それぞれの思惑
「出ないよ、麻奈未さん」
午後六時頃、凛太郎はもう一度麻奈未のスマホに連絡したが、コール音が何度か続いた後、
「留守番電話サービスに接続します」
自動音声が流れた。
「残業してるんじゃないの? だから、すぐに諦めないの! 言ったでしょ! あんたは呆れられたんじゃないって!」
ネガティヴな息子を綾子は宥めた。
「そうかなあ……」
また弱気の虫が蠢き出した凛太郎は涙ぐんだ。
「このままじゃ埒が明かないから、麻奈未さんの家に行ってみたら?」
綾子が提案すると、凛太郎はビクッとして、
「麻奈未さん、実家暮らしなんだよ。それはまずいよ。お父さんには内緒にしているって言ってたんだから」
「そうなの。あんた達、どうして付き合う事になったのか、不思議よね」
綾子は肩をすくめた。
「もう少し経ったら、また電話してみなさい」
綾子は項垂れる凛太郎の右肩を叩いた。
「うん……」
まだ涙ぐんでいる凛太郎は小声で応じた。
「今のは携帯電話の音ですかね?」
検察庁から戻って残務整理をしていた姉小路が言った。
「そうだな。携帯電話のようだな」
姉小路の報告書を見ていた織部統括官が応じた。そのフロアには二人の他には誰もいない。
「あ、伊呂波坂君の携帯みたいですね」
姉小路は向かいの机の上に伏せて置かれている麻奈未のスマホを見つけて言った。
「そうか。伊呂波坂が忘れていったのか。彼女は定時で上がったから、もう近くにはいないな」
織部は姉小路が麻奈未のスマホを見ようとして手を伸ばしたので、すぐにそれを阻止するために麻奈未の席に近づいた。
「他人の携帯電話を勝手に見るな、姉小路」
織部は麻奈未のスマホを取りかけた姉小路を窘めた。
「あ、はい」
姉小路はビクッとして織部を見た。織部は麻奈未のスマホを見て、
「しかし困ったな。これを忘れられると、連絡のしようがない」
「そうですね」
姉小路は名残惜しそうに麻奈未の携帯を見ている。その時、織部の席の電話が鳴った。
「はい、織部です」
織部は姉小路が麻奈未のスマホを見ないように監視しながら、受話器を取った。
「統括官、お疲れ様です」
電話の相手は中禅寺茉祐子だった。
「おう、中禅寺君か? お疲れ様。どうした?」
織部は姉小路を見たままで尋ねた。姉小路は相手が茉祐子だと知り、顔を引きつらせた。
「柿乃木税理士は切り捨てられたようです。押収した携帯電話の通話記録を見せてもらいましたが、何度もやり取りをしていた番号があって、名義が事務所の職員や顧客とは違うものを見つけたのですが、すでに解約されており、名義人も登録されている住所地にはいませんでした」
茉祐子の言葉に織部は眉をひそめて、
「名義人の名前は?」
「長瀬拓哉です。確かに存在する人間ですが、現在の住所は北海道で、職業は大工です。柿乃木税理士とは今のところ接点が見つかりません」
織部は顎に手を当てて、
「柿乃木の携帯には長瀬で登録されているのか?」
「いえ、違います。先生とだけ登録されています」
茉祐子が言うと、織部は、
「成程。それが政治家の可能性があるのか?」
「はい。長瀬がどこまで知っているのかは今はわかりませんが、明らかに名義貸しです。携帯電話を購入した時の住所は東京都新宿区になっていますから。長瀬は一度も東京に転居した事はないと管轄の税務署からの報告がありました」
茉祐子の話に織部は考え込んだ。
「統括官?」
織部が黙ったので、茉祐子が声をかけた。織部はハッとして、
「いや、すまん。以前にも似たような手口で切り捨てられた税理士がいたな」
「そうなんですか? それは知りませんでした」
茉祐子が東京国税局で情報部門の仕事を始める以前の事件だったのを織部は思い出した。
「これは大がかりな手口だ。恐らく、どちらも同じ政治家が関わっていると思われる」
「はい」
織部はジッとこちらを見ている姉小路に気がつき、
「中禅寺君は今は何を調べているのかね?」
姉小路は条件反射のように「中禅寺」にビクッとした。
「私はその政治家と思われる人物の身辺を探っているところです」
茉祐子は声を低くして告げた。織部は受話器を持ち直して、
「気をつけたまえ。命を狙われる事はないだろうが、何かをでっち上げられて懲戒処分にされるかも知れん」
茉祐子が息を呑んだのを織部は感じた。
「わかりました。気をつけます」
「そうしてくれ。お疲れ様」
織部は受話器を戻した。
「政治家って誰なんですか?」
姉小路が織部に近づいて訊いた。織部は席に座りながら、
「それはまだわからない。只、一人思い当たる人物がいる」
「え?」
姉小路は目を見開いた。
「それは誰なんですか?」
彼は織部に顔を近づけた。しかし織部は、
「知らん方がいいよ。もっとはっきりしたら話すから」
姉小路を睨みつけるように見上げた。
「そう、ですか」
姉小路は顔を引きつらせて応じた。
その頃、麻奈未は凛太郎が住んでいるアパートの前に来ていたが、二階の一番東寄りの凛太郎の部屋には明かりが点いていなかった。
(凛君、帰っていないのか)
麻奈未はフウッと溜息を吐いた。
(あ、いけない! 今日、私が夕ごはんの当番だった! 聖生に連絡しないと!)
