ぶつかり合う三角形
翌日になった。
凛太郎は朝早くから目が覚めてしまい、悶々としていたが、仕事に行かないという選択肢はあり得ないので、着たままふて寝してしまったスーツを急いでアイロンがけし、ワイシャツを替え、ネクタイを選び直して着替えをすませると、朝食も摂らずにアパートを飛び出した。
(今日は神村塗装さんに直行の予定だったけど、何も準備せずに帰宅してしまったから、一度事務所に行かないと)
凛太郎は地下鉄の階段を駆け下り、ホームに入って来た車両に飛び乗った。いつもより一時間以上早いので、中は空いていた。
(座席に座れるなんて、しばらくぶりだな)
凛太郎は倒れこむように腰を下ろした。
優菜は父親である啓輔と昨夜以来一言も口をきいていない。顔を合わせるのも嫌だったので、父親が起きて来ないうちに仏壇の母親の写真に手を合わせると、家を出た。5LDKの大きな邸は啓輔が即金で買ったものだ。その頃はまだ優菜は小学生だったので、父親を誇らしく思っていた。しかし、中学に入学した頃から、父親の嫌な面が見えるようになって来た。家に帰らず、女のところに泊まったり、出張と称して、愛人と旅行に行ったりしているのがわかって来たのだ。それでも父親に何も言わない母を見て、優菜は啓輔に反発するようになった。
(お父さんが愛人のところに入り浸るようになって、お母さんは病気がちになった。お母さんが入院しても、お父さんは戻って来なかった。亡くなる間際にも、お父さんはいなかった)
五年前、優菜の母親は病院で息を引き取った。そこでようやく、啓輔は自分のして来た事に気がつき、妻の亡骸にすがって泣き、謝罪した。
(心を入れ替えたのかと思っていた。でも、違っていた)
優菜は事務所のキーを開けながら、回想した。啓輔は一周忌までは悲しみに打ちひしがれている夫を演じていたが、喪が明けるとまた愛人のところへ入り浸るようになった。
「優菜、新しいお母さんと会ってくれないか?」
喪が明けてすぐにそんな事を言われた。
「嫌よ!」
優菜は父親の恋人に会うのを拒否し続けた。啓輔もやがて何も言わなくなったが、恋人との密会は続けた。優菜は啓輔と恋人の結婚をさせないために、啓輔の税理士事務所に勤める事を決めた。優菜の思惑を知らない啓輔は優菜が自分の事務所で働く事を希望したのを素直に喜んだ。
(父を監視したいと思ったのもあったけど、それよりも……)
そこまで考えて、優菜は顔を赤らめた。
(私は高岡さんに惹かれてここに勤める事を決めたんだ……)
父を監視するというのは建前で、本音では凛太郎と一緒に仕事がしたかったのだ。優菜は父親に事務所に呼ばれて嫌々来た時、凛太郎に会った。一目惚れだった。父親にはない清潔感があり、何よりも顔がタイプだった。
(今まで怒った事があるのだろうかというくらいの穏やかな表情)
凛太郎の顔を思い出すと、身体が熱くなる。
「高岡さん……」
つい言葉に出してしまった時、
「おはようございます、優菜さん」
凛太郎の声が後ろから聞こえた。
「え? え?」
優菜は恥ずかしさのあまり、パニックになり、凛太郎の声が聞こえた方から逃げるように離れた。
「誰もいないのかと思ったら、優菜さんがいたので、びっくりしました」
凛太郎はいつもの笑顔で優菜を見ていた。優菜は凛太郎の名前を呟いたのを聞かれたのか確認できなかったが、
「お、おはようございます、高岡さん」
制服の襟を整えて応じた。凛太郎は優菜の慌てように気づく事なく、
「早いんですね、優菜さん。藤村先生の講演会の準備のためですか?」
