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しのぎ合う女達

 野間口絵梨子は優菜を見て怖くなり、柿乃木税理士事務所のフロアを出た。

(あの、あいつの娘だ。何なの、あの威圧感?)

 絵梨子は優菜の目の奥にあるものを感じて、すっかり気圧されてしまった。

(見かけた事はあるけど、顔を合わせた事はなかった。あいつの言葉を信じれば、あの娘は結婚を反対していると。そのせいなの?)

 絵梨子とホテルの部屋にいたのは柿乃木啓輔である。そして優菜が憎んでいるのはまさしく絵梨子であった。優菜は母親の死の一因である絵梨子に対して、激しい憎悪の念を抱いていた。


(顔は一度も見た事なかったけど、声は聞いた事があった。パーティション越しに聞こえたから、はっきりわかった。あの人がお母さんを病気にした女だ)

 優菜は絵梨子が出て行ったドアをまた睨んだ。

(父以上に許せない。その上、高岡さんに近づくなんて、一体どういうつもりなの?)

 優菜の怒りの感情がその綺麗な顔に出ているので、凛太郎はギョッとした。

(優菜さん、野間口先生と何かあるのか?)

 優菜は凛太郎が自分を見ているのに気づいて、

「ごめんなさい、お話の邪魔をしてしまって。野間口先生はどんな事を訊いてきたのですか?」

 絵梨子が座っていたソファに腰を下ろして尋ねた。凛太郎は居住まいを正して、

「ある人の写真を見せられて、知っているかと訊かれました」

 内容をぼかして言った。

「そうなんですか」

 優菜は凛太郎が話したくなさそうなのを察したが、

「高岡さんて、お付き合いしている方がいらっしゃるんですか?」

 別の角度から切り込んでみた。凛太郎は立ち上がりかけていたが、ビクッとしてまた座り、

「いえ、いませんよ」

 そう言ってしまってから、あっと思った。

(今朝の優菜さんの話……)

 朝、優菜に告白されたのを思い出した。優菜は身を乗り出して、

「私って、高岡さんにはどう見えているんですか? まだ子供ですか?」

 声を低くして言った。

「いや、子供だなんて思いませんよ。優菜さんは大人の女性ですよ」

 凛太郎はやや仰け反り気味に応じた。

「だったら、今朝のお返事、いただけますか?」

 優菜は逃さないという顔で詰め寄った。


(おい!)

 ドアの隙間から二人のやりとりを見ていた一色雄大は止めに入るか迷っていた。ふと奥の方を見ると、柿乃木啓輔がドアから顔を覗かせているのに気づいた。啓輔は一色が顔を向けたので、ドアを閉じてしまった。

(ええ?)

 一色は啓輔が行けと指示するのかと思ったが、何も言わずに引っ込んだので、驚いてしまった。

「あ」

 一色は凛太郎が立ち上がるのを見て思わず叫んだ。凛太郎はじっと優菜を見ている。

(高岡、それ以上優菜ちゃんと接近するな!)

 飛び出していきたいが、優菜に嫌われると思い、二の足を踏んでしまう。しかも、頼みの綱の啓輔は撤退している。

(ずるいぞ、エロ所長!)

 啓輔が女と密会しているのを知っている一色は啓輔の行動を心の中でなじった。だが、一色は絵梨子がその相手なのは知らない。


「申し訳ありませんが、優菜さんとはお付き合いできません」

 凛太郎は意を決して告げた。優菜は作り笑顔で、

「そうですか。わかりました。今は引きます。でも、諦めませんから」

 凛太郎に一礼すると、廊下を駆けていき、自分の部署のドアを開いて入った。

(申し訳ない、優菜さん。今はそういう気持ちになれないんです)

 凛太郎はアタッシュケースを持つと、廊下を奥へと歩き出した。図らずも、一部始終を見てしまった受付の樋口萌美は凛太郎に会釈をして椅子に座った。凛太郎も弱々しく笑みを浮かべて応じ、部署のドアを開いて入って行った。


(事務所へ行くと、あの小娘がしゃしゃり出てくるから、外で捕まえるしかない)