いつもは口うるさく聖生に指摘しているので、逆襲されないように先手を打とうと鞄の中を探った。
「あれ?」
しかし、スマホがどこにもない。
「えええ!?」
麻奈未はスーツのポケットも全部探したが、どこにもなかった。
(机の上に置いて、そのまま忘れてきたのかも)
麻奈未は項垂れたが、早く聖生に連絡しないと、鬼の首を獲ったかのようにコンコンとやり込められる気がしたので、周囲に公衆電話がないか探した。
「ああ……」
携帯電話の普及率が高くなったのに連れて、街から公衆電話は凄まじい勢いでなくなっている。その上、麻奈未は聖生の携帯番号を記憶していない。電話帳も持っていない。情報は全部スマホに入っているからだ。
(ダメだ。局に取りに戻るしかない)
麻奈未は最寄りの駅へと走った。それと入れ替わるように反対方向から凛太郎が現れた。
(母さん、せっかちなんだから)
麻奈未への再度の連絡をする前にアパートに行って着替えや洗面用具を持ってくるように言われたのだ。
(実家暮らしが嫌で父さんに職場を紹介してもらったのに、また母さんと生活する事になるなんて、俺って運がないのかな)
凛太郎は項垂れたまま、アパートの外階段を昇った。
(でも、今母さんの機嫌を損ねて追い出されたりしたら、無職でアパート暮らしは無理だし、他の税理士事務所なんて伝手がないし……)
凛太郎は業務が忙し過ぎたため、他の税理士事務所の職員との交流がほとんどできていない。他の事務所と行き来をして余計な知恵を持つ事を極端に恐れた柿乃木啓輔が職員達をこき使っていたからなのだが、凛太郎はそれに気づける程の余裕がなかった。凛太郎より職歴がある先輩達は啓輔の企みを見破り、寸暇を惜しんで情報を収集していたので、転職できた者もいた。
「麻奈未さん……」
つい口から愛しい人の名前が漏れる。凛太郎が項垂れていなければ、走って行く麻奈未の後ろ姿を見られた可能性があった。
「遅かったわね。私はその程度の存在なのかしら?」
バーに入って行くと、早速カウンターの端に座っている野間口絵梨子が嫌味を言った。
「今日は検察庁へ行って、その後上司に報告書を出したので、時間がかかったんだよ。いじめないでよ、絵梨子さん」
姉小路はその隣の椅子に腰を下ろしながら応じた。
「なるほどね。宮仕えは大変ね」
絵梨子はフッと笑った。姉小路は苦笑いをして、
「何を知りたいのかな?」
絵梨子はハイボールのグラスをコースターに戻して、
「柿乃木税理士の今後よ。実刑は免れないの?」
「それは検察の判断だからね。俺にはわかりかねるよ」
姉小路はバーテンにハイボールを注文してから言った。
「守秘義務があるから、話せないという訳ね」
絵梨子はハイボールをあおった。姉小路はその言い方にギクッとして、
「違うって。知ってたら教えてるよ。本当にわからないんだよ」
口に持っていきかけたグラスを置いて絵梨子を見た。
「わかった。信じてあげる。それより、伊呂波坂の事、何かわかった?」
絵梨子は目を細めて姉小路を見た。
「伊呂波坂ちゃんの事? 付き合っている相手の事?」
姉小路は絵梨子を覗き見た。
「そう。伊呂波坂の妹と映っていたのが伊呂波坂の付き合っている男だったのよ。貴方、査察に入ってそいつと会っているでしょう?」
絵梨子が姉小路の顔を覗き返す。姉小路は首を傾げて、
「男の職員は結構な人数いたからなあ。見たかなあ」
トイレから出て来た凛太郎を思い出したが、とぼけた。
(簡単に教えたら、また誤魔化される。今日はどうあってもホテルまで行くぞ)
姉小路は絵梨子を攻略する気満々だ。