自分の机に近づきながら尋ねた。優菜は昨夜の一色雄大との事を思い出し、
「いえ、そうではないです。藤村先生の事は関係ありません!」
つい大声で反応してしまった。
「あ、そうでしたか」
凛太郎は優菜の声の大きさに面食らい、そそくさと机に行くと、出かける準備をした。
「あ、その、すみません、ちょっと昨日嫌な事があって……。高岡さんこそ、お早いですね?」
声が大きかったのに気づき、優菜はまた顔を赤らめた。
「昨日、ぼんやりして帰ってしまったので、何も準備していなかったんです」
凛太郎は頭を掻きながら言った。
「そうなんですか」
優菜は夢見心地だった。
(高岡さんと二人きりで話してる)
ところが、
「じゃあ、行って来ます」
優菜の気持ちを全く感じていない凛太郎はアタッシュケースを抱えてフロアを出て行こうとした。
「あ、高岡さん」
優菜は思わず前に出た。
「何ですか?」
凛太郎は優菜がいきなり立ちふさがる形で出て来たのに驚きながら訊いた。
「今度、夕ご飯ご一緒しませんか?」
優菜は凛太郎の顔が見られず、もじもじしながら言った。
「え? でも、優菜さんは一色君と付き合っているんでしょ? いいんですか、僕と夕ご飯なんて」
凛太郎の意外な言葉に優菜は、
「え?」
凛太郎を見上げた。凛太郎はふざけている様子はない。
(お父さんね!)
誰が何をしたのか、即座に感づいた優菜は、
「一色さんとは何でもありません。私が好きなのは高岡さんです」
背水の陣で臨んだ。
「えええ!?」
凛太郎は驚いた。所長の啓輔から、優菜は一色と付き合っているので、それを頭に入れて優菜と接するようにと言われていたのだ。優菜は吹っ切れたので、凛太郎に詰め寄り、
「父から何か聞かされているのでしょうけど、父の言う事は信じないでください。私、真剣なんです。高岡さんとお付き合いしたいんです」
潤んだ瞳で言って来た。凛太郎は麻奈未と付き合う前だったら、一も二もなく承諾しただろうが、今はそんな気持ちにはなれない。でも、付き合えないとストレートに言うのも気が引けた。
「少し、考えさせてください。いきなりで驚いています」
一歩退いてそれだけ言うのがやっとだった。
「わかりました。お待ちしています」
優菜も自分が先走ったと思ったので、素直に引き下がった。
「行って来ます」
凛太郎はアタッシュケースを抱え直して、出て行った。
(嫌われたのかな?)
優菜は急ぎ過ぎたのを反省し、右の目から一粒涙を零した。
(どうしたもんかなあ)
昨夜、野間口絵梨子に手酷い返しをされ、やっとの思いで官舎へ帰った姉小路潤は、
「さっきはごめんなさい。お願いがあるの」
帰宅途中、その絵梨子から電話をもらい、
「例の男の事を中禅寺さんに確認してくれない?」
猫撫で声で言われた。
「いや、その話は受けられない」
強気に出た姉小路だったが、
「昨日の事、貴方の上司に言うわよ。セクハラされたって」
絵梨子が脅迫まがいの事を言って来たので、仕方なく承知し、絵梨子から送られて来た写真を中禅寺茉祐子に見せる事になったのだ。
(まあ、いっか。茉祐子ちゃんに近づく口実ができた)
別の考えが浮かび、茉祐子を探して廊下を歩いていた。
「あ」
その時、査察部の部長室から出てくる麻奈未を見かけた。
「どうしたの、伊呂波坂ちゃん?」
姉小路はニコニコして声をかけた。麻奈未は姉小路が近づいて来たのを知らなかったのでビクッとしてから、
「ああ、姉小路さん。お疲れ様です」
挨拶をした。姉小路は麻奈未のリアクションに苦笑いをして、
「お疲れ様。部長に呼ばれたの?」
麻奈未は廊下を見渡してから、
