動転動転
麻奈未が泣き崩れていた頃、凛太郎は顔色を失っていた。
(麻奈未さんがかけてきてくれたのに、切ってしまった……。取り返しがつかない事を……)
スマホを見つめたままで凛太郎が固まっているので、
「しっかりしなさい、凛!」
綾子は凛太郎の左頬を平手打ちした。
「あ……」
凛太郎はその衝撃で我に返った。
「早く折り返して、非礼を詫びなさい。こういう事は迅速にしないと、どんどんこじれるのよ!」
綾子はそれでもボーッとしている息子を叱咜した。しかし凛太郎は、
「無理だよ。今ので麻奈未さんを呆れさせたよ。もう取り返しがつかないんだ」
スマホをテーブルに放り出してしまった。
「別れを切り出したのは、麻奈未さんなんだ。俺が不甲斐ないからそうなったんだ。もうダメなんだよ」
凛太郎は項垂れた。
「あんたは昔からそう。思い込んでどんどん悪い方へ妄想を膨らませて、友達を失ったり、好きな子と疎遠になったりして! いい加減、その投げやりな性格を直しなさい!」
綾子は今度は凛太郎の頭を叩いた。
「自分の後ろ向きな性格を直そうと思って、麻奈未さんに交際を申し込んで、押して押してやっと承諾してもらって、半年夢のような日々を過ごして来たんだよ。でも、この前、いきなり別れを切り出されて……」
凛太郎は涙ぐんだ目で綾子を見た。
「そうだったの。ごめんね、凛。母さんが悪かったわ。ごめんね」
綾子ももらい泣きをしそうになりながら、凛太郎を抱きしめた。今度は凛太郎はそれを拒まなかった。
「母さん……」
凛太郎は綾子を抱きしめ返した。
「よしよし」
綾子は凛太郎の反応に嬉しくなり、頭を撫でた。
麻奈未はぼんやりしたままで席に戻った。
「伊呂波坂、具合が悪いのか?」
織部統括官が声をかけた。姉小路は検察庁へ行っていていない。他の者達は離れたところでミーティングをしている。
「そんな事はないです」
麻奈未は織部を見て弱々しく微笑んだ。織部は、
「そんな事はないようには見えないから訊いたんだよ。例の件はすんだのか?」
麻奈未はピクッとした。織部はその反応を見て、
「まだしていないのか? しづらいのか?」
「いえ、別に」
麻奈未は俯いた。織部は溜息を吐いて、
「やはり、私の提案が良くなかったのだな。付き合い始めて間もない君には、酷だったか」
その言葉に麻奈未はハッとして織部を見た。
「それは違います! 統括官のご指示は的確でした。私が不甲斐ないだけです」
麻奈未は立ち上がって言った。
「何があったんだ? 電話をかけてはみたのだろう?」
織部は麻奈未を見た。麻奈未はまた俯き、
「はい……」
織部はもう一度溜息を吐き、
「話してくれないか。何があったのか」
麻奈未はまたピクッとしたが、
「はい」
織部を見て頷いた。
「ねえ、その麻奈未さんはどんな人なの?」
綾子は凛太郎の頭を撫でながら尋ねた。凛太郎は項垂れたままで、
「東京国税局の査察部の人なんだ。俺とは釣り合わない人だよ」
「職業に貴賎はないわよ。そう言えば、麻奈未さんの名字は何て言うの?」
綾子は凛太郎の顔を右手で引き上げた。凛太郎は虚ろな目で、
「伊呂波坂。伊豆の伊に風呂の呂、波風の波に、土偏の坂」
綾子はその名字を聞いて目を見開いた。
「ええ? 伊呂波坂?」
「知ってるの?」
綾子のリアクションに凛太郎が言った。綾子は、
「知ってるも何も、母さんが二十代前半の頃、最初に勤めた税理士事務所で、顧客が査察に入られた事があったの。その時の担当官が確か、伊呂波坂っていう男の人だったわ」
「それ、多分、麻奈未さんのお父さんだよ。鬼調査官て呼ばれていたそうだよ」
