならないのでしょうか?」

 声を低くして尋ねた。織部はフッと笑って、

「それは心配ない。ナサケの調べで、ブレインホークとの脱税については柿乃木税理士単独の行為である事がわかっている。柿乃木税理士事務所の経理を調べたら、現金も預金も請求書の発行も全て柿乃木が管理しており、担当と言えども金の流れは知らないのだ。君の交際相手が関与している可能性は限りなくゼロに近い」

「そうですか」

 麻奈未の顔にようやく笑みが浮かんだ。織部は微笑んで、

「すぐにでも連絡を取りなさい。すでに査察は秘密事項ではない。別れを切り出した理由を話して構わない。そこからどうするかは君次第だ」

「はい……」

 織部の言葉に麻奈未は凛太郎に自分が告げた事を思い出し、顔を強張こわばらせた。

「どうした?」

 織部は麻奈未の顔つきが変わったのに気づき、声をかけた。

「いえ、何でもありません。ありがとうございました。早速連絡してみます」

 麻奈未は一礼すると、会議室を出て行った。

(何でもないとは思えんがな)

 織部は麻奈未が動揺しているのを感じたが、何も言わなかった。


「伊呂波坂先輩、どうしたんですか?」

 麻奈未が廊下の柱の陰で唸りながらスマホを見ていると、中禅寺茉祐子が声をかけてきた。

「あ、中禅寺さん」

 麻奈未は慌ててスマホをスーツの内ポケットにしまった。

「彼氏さんに連絡したんですか?」

 茉祐子は近づいて尋ねた。麻奈未は茉祐子の視線を避けるように俯いて、

「そんな事ないよ」

 即否定したのだが、

「でも、もう査察は行われて、秘密事項ではなくなった訳ですから、連絡しても大丈夫ではないですか?」

 茉祐子は麻奈未の顔を覗き込んできた。茉祐子の方が身長が低いので、麻奈未は簡単に顔を見られてしまった。

「そうね。後で連絡してみる」

 麻奈未は作り笑顔で応じると、その場を立ち去ろうとした。

「先輩には申し訳ない事をしたと思っています」

 不意に茉祐子が出したので、

「え?」

 麻奈未は思わず振り返った。

「ブレインホークの内偵を始めた頃は、税理士が関与しているとは思っていませんでしたし、先輩の彼氏さんがそこに勤めているのも知りませんでした」

 茉祐子は上目遣いに麻奈未を見ていた。

「そんな事、気にしなくていいよ、中禅寺さん。この仕事はそういう事がよくあるんだから、気にしていたら仕事できないよ」

 麻奈未は微笑んで言った。そして、

「彼はどこに移るのか知っているの?」

 茉祐子に近づいて小声で尋ねた。茉祐子は周囲を見渡してから、

「野間口先生のところには行かないようです。彼氏さんのお母様が引き取ったみたいです」

「そうなんだ」

 麻奈未は野間口絵梨子が関わらなかったのを知り、ホッとした。

(でも、私達、半年付き合っていたけど、秘密にしていたから、お母様にもお父様にもお会いしていないんだよね。また困った事になった……)

 麻奈未は別の心配事ができて、憂鬱になりそうだった。

(早く凛君に連絡しないと、お母様に歪んだ情報が伝わるかも知れない)

 麻奈未は茉祐子に礼を言うと、その場を離れた。

「伊呂波坂ちゃん」

 麻奈未が席に戻ると、向かいの席の姉小路が声をかけてきた。

「何ですか?」

 麻奈未は作り笑顔で応じた。姉小路は声を低くして、

「さっき思い出したんだけど、査察に入った税理士事務所に妹ちゃんと一緒に写っていた男がいたよ」

「そうですか」

 麻奈未はその話をしたくないので素っ気なくした。しかし姉小路は、

「妹ちゃん、確か税務署勤めだよね? もし、あの男が妹ちゃんと付き合っているとしたら、まずいなあ」

「どうしてですか?」

 麻奈未はつい食いついてしまった。姉小路は机を回り込んで隣の空いている椅子に座り、

「だって、査察に入った税理士事務所の職員と税務署の調査官が付き合っているって、立場的に、ね?」

 皆まで言わせるなという顔をした。

(やっぱり、みんなそう思うよね)

 麻奈未は思わず溜息を吐いた。

「あれ、そのリアクション、妹ちゃんの彼氏なの、あの男?」

 姉小路が顔を近づけてきた。

「違いますよ。もしそうだったら、別れさせています」

 麻奈未はムッとして姉小路を見た。

「そうだよね。でも、何て言って別れさせるの? 査察は秘密事項で、口外はできないよ」

 姉小路はニヤニヤして詰めてきた。麻奈未は、

「妹も税務署の人間ですから、査察の事を言わなくても、察してくれるはずです」

 姉小路を睨みつけた。姉小路はその迫力に後退あとずさりして、

「なるほどね」

 席を立つと、そそくさと自分の席に戻った。織部が見ているのに気づいたのだ。

「姉小路、検察へ提出する書類はできたのか?」

 織部が言った。

「はい、只今、作成中です」

 姉小路はパソコンを開いて応じた。

「早くしろよ。検察は気が短い人間が多いからな」

 織部は目を細めて告げた。

「わかりました」

 姉小路はブラインドタッチでキーを打った。

(凛君、もうお母様の事務所に行ったのかしら?)