「実は、今度の査察から外れる事になったと言われました」
「今度のって、例のブレインホークの?」
姉小路も声を低くした。麻奈未は頷いて、
「はい。ご迷惑をかけますが、よろしくお願います」
姉小路に頭を下げた。姉小路は麻奈未の律儀さに感心して、
「いや、俺は別に何でもないから。それにしても、どうしてなのさ?」
「ブレインホークの関係者の中に知人がいたので、外れる事になったんです」
麻奈未はちょっとだけ話をはぐらかせた。
「なるほど。そいつは不運だったね。まあ、仕方ないか」
「はい。では、失礼します」
深掘りされるのを恐れた麻奈未はすぐに姉小路と反対方向に立ち去った。
(伊呂波坂ちゃんに詮索されると困るから、このくらいで終わりになってよかった)
姉小路も麻奈未に注目されるのはまずかったので、互いの利害が一致したのだ。廊下を更に進み、情報部門のドアの前まで来た。
(とっかかりはどうしたものか)
姉小路はノックなしでドアを開いた。
「あ、姉小路さん、お疲れ様です」
ドアの一番そばの席にいた若い男が顔を向けて挨拶して来た。姉小路は右手を上げて、
「よお、代田。中禅寺さん、いる?」
室内を見渡しながら尋ねた。代田と呼ばれた男は、
「中禅寺さんは出かけましたよ。内偵です」
姉小路は「内偵」という単語にがっかりした。
「そうかあ。だとすると、中禅寺さんから連絡あるまで、音信不通か?」
姉小路は代田に近づいて小声で言った。
「そうですねえ。今日はもう帰って来ないらしいですよ」
「わかった。ありがとう」
姉小路が出て行きかけると、
「姉小路さんは伊呂波坂さん狙いだったんじゃないですか? 中禅寺さんとは、また随分振り切った路線変更ですね?」
代田がニヤついて尋ねて来た。姉小路は苦笑いして、
「別にそういう事じゃないよ。それに俺は伊呂波坂ちゃんを狙ってないし」
ドアを閉めた。
(俺って、すっかりチャラい男だと思われてるのか)
自分の服の趣味がそうさせているのを自覚していない姉小路である。
(姉小路さん、ナサケに何の用だろう?)
麻奈未は姉小路が向かった方角が気になり、こっそり後を尾けていた。すぐに出て来たので、慌てて廊下の角を曲がって隠れた。姉小路は麻奈未の方とは反対方向へ行ってくれたので、見つかる事はなかった。
(気になる)
麻奈未は情報部門のドアを開いた。
「ああ、伊呂波坂さん。さっき、姉小路さんが来ましたよ」
代田が言った。麻奈未は代田を見て、
「姉小路さん、何しに来たの? 次の査察の件?」
「いえ、違います。中禅寺さんの事を訊いていきましたよ」
代田の答えに麻奈未は眉をひそめた。
「中禅寺さんの事?」
代田は笑って、
「僕、てっきり姉小路さんは伊呂波坂さんに気があるんだと思っていたので、意外だったんですけどね」
麻奈未はその言葉に、
「え? 姉小路さんて、そうなの?」
全く姉小路が眼中になかったので目を見開いた。
「何だ、伊呂波坂さん、気づいていなかったんですか? 姉小路さんも気の毒に」
代田はヘラヘラしながら言った。
「ありがとう」
麻奈未は真剣な表情になり、出て行った。
「カッコいいよなあ、伊呂波坂さん。俺は断然、伊呂波坂さんだけどなあ」
代田はドアを見つめたままで呟いた。
(中禅寺さんは内偵中だから、しばらく会う事はできない。姉小路さんは一体何の用で中禅寺さんに会いに行ったのだろうか?)
麻奈未は姉小路の行動を何故かわからないが、不安に思った。
(私の事を調べているの? まさかね)
考え過ぎだと思い、麻奈未は自分のフロアに戻って行った。




