すれ違う人々
一色雄大は柿乃木税理士事務所の所長室のソファで柿乃木啓輔と向かい合っていた。
「どういうつもりだ? 恩を仇で返すのか?」
啓輔は一色を睨みつけた。一色はそれを鼻で笑って、
「恩? 貴方に恩を受けた覚えはありませんね。税理士試験の三科目は自分の実力で取りましたし、優菜さんとの事は貴方が言い出した事で、私はそんな事を望んだつもりはありませんよ」
啓輔はテーブルを両手で叩いて、
「ふざけるな! 貴様如きがこの柿乃木税理士事務所を運営するだと!? 笑わせるな。小僧ができるものか!」
怒鳴り散らした。一色は目を細めてそれを見ていたが、
「何も私が切り盛りするとは言っていませんよ。優秀な先生にお願いして、うまく取り計らってもらうつもりです」
啓輔は眉をひそめて、
「優秀な先生だと? 一体誰だ?」
一色はフッと笑って、
「そんな事は教えられませんよ。それが先方の条件でもありますからね」
「俺の知っている人間か?」
啓輔は一色に詰め寄った。しかし一色は、
「だから、教えられないって言ってるでしょ? 考えてもみてくださいよ」
立ち上がってソファを離れると、
「所長も、全く知らない人間にこの事務所を取られるのより、私に託する方が安全確実だと思いませんか?」
啓輔を見下ろした。啓輔は一色を見上げて、
「貴様は何もしないのに偉そうに言うな。いずれにしても、俺には教えられない人間に任せるのであれば、同じ事だ。むしろ、全然知らない奴に盗られる方がマシだな」
一色はその返しにイラついた。
(忌ま忌ましい。いっそ教えてやるか?)
野間口絵梨子には最終的には名前を明かして構わないと言われているので、口に出そうと思ったが、
「たとえ誰であろうと、貴様が関係している奴には渡さない。消えろ。そして二度と顔を見せるな!」
啓輔が立ち上がって怒鳴ったので、
「後悔しますよ」
捨て台詞を残して、所長室を去った。そしてビルを出たところで絵梨子に連絡をした。
「思った通り、所長、いや柿乃木先生は応じませんでしたよ」
一色が言った。すると絵梨子の声は、
「想定内よ。後は私に任せて」
それだけ言うと、通話を切ってしまった。
「あ」
絵梨子があっさりしているので、一色は不安を覚えた。
(結局俺を切り捨てるつもりじゃないだろうな?)
一色は歩を早め、タクシーを探した。
(一色に柿乃木との関係を知られたくない)
絵梨子は一色が啓輔とのつながりに気づいていないのを察していた。
「あいつの私に対する感情を利用させてもらう。そして、伊呂波坂麻奈未と柿乃木に泥水を啜らせてやる」
絵梨子はニヤリとして座っていた椅子を回転させると窓の外に見える高層ビル群を見上げ、
「近いうちにあの最上階に事務所を構えてみせる」
絵梨子はスマホを持ち、
「そしてもう一人」
画面に映っているのは「姉小路」の名である。
「こいつも利用しがいがある」
絵梨子はフッと笑った。
(あの小僧、俺が誰とつながっているか知らないから、無礼な態度ができるんだ。思い知らせてやる)
啓輔は固定電話である人物の番号へ通話を開始しようとした。
「おかけになった電話番号は現在使われておりません」
啓輔は目の前が真っ暗になった。
(どういう事だ? 使われていないだとお!?)
そして、自分が切り捨てられたのを感じた。
(畜生、どいつもこいつも俺をバカにしやがって!)