「そんな記憶力では、上には行けそうにないわね。向上心のない男、私嫌いなの」
しかし、絵梨子は姉小路よりも狡猾だった。
「え?」
姉小路はその絵梨子の策に焦りを感じた。
(ここで帰られたら、何もかも無駄になる)
姉小路は作戦変更を余儀なくされた。
「あはは、思い出したよ。そいつ、呑気にトイレから出て来たんだよ。あれはダメだな。出世しないタイプだよ」
姉小路の露骨な方針転換に絵梨子はまた目を細めた。
「それで?」
先を促され、姉小路は更に焦った。
(そいつとはそれっきりだ。何も情報がない)
必死に記憶を辿る姉小路だったが、受付の女の子が可愛かったくらいしか思い出せない。
「何もないなら、帰るわよ」
絵梨子が立ち上がりかけた時、
「思い出した! 職員のプロフィールをファイルしたものを見たんだよ。気になったから、そいつのを探したんだ」
絵梨子を引き止めた。絵梨子は座り直して、
「そうなの。嘘じゃないわよね?」
「嘘じゃないよ」
姉小路は苦笑いをした。
(本当は伊呂波坂ちゃんの妹ちゃんの事を聞けないかと思って調べたのは内緒にしとこう)
結局は自分のために調べていたのだ。
「どうして紙でファイルしてあるのか不思議だったので、訊いたんだ。そしたら、情報流失を恐れてデータとして保存していないような事を言われたのを覚えてる」
それは本当だ。だから姉小路は絵里子の目を見て話せた。
「なるほどね。それで、その子の住所とか覚えてるの?」
絵梨子は頬杖を突いて尋ねた。姉小路は頷いて、
「もちろん。すぐにメモった」
スマホを開いて、メモに打った凛太郎の住所と携帯の番号を見せた。
「これ、違法行為じゃないの、姉小路君?」
絵梨子はチラッと姉小路を見てからスマホの画面を見た。
「そうかも知れないけど、絵梨子さんのためを思っての事だから、通報しないでよ」
姉小路は半分本気で手を合わせた。
「私は記憶したから、貴方はすぐにそれを消去して。いいわね?」
絵梨子は自分に累が及ぶのを恐れて言った。
「わかったよ」
姉小路はすぐにメモを削除した。
「さあ、行きましょうか」
絵梨子は微笑んで立ち上がった。
「あ、ああ」
姉小路は鼻息を荒くして立ち上がった。
「あ」
麻奈未は息を切らせて実施部門のフロアに駆け込んだ。
「ああ、伊呂波坂。戻ったか?」
そこには織部しか残っていなかった。
「申し訳ありません、忘れ物に気づいて……」
定時で上がったのにのこのこ戻ったのが恥ずかしく、麻奈未は一礼してから自分の席へ近づいた。
「伊呂波坂、今日は特別に緊急連絡はなかったが、次は気をつけてくれ。携帯電話を忘れられると、連絡の取りようがないからな」
織部は攻める風ではなく、微笑んで告げた。麻奈未はまた一礼して、
「申し訳ありませんでした! 以後、気をつけます」
スマホを手に取った。織部は、
「連絡がつかなくなるだけではなく、不届き者が君の個人情報を手に入れようとする恐れがあるから、その意味でも気をつけてくれ」
チラッと姉小路の机を見た。麻奈未は姉小路の事を茉祐子から聞いているので、
「はい、気をつけます」
また一礼した。そして、着歴を見てギョッとした。聖生から何度も着信があった上に、父である太蔵からも着信があったのだ。
「どうした? 緊急の連絡があったのか?」
麻奈未の表情を見て織部が尋ねた。麻奈未は織部を見て、
「いえ、大した事ではありません。家族の着信ですから」
「ならば、尚の事すぐにかけてあげなさい。お疲れ様」
織部は微笑んで告げた。
「ありがとうございます。失礼します」
麻奈未は何度も頭を下げながら、退室した。