 絵梨子は顧客のところへ向かうタクシーの中で考えた。彼女は五年前に税理士試験に合格し、三年前に独立して開業した。その手助けを啓輔がしてくれた。だから、恩義に感じて啓輔の言う通りにしていたのだが、それも限界だった。

(事務所の経営も軌道に乗った。もうあの男の言う事を聞く必要はない。逆に邪魔になってくる)

 絵梨子は柿乃木税理士事務所の中に自分の指示に従ってくれる人間を見つけたいと思った。


「あらま」

 伊呂波坂いろはざか聖生みおは姉の麻奈未からの着信に目を見張り、勤務先の南渋谷税務署から出た。

「はいはい、何でしょうか?」

 軽いノリで応じると、

「ちょっと、ふざけてないでよ。あんたにも関わる事なんだから」

 根が真面目な麻奈未の声が言った。聖生は苦笑いをして、

「私に関わる事? 一体何?」

 すると麻奈未の声は、

「電話じゃ話せないから、これから言うバーに来て」

 聖生はスマホを持ち直して、

「了解。すぐに行きます。お父さんの夕ご飯は大丈夫?」

「今日はあんたが当番でしょ?」

 麻奈未の声が非難めいたトーンになる。聖生は肩をすくめて、

「そうでしたあ。じゃあ、お父さんにライン入れとくね」

「何て入れるの?」

 麻奈未が心配になって尋ねる。聖生は、

「イーバーウーツにでも頼んでって送るわ」

「お父さん、そんな事できないわよ。せめて出前を取ってって送りなさいよ」

 麻奈未が更にヒートアップすると、

「冗談よ。出前頼むか、外で食べてって送る」

「最初からそう言いなさいよ。あんたの悪い癖よ、そういうところ」

「はいはい。じゃあ、バーで」

 聖生は麻奈未あねの融通が利かない性格にうんざりしながら、通話を切ってしまった。

「何だろう?」

 聖生は首を傾げながら、舗道を歩き、地下鉄の階段を降りて行った。


「私達、利害が一致しているでしょ?」

 野間口絵梨子は中華料理店の個室で六人掛けの回転テーブルの向かいに座った男に言った。

「利害、ですか?」

 男は訝しそうな目で絵梨子を見た。

「私は高岡凛太郎を落としたい。貴方は柿乃木優菜をモノにしたい。一致してるじゃないの、一色さん?」

 絵梨子はテーブルに頬杖を突いて一色雄大を見た。

「確かにそうですが、貴女は所長に復讐したいのではないのですか?」

 一色は絵梨子にそう言われて中華料理店に来た。

「話が違うと? そんな事はないわ」

 絵梨子は席を移動して、一色の隣に座り、彼の膝に右手を置いてさすった。

「ひっ」

 一色は思わず呻いてしまった。

「高岡凛太郎を落とす事は、柿乃木啓輔を追い詰める手段になるのよ。柿乃木を追い詰めれば、貴方があの事務所の経営者になるのが早まる事になるわ」

 絵梨子は膝をさすっていた右手をスッと一色の顎に当て、顔を近づけた。一色はすっかり気圧けおされていた。

「わかりました。協力します」

 それだけ言うと、脱力してしまった。

「お利口ね、坊や」

 絵梨子は一色の左頬にキスをして立ち上がり、元の席に戻った。

(何だ、この人? すごくエロい)

 一色は優菜にはない大人の色気を感じて、絵梨子を見つめた。

「高岡凛太郎に伝えて欲しい事があるの」

 絵梨子は一色が自分に惹かれているのを感じているのか、目を細めて彼を見た。

「はい」

 一色は居住まいを正して応じた。それを見て絵梨子はフッと笑った。


「野間口絵梨子税理士が?」

 バーのカウンターで麻奈未の左隣に座った聖生は、麻奈未から絵梨子の事を聞いて目を見開いた。

「大学時代から、両脇に男を引き連れていたような人だったけど、逆恨みされているとは思わなかった」

 麻奈未はハイボールの注がれたグラスを持って言った。

「それにしても、お姉ってモテたのねえ。野間口先生って、税務署の説明会とかで遠目に見かけただけだけど、色っぽいお姉様って感じで、同僚達の中には、彼女目当てで法人の調査をしたおバカさんもいる程よ。その野間口先生から男を盗っちゃうなんて」