啓輔は思わず受話器を机に叩きつけそうになったが、思い留まった。
「む?」
啓輔は着信音が鳴り出したので、固定電話の画面を見た。
「こんな時に……」
画面には「木場隆之助」と出ていた。
「何の用だ?」
啓輔はイライラしながら通話を始めた。
「おいおい、いきなり喧嘩腰はないだろう? 今大丈夫か?」
隆之助の声が言った。啓輔は更にヒートアップして、
「お前も綾子と同様に、俺を笑うためにかけてきたのか? なら、切るぞ」
すると隆之助の声が、
「おい、綾子を呼び捨てにするな! 貴様にはそんな資格はないぞ!」
怒鳴り返してきた。啓輔は舌打ちをして、
「わかったよ。一体何だ? 彼女から何か聞いたのか?」
「何も聞いてないよ。息子が世話になっているところが大変な事になっているのを知ったから、連絡したんだ」
啓輔はまた舌打ちして、
「だったら、余計なお世話だよ。切るぞ」
隆之助の返事を待たずに通話を終えた。
「どいつもこいつも……」
啓輔は固定電話の電源を切り、ソファの上に放り出した。
「うん?」
出前を頼んで食べ終えた綾子と凛太郎はソファで寛いでいたが、スマホが鳴り出したので、綾子は慌てて通話を開始した。着信音が賑やかな音楽だったのだ。
「何、それ?」
凛太郎はうとうとしていたので、目をこすりながら起き上がった。
「ちょっと待ってね」
綾子は苦笑いをして事務所を出て行った。
「どうした、誰か一緒なのか?」
相手は元の夫の木場隆之助だった。着信音は二人の思い出の90年代のヒット曲である。
「どうしてそう思うの?」
綾子はエレベーターホールの脇にあるスペースで話し始めた。
「電話に出てから話し始めるまでが長かったからさ」
隆之助の声が言った。綾子はすました顔で、
「私程の美貌だと、そりゃもう男が放っておかないからね」
「そうかい。それはよかったな」
隆之助の声が笑っているように思えた綾子は、
「何よ! 今、笑ったでしょ?」
口を尖らせて詰問した。
「笑ってなんかいないよ。一緒にいるのは凛太郎か?」
隆之助がズバリと当ててきたので、綾子は項垂れて、
「どうしてわかったの?」
隆之助は、
「そりゃわかるさ。啓輔のところに行っただろ? さっき電話したら、君の事を言っていたからさ」
綾子はスマホを持ち直して、
「あいつ、何を言ったの?」
「君に笑われたと言ってたよ」
隆之助の返しに綾子はムッとして、
「被害妄想なのよ、あいつは。挙げ句の果てに結婚してくれって言い出したのよ」
「おめでとう。式はいつだ?」
隆之助がボケてきたので、
「バカな事を言わないで! 再婚するにしても、あいつはあり得ないわ」
綾子はますます口を尖らせた。
(どうしてそういう事を言うのよ。バカ)
隆之助の冗談に綾子は目を潤ませた。
「そうか。そいつはすまなかったな。で、凛太郎はどうしてる?」
何も知らない隆之助が尋ねた。綾子は、
「凛は私の事務所で働く事になったから、何も心配要りません」
いーだというジェスチャー付きで応じた。
「そいつは意外だったな」
隆之助はそう言ってしまってから、失言に気づいた。
「それ、どういう意味?」
綾子は急に押し黙った隆之助を不審に思い、訊いた。
「あ、いや、何でもないよ。俺の事務所を頼ってくると自惚れていた自分が恥ずかしいという事さ」
隆之助は惚けようとしたが、
「まあいいわ。本人に訊いてみるから」
綾子はニヤリとして言った。
「あまり凛太郎をいじめるなよ」
隆之助が言うと、
「いじめる訳ないでしょ? 最愛の息子なのよ?」
綾子は凛太郎が探しに来たのに気づき、
「じゃあね」
通話を強制終了した。
「誰から?」
凛太郎はまだ眠そうな顔で尋ねた。
「秘密」
綾子はにっこりして応じると、
「凛!」
いきなり抱きついて来た。
「ちょっと母さん! 他人に見られたらどうするんだよ!」
凛太郎は綾子を突き放した。
「照れちゃって。可愛いんだから、凛は」
妙に嬉しそうな母に凛太郎は引いていた。そして、