凛太郎は綾子が憧れの人を思い出すような顔をしているので、半目で応じた。綾子も息子の冷たい視線を感じたのか、咳払いをしてから、
「マルサがかっこよく見えただけよ。別にあんたが勘ぐるような感情はなかったからね」
凛太郎を見て、
「麻奈未さんはお父様を尊敬しているから、同じ国税局に勤めているのね? 素晴らしいわ」
凛太郎はますます半目になり、
「麻奈未さんだけではなく、妹の聖生さんも税務署の調査官なんだ。国税一家なんだよ」
「へえ、そうなんだ。ウチとは格が違うわねえ。凛、でかした! これで高岡家も安泰ね」
息子の視線の冷たさに綾子は苦笑いをした。
「だから、別れを告げられたんだよ、その麻奈未さんに!」
凛太郎はまた目を潤ませて叫んだ。すると綾子はフッと笑って、
「母さん、気づいちゃったのよね、麻奈未さんの優しさに」
「え?」
凛太郎は母が得意そうに自分を見ているので、ポカンとした。
「あんたは今、どうしてここにいるの?」
綾子は凛太郎に顔を近づけた。凛太郎は綾子から顔を離して、
「母さんが強引に連れてきたんじゃないか」
潤んだ目で睨みつけた。綾子は軽く凛太郎の頭を叩いて、
「そういう事を訊いてるんじゃないの! あんたが柿乃木税理士事務所を出る事になったのは、何が原因?」
「所長が脱税を指導していたので、査察に入られたから」
凛太郎はまだ母の言おうとしている事がわからない。綾子は溜息を吐いて、
「何だか、麻奈未さんが気の毒になってきたわ。こんな鈍感な男と付き合っていたなんてさ」
凛太郎は口を尖らせて、
「何だよ、それ? もっとわかりやすく言ってよ!」
綾子は肩をすくめて、
「あんたが麻奈未さんに別れを告げられたのは、いつ? 柿乃木税理士事務所が査察に入られる何日か前なんじゃないの?」
「あっ!」
そこで凛太郎はようやく綾子の言おうとしている事を理解した。
「わかった?」
綾子は得意そうに凛太郎を見ている。凛太郎は頷いて、
「わかったよ。麻奈未さんは俺を助けるために別れを切り出したんだ! 査察に入られた税理士事務所の職員がマルサと付き合っているなんてわかったら、まずい事になるから」
あからさまに嬉しそうな顔になった。
「そういう事。別にあんたに呆れた訳でも、幻滅した訳でもないの。少なくとも、母さんはそう思う」
綾子は腕組みして言った。
「だから、早くかけなさい。麻奈未さんはあんたの連絡を待っているはずだから」
綾子は凛太郎の背中を力を込めて叩いた。
「痛っ!」
そのあまりの強さに凛太郎は呻いた。
「考え過ぎだよ。君は君を好きだと言ってくれたその彼が、君の事をそんな風に思っていると考えているのか?」
織部に全てを話した麻奈未は、織部に諭されていた。
「でも、私は彼に酷い仕打ちをしました。恨まれて当然なんです」
麻奈未はそれでも自分を責めた。織部は腕組みをして、
「それは君の勝手な推測だろう? 彼からそう言われた訳ではないだろう?」
「それはそうなんですけど……」
織部に冷静に言われると、自分が妄想を膨らませているのがわかってきた麻奈未はまた涙ぐんだ。
「とにかく、もう一度連絡をしてみなさい。結論はそれからでもいいだろう?」
織部は麻奈未に近づき、左の肩を右手で軽く叩いた。
「はい……」
返事はしたものの、麻奈未は凛太郎に連絡をするのはまだ怖かった。
「それとも、直接会って話した方がいいかな?」
織部が言った。
「え?」
麻奈未はギョッとして織部を見た。
「電話では伝わり切らない事もある。顔を見て話をした方がいいかも知れないよ」
織部は微笑んだ。麻奈未は顔を引きつらせて、
「そ、そうですね……」
無理に笑顔で応じた。
(どうしよう?)
