動き出す三角形
時間は少々遡る。
「遅いです、一色さん」
三十分だけと約束したにも関わらず、一色雄大が十五分も遅れてきたので、柿乃木優菜は立ち上がって抗議した。注文したコーヒーも冷めかけている。
「すみません、優菜さん。出がけに顧客から電話がありまして」
一色は苦笑いをしながら、優菜の向かいの席に腰を下ろした。だが、その言い訳は嘘である。
(時間にうるさいところだけは、あのエロ所長と似ているな)
優菜が知ったら、激怒しそうな事を一色は思っていた。
「藤村先生の方で、何か変更があったのですか?」
人をあまり疑った事がない優菜が椅子に戻りながら尋ねた。
「いえ、別に何も変更はありません」
一色は笑いを堪えて応じた。その様子に優菜は、
「何がおかしいんですか? 私、何か変な事を言いましたか?」
やや怒気を含んだ声で訊いた。優菜は凛太郎を追いかけようとしていたのを邪魔された気がしているので、機嫌が悪い。それでも、大事な講演会の事であればと我慢しているのだ。
「いや、藤村先生の事は口実です。只、優菜さんを高岡さんと会わせないために言っただけです」
一色はニヤリとして種明かしをした。優菜は目を見開いて、
「父の差し金ですか?」
しかし一色は、
「ご想像にお任せします」
言葉を濁した。優菜は憤然として立ち上がり、
「では、用はないのですね? 失礼します」
伝票を取ると、レジへ向かった。一色はその後ろ姿をニヤついて見ていた。
(顔もスタイルも抜群なんだけどねえ)
優菜は会計をすませると、一切一色を見ずに店を出て行った。
「麻奈未、何かあったのか?」
父と聖生と三人で食事中、不意に物静かな父が口を開いた。麻奈未は箸を箸置きに置いてテーブルを挟んで向かいに座っている父を見て、
「どうしたの、急に?」
戸惑いながら尋ね返した。父は家にいる時も羽織袴姿の見るからに厳格なイメージで、ロマンスグレーの短髪の男性である。
「ずっと俯いているからな」
父は麻奈未にじっと顔を見られると、目を逸らして応じた。麻奈未は微笑んで、
「心配してくれてありがとう。大した事じゃないの。仕事の関係で、ちょっとね」
話をはぐらかそうとして言った。
(お父さんには凛君の事、言ってないから、深掘りされるのは困る)
そして、右隣に座っているお喋りな聖生を睨んだ。聖生は麻奈未の思いがわかったのか、肩をすくめてみせた。
「そうか。それならいいが」
父は納得しかねるという表情だったが、麻奈未が話したくないのを察してその話題を打ち切った。
「ご馳走様」
父は箸を置くと立ち上がり、
「風呂に入る」
それだけ言うと、ダイニングキッチンを出て行った。
「さっすが元査察の鬼調査官、伊呂波坂太蔵、鋭いわねえ、お姉」
聖生がニヤニヤして言った。
「余計な事言わないでよ、聖生」
麻奈未は太蔵の食器をお盆に載せながら釘を刺した。
「わかってるって。お父さん、あれでお姉の事、溺愛してるから、男と別れたなんて知ったら、大騒ぎになるもの」
聖生は麻奈未の手伝いをしながら言った。
「溺愛は大袈裟よ。お母さんが出て行ってから、私達にようやく目を向け始めてくれたんだから」
麻奈未は聖生から湯呑み茶碗を受け取ると、お盆に載せてシンクへと歩き出した。
「まあね。お母さんがいた頃はお父さんと話した事、ほとんどなかったしね」
聖生は太蔵が立ち去った方を見た。
「お母さんに未練あるのかな?」
聖生が嬉しそうに麻奈未を見た。麻奈未は洗い物をしながら、
「未練があるのは、お母さんじゃないの? 未だに伊呂波坂のままなんでしょ?」
聖生は麻奈未の後ろを回り込んで冷蔵庫の前へ行き、
「それは違うと思うよ。お母さん、お父さんとの結婚を決めたの、名字が格好よかったからって言ってたから」
中から缶ビールを取り出した。
「何それ? 私はあまり好きじゃないけどな、伊呂波坂って名字」
麻奈未は洗い物を終えてタオルで手を拭うと、テーブルに戻った。聖生は缶ビールを開けて、
「私は好きだなあ。相手にすぐに覚えてもらえるし。どことなく、高貴の出って感じがするし」
「いつの時代の話をしてるのよ、今時高貴の出って」
麻奈未は目を細めて食事を再開した。