 聖生はビールの入ったグラスをあおった。

「だから、盗ってないの! 誤解なんだから。それで恨まれたら、割に合わないよ」

 麻奈未は聖生を睨んでからハイボールを一口飲み、

「只ね、その情報の出どころが、姉小路さんだから、鵜呑みにはできないんだけど」

 聖生はお代わりを従業員に告げてから、

「確かに。茉祐子の話では、名うての女たらしって事だからね」

 すると麻奈未はハッとして、

「そうだ! 中禅寺さん、あんたの友達よね!? 姉小路さんが、中禅寺さんに会いたがっていたの!」

 聖生はいきなり姉が大声で言ったので、

「ちょっと、こういう場所でボリューム気をつけなさいよ」

「ああ、ごめん」

 麻奈未は周囲の視線を感じて顔を赤らめた。

「茉祐子からの情報だと、姉小路さんはお姉狙いだって聞いたけど、茉祐子も狙われてるの?」

 聖生はお代わりのビールを受け取りながら訊いた。

「中禅寺さんもそんな事言ってるの? 姉小路さんに背中見せない方がいいのかな?」

 麻奈未はその話が二人目なので身震いした。聖生はビールを威勢よく飲んでから、

「そうかもね。でも、姉小路さん、茉祐子に言い寄ったりしたら、逆に酷い目に遭うかもよ」

「え? どういう事?」

 麻奈未はグラスを置いて聖生を見た。聖生は声を低くして、

「茉祐子は仕事の時は地味めの服装だけど、遊ぶ時は全然違う格好になるの。しかも、超肉食だし」

「あんたが超肉食って言うくらいだから、中禅寺さんて凄いのね」

 麻奈未が頷きながら言うと、

「ちょっとその言い方引っかかるんだけど、まあ、茉祐子はホントに凄いわよ」

 聖生はまたグラスを空にして口を尖らせた。そしてニヤリとすると、

「て事は、凛太郎さんが野間口先生に狙われているって事になるんじゃない?」

 麻奈未はその言葉にビクッとした。

「凛君、純情だから、そんな人に迫られたら……」

 麻奈未はバッグからスマホを取り出したが、

「ダメ。連絡してはダメ」

 思い留まった。聖生は溜息を吐いて、

「仕事絡みだから、凛太郎さんと話せないって事? お姉、堅物過ぎよ。恋人が狙われているのにそれを教えないって、その方がダメだと思うけどなあ」

「それはわかっているんだけど、査察しごとに影響が出るような事はできないの!」

 麻奈未はスマホをバッグに押し込んで聖生を睨んだ。

「やっぱり査察しごと絡みなのね?」

 してやったり顔の聖生が言う。麻奈未はハッとしたが、

「とにかく、ダメなものはダメなの」

 ハイボールの残りを飲み干した。

「姉小路さんの方は、茉祐子に頼んでみる。凛太郎さんの方は私が……」

 どさくさに紛れるように聖生が言うと、

「それはダメ! あんたはもう絶対に凛君に近づかないで!」

 麻奈未は聖生の顔に噛みつきそうな勢いである。

「わかったわよ。じゃあ、どうするの?」

 聖生は目を細めて訊いた。麻奈未は俯いて、

「それはええと……」

 手詰まりなのを思い知った。

「凛太郎さんの方も、茉祐子にお願いする?」

 聖生が悪い顔をした。麻奈未は顔を上げて、

「それもダメ! 中禅寺さんはあんたよりもダメ!」

「その比較論、ムカつくんだけど、まあ、確かに茉祐子はダメね。さて、どうしようか?」

 聖生は腕組みをした。麻奈未は意を決して、

「ここは凛君を信じる。野間口先輩の色香になんか迷わないって」

 精神論を持ち出した。聖生は肩をすくめて、

「凛太郎さんは年上が好みなんでしょ? まずいんじゃない?」

「う……」

 そう言われると、麻奈未はまた不安が増してくる。

「でも、大丈夫! あんたを振ったくらいだから、凛君は大丈夫!」

 それでも凛太郎を信じる事にした。

「私も結構傷ついたんだから、その論法はやめてよね」

 聖生はまた口を尖らせた。

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