 休憩時間に連絡できなかった事を麻奈未は悔いた。


 麻奈未の予想通り、凛太郎は母親の綾子と共に、彼女の事務所にいた。五階建ての雑居ビルの二階で、ワンフロアになっている。事務員も外回りの職員もいない。それでも、所長の机と椅子、職員用の机が六台あり、コピー機が一台、パソコンは専用のデスクに一台、綾子の机に一台ある。

「そこに座って。話をしたいから」

 綾子は所長の机と職員の机の間にある革張りのソファを右手で示した。

「ああ」

 凛太郎はソファに腰を下ろした。綾子はハンドバッグを自分の机の上に置くと、凛太郎の向かいに座った。

「母さん、全部一人でこなしているの?」

 凛太郎は誰もいないフロアを見渡して言った。

「そうよ。木場の事務所にいた時に担当していた顧客を慰謝料代わりにもらって、そこから何軒か増やしたけど、これ以上は無理だと思ったから、今は拡大はしていないの」

 綾子はソファの背もたれに寄りかかった。

「母さんがこんなに苦労しているのに、何故か就職の相談を木場にして、母さんには何の相談もなく、一人暮らしをしたいと言って、さっさと家を出て行った不人情な息子がいたわね」

 綾子は肘掛で頬杖を突いて凛太郎を半目で見た。

「う……」

 痛いところを突かれた凛太郎は何か言おうとして口籠った。

「だから、今回の件は母さんにとっては渡りに船だったのよ。木場がどういうつもりで柿乃木啓輔にあんたを頼んだのかは知らないし、知りたくもないけど、どっちにも頭を下げる必要もなく、あんたを連れて来られたんだもの」

 綾子が妙に上機嫌なので、凛太郎は面食らっていた。

「あんたはアパートも引き払いなさい。給料は柿乃木啓輔程は出せないけど、家賃が浮いて、食費も浮くでしょ?」

 綾子はニコニコしながら凛太郎の隣に座った。

(母さんから独立したいから、就職の相談は父さんにしてアパートを借りたのに、これじゃ以前に逆戻りだよ)

 凛太郎は項垂れそうだったが、今綾子を怒らせると無職になってしまうので、応じるしかないと思った。

「母さんはそれで大丈夫なの?」

 凛太郎が尋ねた。すると綾子は涙ぐんで、

「優しいのね、凛。母さんの事、心配してくれてるの?」

 ギュウッと抱きしめた。

「わわ、ちょっと、母さん!」

 ボディタッチが過剰な母に凛太郎は慌てた。

「大丈夫よ。家には防災用の食料が三ヶ月分くらい残っているから、その処分のためにも、帰って来て欲しいのよ」

 遂には頬ずりまでして来たので、凛太郎は綾子を押しのけて立ち上がった。

「ありがとう、母さん。助かるよ」

 凛太郎は棒読みで礼を言った。

「たった一人の息子ですもの、当たり前じゃないの」

 綾子はテーブルの上のティッシュを取り出して涙を拭った。

(本当に喜んでいるんだ……)

 綾子が涙を浮かべているのを見て、凛太郎は後ろめたくなった。その時だった。

「わっ!」

 いきなりスマホの着信音が鳴り響いた。

「何、何?」

 綾子は聞き覚えのない着信音に辺りを見渡した。凛太郎はその着信音で誰からの電話かわかっていた。

(麻奈未さんからだ。何だろう? 何か忘れている事でもあったか?)

 凛太郎は自分が何か大事な事を忘れており、麻奈未が怒って連絡して来たのではないかと考えた。

「凛の携帯? どうしたの、出ないの?」

 綾子が立ち上がって顔を近づけた。

「いや、その……」

 凛太郎は更に追い討ちをかけられる気がして、怖くて通話を開始できない。

「出なくていい電話なの? 構わないの?」

 綾子は音がしてくるスーツの内ポケットにいきなり手を突っ込み、スマホを取り出してしまった。

「ああ!」

 凛太郎は焦って取り返そうとしたが、遅かった。

「麻奈未さん? 誰?」

 綾子は画面に映る名前を見てから凛太郎を見た。

「出るから返して!」

 凛太郎は綾子からスマホを奪い返して、応答しようとしたが、切れてしまった。

「あああ……」

 凛太郎は出なくてすんだという思いと出なかったせいでまずい事になるのではないかという思いの狭間で揺れた。

「麻奈未さんて誰なの、凛?」

 綾子が詰め寄った。凛太郎は項垂れて、

「付き合っていた人……」

 誤魔化し切れないと観念して言った。

「だったら、すぐに折り返しなさい」

 事情をよく知らない綾子は強い調子で促した。

「う、うん」

 凛太郎は震える手でスマホを操作しようとした。

「わ!」

 その時、また麻奈未から着信が入った。

「あああ……」

 凛太郎は動転してしまい、応答をタップできない。

「何してるの、早く出なさい!」

 綾子がイライラして怒鳴った。

「わかってるよ」

 凛太郎も出たいのだが、何故か指が硬直してうまく画面をタップできない。

「ああ!」

 そして、うっかり拒否をタップしてしまった。

「何してるのよ!?」

 綾子が呆れて叫んだ。凛太郎は項垂れ、

(まずいよ、まずいよ。どうすればいい?)

 この世の地獄を味わった気がした。


(切られた……)

 女子トイレの個室でかけていた麻奈未は目の前が真っ暗になった。

(凛君、怒っているのかな?)

 麻奈未は目を潤ませた。

(そうだよね、あんな言い方で別れを告げて、それっきり何も言わずに立ち去って、ずっと連絡しなかったんだもんね)

 凛太郎が電話に出ないのも仕方がないと思った。

「凛君、ごめんね……」

 麻奈未は声を押し殺して泣いた。

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