事務所を出て来た優菜は迷っていた。綾子には、
『このままって訳にはいかないでしょ? 一度だけ話して。そしてそれでも尚、ここにはいられないと思ったら、私に連絡を頂戴』
そう言われたが、いざとなると連絡をするのが怖い。
(母親は息子に近づく女を警戒するものよね)
早くに母親を亡くした優菜には、母親と息子の関係は想像もつかなかった。
(バカ正直に連絡なんかしたら、呆れられるだろうな)
優菜は凛太郎にマザコン疑惑を抱き始めている。
(あれは高岡先生の遠回しの拒否なんだろうな。凛太郎さんに近づく女は排除するって事だ)
優菜は荷物をまとめるために家に帰る事にした。
「優菜さん」
そこに一色雄大が現れた。優菜はビクッとして一色を見た。
「どうしたんですか? 事務所から出てくるのを見かけたんですけど」
一色は微笑んで優菜に近づいた。優菜は後退りをして、
「何でもありません。失礼します」
一色の横をすり抜けて走り出した。
「チッ」
一色は舌打ちをして、柿乃木税理士事務所へと歩き出した。
(俺は簿記論と財務諸表論、所得税法の試験に合格している。後は消費税法と国税徴収法の試験に合格すれば、税理士の資格を取れる)
一色は柿乃木啓輔と交渉して、事務所を引き継ぐ事を考えていた。
(俺が税理士になるまで、野間口先生に取り仕切ってもらう事を所長に承諾してもらえば、万事うまくいく)
一色は野間口絵梨子とも交渉して、絵梨子の承諾は得ていた。
(何なら、野間口先生でもいいさ。なかなかの身体をしているし、優菜ちゃんよりもいろいろと知っているだろうしね)
一色は優菜との結婚はどうでもよくなっていた。しかし、彼はその絵梨子が啓輔の恋人だとは知らないのだ。
野間口絵梨子は自分の事務所でほくそ笑んでいた。
(柿乃木が大しくじりをやらかしてくれたお陰で、とんでもない幸運が転がり込んできたわね。一色も一癖ありそうで危ないけど、私の敵ではない。やりようによっては、使える駒になる)
絵梨子は一色の誘いに乗り、完全に柿乃木税理士事務所を乗っ取るつもりである。
(一色が柿乃木を説得できなければ、私がする。そうすれば、一色に大きな貸しができて、この先も優位が保てる)
絵梨子は一色が柿乃木啓輔を説得し損ねるのを期待していた。
(急がないと、柿乃木の職員達が自分の担当先を引き連れてよその事務所に移ってしまう。機先を制するためには、国税局の動きが知りたい)
絵梨子はスマホを手に取り、姉小路に連絡をした。
「やあ、まさかまた連絡をくれるとは思っていなかったよ」
姉小路の声は相変わらずの猫撫で声だと絵梨子は思いながらも、
「教えて欲しい事があるの」
「もしかして、柿乃木税理士事務所の事か?」
姉小路の声が低くなった。
(流石に警戒されているか?)
いくら色ボケの姉小路でも、仕事絡みだと厳しいかと絵梨子は思った。
「話が早くていいわ。今夜、いつものバーで会えない?」
今度は絵梨子が猫撫で声で言った。
「怖いな。何が知りたいんだ?」
姉小路の声が更に警戒を強めた調子になる。絵梨子は、
「その先はホテルの部屋で聞くわ」
ウィスパーボイスで語りかけた。
「ホントか?」
姉小路が訊いた。
「本当よ。待ってるわ」
絵梨子は通話を切った。
「ちょろいわね」
彼女は右の口角を吊り上げた。
「何してるの! 早くかけなさいよ」
いつまでもスマホの画面を見たままで動かない凛太郎に綾子が怒鳴った。
「わかったよ」
凛太郎は震える指で画面をタップした。麻奈未へのコールが開始された。
「あれ?」
何度コール音が鳴っても、麻奈未は出ない。また凛太郎を不安が覆い始めた。
「出ないよ」
凛太郎が泣きそうな顔で綾子を見る。
「もう少し待ちなさい」
切ろうとする凛太郎を綾子が叱咤した。
「あ」
何度かコールしてから、
「留守番電話サービスに接続します」
音声が流れた。
「ダメだ、出てくれないよ」
凛太郎は通話を切り、綾子を見た。
「仕事中なのかも知れない。しばらく経ってから、もう一度かけ直しなさい」
綾子は時計を見て言った。そして、
「お腹空いてない? 出前取ろうか」
そう言われて、凛太郎は朝から何も食べていない事を思い出した。




