裏の裏
次の日になった。
姉小路潤は野間口絵梨子からの連絡がなかったので、ホッとしていたのだが、
「姉小路さん」
廊下で不意に中禅寺茉祐子に後ろから声をかけられ、ビクッとしてしまった。
「ああ、茉祐子ちゃん、おはよう」
油断していたので、動揺が激しい姉小路を茉祐子はニヤリとして見ている。
「おはようございます。昨日は不在で申し訳ありませんでした」
茉祐子は姉小路を無人の会議室に連れ込んだ。
「な、何かな、茉祐子ちゃん?」
姉小路は茉祐子が肉食女子だと知らないので、積極的な行動に面食らっている。
(茉祐子ちゃんて、そういう子だったんだ……)
肉食女子は好みではない姉小路はこの場をどうやって切り抜けようかと考えた。
「姉小路さん、私の親友の事を調べているって聞いたんですけど、何が目的なんですか?」
茉祐子は姉小路のネクタイを直すふりをして締め上げてきた。
「ぐえ……」
思った以上に茉祐子の力が強いので、姉小路は汗まみれになって、
「親友って、もしかして伊呂波坂ちゃんの妹ちゃんの事?」
茉祐子はネクタイから手を放したが、
「はい。聖生とは小学校からの親友なんです。まさか、聖生にちょっかい出すつもりではありませんよね?」
すり抜けようとした姉小路のスーツの襟を締め上げた。
「ご、誤解だって! 妹ちゃんが腕を組んでいた男が誰なのか、茉祐子ちゃんに訊こうと思っただけだよお」
姉小路は逃亡は無理だと悟り、まゆこの腕をタップした。茉祐子はクスッと笑って手を放し、
「そうなんですか。で、どうしてそんな事を知りたかったんですか?」
姉小路はこれ以上茉祐子に嘘を吐くと何をされるかわからないと判断し、
「実は……」
野間口絵梨子に頼まれた事を正直に話した。
「なるほど。聖生の同僚の中には、野間口先生に会いたくて、先生の顧問先に調査に入った人がいるって聞きました。私はお見かけした事もないのですが、お綺麗な方のようですね。その上、色っぽいんだとか」
茉祐子は姉小路に密着してきた。
(うわ、茉祐子ちゃん、隠れ巨乳?)
そんな時でも、エロさが出てくる姉小路だが、
「姉小路さん、今、嫌らしい事考えていますよね? 中禅寺もいけるんじゃないかって」
「があああ!」
姉小路は茉祐子に思い切り大事なところを膝蹴りされた。脂汗が止まらなくなった。
「伊呂波坂先輩達に何かするつもりなら、覚悟してください。国税局の女性を全員、敵に回しますからね」
茉祐子は姉小路から離れて、
「それに貴方にお教えする事は一切ありませんので。では、失礼します」
サッと会議室を出て行った。
(俺はどうしてこんな目に遭ってばかりいるんだ……)
姉小路はまだ痛みが残る股間を押さえたまま、しゃがみ込んだ。
「姉小路、どこへ行っていたんだ。早く来い」
自分の部署に戻ると、統括官の織部が言った。
「あ、はい」
姉小路はもぞもぞしながら、織部の席の前に集まっている調査官に加わった。そこには麻奈未の姿はなかった。
「例のブレインホークの査察だが、状況が変わった。明日、決行する」
織部は一同を見渡した。一気に緊張が走った。誰かが生唾を呑む音が聞こえる程、その場は静まり返った。
「状況が変わったって、何があったのですか?」
姉小路が尋ねると、織部は険しい顔になり、
「ブレインホークの顧問税理士である柿乃木啓輔に脱税指南の疑いが出た」
「脱税指南? では、ブレインホークの脱税は顧問税理士主導だという事ですか?」
姉小路の顔が査察の顔になった。
「そういう事だ」
織部は頷いた。
「もし、それが事実であれば、柿乃木税理士事務所は経営できなくなりますね。確か、所長の柿乃木の他に税理士はいないですよね?」
姉小路が言った。織部は姉小路を見て、
「そうだな。しかし、我々には関係ない事だ。税法を守るべき立場の税理士が脱税に関与しているなど、言語道断だからな」
「そうですね」
姉小路はそこで麻奈未がいない事に気づいた。
(伊呂波坂ちゃん、査察からは外されたのは聞いてるけど、ここにもいないのはどうしてだ?)