「どういう風の吹き回しかな? 手酷く振った男に二年ぶりに連絡してきたのは?」
東京国税局査察部の姉小路潤は、薄暗いバーのカウンターの椅子に座りながら言った。
「伊呂波坂麻奈未の事で訊きたい事があるの」
隣に先に座っていたツーブロックショートの黒のスカートスーツの柿乃木啓輔に絵梨子と呼ばれた女が答えた。
「伊呂波坂ちゃん? ああ、大学の先輩後輩だっけ?」
姉小路はバーテンに注文をしてから絵梨子を見た。絵梨子は姉小路を睨みつけて、
「それは関係ない。伊呂波坂に男はいるの?」
「さあね。伊呂波坂ちゃんは口が固いから、そういう話はした事ないし、誰かから聞いた事もないねえ」
姉小路は置かれたグラスに口を付けながら言った。そして絵梨子を見ると、
「野間口さん、そんな事聞いてどうするつもりさ? まさか、積年の恨みを晴らすつもり?」
ニヤリとして女の顔を覗き込んだ。
「積年の恨みって何よ?」
野間口絵梨子はキッとして姉小路を睨みつける。姉小路は上体を反らせて、
「大学時代、付き合っていた男がことごとく伊呂波坂ちゃんにすり寄って行ってしまった事だよ」
絵梨子の目がギラッと光ったような気がしたので、飛び退いた。
「そうだ、何か知っているとすれば、ナサケの茉祐子ちゃんかな」
姉小路は両手で絵梨子を制しながら続けた。
「茉祐子?」
絵梨子にはその名前に心当たりがない。姉小路はそっと椅子に戻り、
「中禅寺茉祐子。局内で、伊呂波坂ちゃんと自販機の前で話していたのを見たのさ。内容はわからなかったけどね」
絵梨子は溜息を吐いて、
「国税局の人間では、話してくれないでしょ」
「そうでもないよ。野間口さんも当てずっぽうで伊呂波坂ちゃんの男関係を言い出したんじゃなくて、何か掴んでいるんだろ?」
姉小路は声を低くして顔を近づけた。絵梨子は顔を離して、
「伊呂波坂が入って行ったビルから、別の女と出てくる男を見かけたのよ。これ」
スマホで撮影した写真を見せた。すると姉小路は、
「あれ? この子、伊呂波坂ちゃんの妹だよ。男の方は知らないけど」
「伊呂波坂の妹?」
絵梨子は目を見開いた。
「ところで、野間口さんはどうしてそのビルの近くにいたのさ?」
姉小路が尋ねると、絵梨子は目を泳がせて、
「それはどうでもいいでしょ。だとすると、その男は妹の彼氏という事かしら?」
姉小路は絵梨子の動揺に気づいたが、敢えて突っ込まず、
「それはわからないけど、一か八かでその男の写真を茉祐子ちゃんに見せれば、何かわかると思うよ」
アドバイスをした。
「なるほど」
絵梨子はスマホをバッグにしまいながら頷いた。
「野間口さん、ここまで協力したんだから、何かお礼をして欲しいなあ」
姉小路は絵梨子の右手を両手で握ってきた。
「お礼って何?」
絵梨子は姉小路の魂胆を見抜いたが、わざととぼけた。
「決まってるじゃん。俺達、互いの身体中を見せ合った仲だせ?」
姉小路は絵梨子の手を引き寄せた。
「そうね」
絵梨子は微笑んで立ち上がった。
「おお」
姉小路は期待に胸を躍らせて立ち上がった。
「こんなもので如何?」
絵梨子は右の膝蹴りを姉小路の股間に叩き込んだ。
「グベッ!」
姉小路は膝から崩れ落ちた。
「調子に乗るんじゃないわよ、スケベ男」
絵梨子はカウンターに千円札を三枚置くと、
「ご馳走様」
バーテンに言い、バーを出て行った。
「野間口さん、冗談だよお……」
姉小路は涙目で絵梨子の背中を見送り、周囲を見渡した。しかし、店の中にいる者は誰一人として労りの言葉をかけてくれなかった。
「はあ」
誰もいない六畳一間でバストイレ付きのアパートに帰り着いた凛太郎は、万年床の布団にそのまま寝転がった。
(仕事がつらくても、顧客に不満を言われても、麻奈未さんと会えば全部忘れられたのに、もうそれもなくなった)
凛太郎は目を瞑り、麻奈未の笑顔を思い浮かべた。しかし、浮かんでくるのは麻奈未の凛太郎を責めるような顔だった。
「麻奈未さん……」
凛太郎は涙を浮かべ、掛け布団を抱きしめた。
(半年付き合って、キスどころか、手も繋げなかった。俺がダメ過ぎたのかな?)
麻奈未の真意を知らない凛太郎はどんどん自己嫌悪に陥っていった。