「あ、そうだ。麻奈未さんに電話しないと」
綾子を放って事務所へ戻ってしまった。
「つれないのね、凛たら」
綾子はまた口を尖らせた。
「ったく……」
一方、綾子に一方的に通話を切られた隆之助は、自分の事務所の所長室で回転椅子に沈み込んでいた。
(俺もダメだなあ。綾子と話すと、どうしても軽口を叩いちまう)
隆之助は大きな溜息を吐き、より深く椅子に沈み込んだ。
(凛太郎の事は綾子に任せるとして、問題は啓輔だな。あいつ、自暴自棄になっているみたいだから、気にかけていないとまずい)
隆之助は天井を仰いだ。その時、机の上のインターフォンが鳴った。
「どうした?」
隆之助は起き上がってボタンを押した。
「所長、午後の幹部会議の時間です」
秘書の女性の声が応じた。隆之助は椅子から立ち上がって、
「わかった。五分で行く」
乱れたスーツの襟を整え、髪を櫛で梳かすと、所長室を出た。
「出ないよ、麻奈未さん」
凛太郎が涙目で綾子を見た。綾子は目を細めて、
「マルサは忙しいのよ。定時を過ぎるまで待って、もう一度かけなさい」
諦めるのが早過ぎる息子を窘めた。
「わかった」
凛太郎はスマホをテーブルに置き、ソファにもたれかかった。
「暇なら、手伝いなさい。顧客データを新しいソフトに入力しているところだから」
綾子は凛太郎の肩を叩いた。
「ええ?」
凛太郎は鬱陶しそうに母を見上げた。
「ええじゃないわよ。働かざる者、食うべからず。仕事しないなら、追い出すからね」
意外にスパルタの綾子の態度に凛太郎はスッと立ち上がり、
「やります! やらせていただきます!」
敬礼して応じた。
「よろしい」
綾子は腕組みをして大きく頷いた。
「そう言えば、あんたが担当していた顧客はどうなるの?」
綾子はパソコンを立ち上げながら尋ねた。凛太郎は椅子を持って来て綾子の隣に座り、
「わからないよ。担当していたと言っても、所長がほとんど管理していたから、顧問料も何も知らないし、法人の代表のデータも見た事がないから」
「相変わらず、ワンマン経営だったのね、あの唐変木は。まあ、いいわ。うちの事務所は十分潤っているから、これ以上の顧客拡大は必要ないし」
綾子はソフトを立ち上げて、
「これを入力して。お願いね」
机の引き出しから分厚い冊子を取り出すと、凛太郎の目の前に置いた。
「こんなに? すごいな、母さん。一人で回っていたの?」
凛太郎はその膨大な量に改めて母を尊敬した。
「まあね」
綾子は得意そうに胸を張った。
「あ」
麻奈未は少しの間席を外して戻った時、凛太郎からの着信があったのに気づいて驚いた。
(凛君、かけて来てくれたんだ)
涙が出そうになったが、周囲に人がいるので堪えた。
「伊呂波坂、ちょっといいか」
統括官の織部が声をかけた。
「はい」
麻奈未はスマホを机の上に置いて、織部の席の前へ行った。
「今、ナサケがブレインホークの背後にいる本丸の内偵を進めている。査察に入る時には、君にも参加してもらうから、承知しておいてくれ」
織部の言葉に麻奈未は身が引き締まる思いがして、
「はい」
直立して応じた。
「あの」
麻奈未は声を低くして言った。
「どうした?」
織部は眉をひそめた。
「柿乃木税理士事務所はどうなったでしょうか?」
麻奈未は織部に顔を近づけて尋ねた。
「職員は皆辞めるようだ。君の交際相手もな」
「そうですか」
麻奈未は凛太郎がどうしているのか心配になった。
「柿乃木啓輔に関しては、逮捕起訴は免れないだろう。検察は柿乃木を足がかりにして、本丸を攻めたいんだよ」
織部は麻奈未を見た。
「柿乃木は証拠隠滅の恐れがあると思われるので、勾留される。となると事務所を運営できなくなるので、職員が辞めるのは当然の成り行きだ」
織部は麻奈未が不安そうな顔をしているので、宥めるように言った。
「仮に職員が辞めなかったとしても、顧客が契約を解除して、他の税理士に依頼する事になるだろうしな」
「そうですね。ありがとうございました」
麻奈未は一礼して自分の席に戻った。