姉小路は麻奈未の不在に疑問を抱いた。
「顧問税理士が関わっているとなると、証拠隠滅の可能性が高くなる。そうなる前に証拠を押さえる」
織部は再び一同を見渡した。
「はい」
調査官達は大きく頷いて応じ、席に戻って行った。
「統括官、伊呂波坂君がいませんが、どうしたのですか?」
姉小路は小声で織部に訊いた。織部は席に座りながら、
「伊呂波坂は関係者に知人がいたため、査察を外れている」
姉小路は織部の机に両手を置いて、
「それは知っています。今いないのはどうしてですか?」
「情報が漏れるのを未然に防ぐためだ」
織部はそれ以上は話せないという意味なのか、椅子を回転させて背を向けた。
「そうですか」
姉小路は釈然としなかったが、自分の席に戻った。
(伊呂波坂、もし柿乃木税理士の関与が事実なら、君の交際相手は職を失う事になるな)
織部は事前に麻奈未に席を外すように告げていた。麻奈未も何かを察して、何も訊かずに席を離れたのだ。
「高岡さん、おはようございます」
凛太郎が事務所のロビーに入ると、一色雄大が待っていた。
「おはよう、一色君。どうしたの?」
凛太郎は一色が顧問先へ直行のはずだと知っていたので、意外に思って尋ねた。
「所長がお呼びですよ」
一色は妙に嬉しそうに告げた。
「そう。わかった」
凛太郎は奥にある所長室へ向かって歩き出した。一色はその背中をニヤニヤしてみていた。
(野間口先生には悪いが、俺はあくまで所長の味方だ)
一色はあっさりと絵梨子を裏切っていた。
「前にも言ったはずだぞ。娘には近づくなと」
凛太郎が入るなり、回転椅子に座ったままの啓輔が怒鳴った。凛太郎はビクッとしたが、
「近づいてなどいません。優菜さんにはお付き合いできないと言いました」
理不尽な事を言われているのを感じて、反論した。啓輔に言い返したのはそれが初めてだった。
「お付き合いできない、だと? お前のようなカス男が、上からものを言ってるんじゃねえよ!」
啓輔は椅子から立ち上がって机を両手で強く叩いた。
「そんなつもりはありません。所長は勘違いをされています。私は優菜さんに恋愛感情を抱いた事はありません」
凛太郎は怯まずに啓輔に近づきながら言った。啓輔は椅子に座り直して、
「優菜はお前の相手になどならないという事か?」
「そういう事を言っているのでは……」
凛太郎が更に反論しようとすると、
「もういい、出て行け。娘をそこまでバカにしている男とは何を話しても無駄だ。さっさと仕事に行け」
啓輔はまた机を叩いて怒鳴った。
「わかりました。失礼します」
凛太郎は一礼して所長室を出て行った。
「相変わらず、忌ま忌ましい……」
啓輔はドアを睨みつけた。その時、着信音が鳴った。
「む?」
啓輔は鞄の中からスマホを取り出して、相手を確認した。そして慌てて通話を開始し、
「お世話になっております、先生」
先程までとは別人のような声で話し始めた。
「え? 査察が?」
たちまち顔が引きつった。相手が何かを言うのを啓輔は直立不動で聞いた。
「明日、ですか? それはまた急ですね」
啓輔は机の上の税理士用箋にメモをした。
「ご安心ください。先生にご迷惑のかかるような事は一切ございませんので」
啓輔は見えない相手に何度も頭を下げ、通話を終えた。
「まずいな……」
啓輔は殴り書きした「ブレインホーク 明日午前八時」を見て呟いた。
「どうしたの、中禅寺さん?」
麻奈未は先程まで姉小路がいた会議室に茉祐子といた。茉祐子は麻奈未に近づいて、
「ブレインホークの査察、明日になったと聞きました」
「え? 明日? 急ね」
麻奈未は目を見開いた。茉祐子は麻奈未を会議室の中央まで連れて行き、
「顧問税理士の柿乃木啓輔が脱税に関与しているのがわかりました」
「え?」
麻奈未は仰天した。
「それが事実なら……」
言葉に詰まってしまう。茉祐子は眉間にしわを寄せて、
「はい。高岡凛太郎さんは職を失う事になります」
麻奈未は右手を額に当て、そばにあったパイプ椅子に座った。
「でも、事前に教える事はできないわね」
「ええ。守秘義務がありますから」
茉祐子は隣のパイプ椅子に座った。麻奈未は茉祐子を見て、
「それは確実なの?」
茉祐子は麻奈未を見据えて、
「はい。柿乃木税理士はブレインホークの代表取締役社長の天王寺鷹夫と料亭で何度も会っており、その時の会話も録音しています。内容から、明らかに脱税方法を教えているのがわかります」
「情報部門の貴女が言うのだから、間違いないわね。どうしてそんな事を……」
麻奈未は長テーブルを右手でドンと叩いた。
「恐らく、ブレインホーク側が政治家に闇献金をするためだと思われます」
「政治家が絡んでいるの?」
麻奈未はまた目を見開いた。茉祐子はゆっくり頷いて、
「しかし、相手が誰なのかは全くわかりません。もしかすると、こちらの動きも筒抜けの恐れがあります」
「元財務省官僚の政治家って事?」
麻奈未の顔がマルサの顔になった。
「その可能性が高いです。悪くすると、圧力をかけてくるかも知れませんが、自分の正体を知られたくないので、直接的な事はしないかも知れません」
茉祐子の話に麻奈未は、
「それを統括官はご存知なの?」
「はい。織部統括官と課長と部長はご存知かと。査察の中で知っているのは、そのお三人と私達だけです」
茉祐子はチラッとドアを見て言った。そして、
「統括官は、柿乃木税理士事務所も同時に査察に入るおつもりのようです」
「証拠隠滅をされる恐れがあるからね」
麻奈未は右手を顎に当てた。茉祐子は頷いて、
「税理士が関与しているとなると、それが一番困る事です。すでに査察の事を政治家を通じて知っていると思われます」
「防げないのね」
麻奈未は溜息を吐いた。すると茉祐子は、
「大丈夫です。査察は今日ですから」
「え? どういう事?」
麻奈未は呆気に取られた。茉祐子はニコッとして、
「誰が情報を漏洩させているのかわからないので、統括官が課長と相談して変更したそうです」
「じゃあ、まさか?」
麻奈未は漏洩元が誰なのかわかった。
「部長か、局長のどちらかでしょう。大物政治家と繋がれるのは、そのクラスでないと無理ですから」
茉祐子の言葉を麻奈未は半分も聞いていなかった。査察の事よりも、凛太郎の事が気にかかっていたからである。




