様々な三角形
聖生は勝ち誇った顔をしている麻奈未を見て、
「そういう事は最初に教えてよね! しなくてもいい敗北を味わったじゃないの!」
詰め寄って抗議した。すると麻奈未は、
「だから言ったでしょ。絶対にあんたが凛君と付き合うのは許さないってね」
更に上から言って来た。聖生は肩をすくめて、
「はいはい、わかりました。凛太郎さんからは完全に撤退します。二度と侵攻しません」
「どこかの国みたいな事しないでよね。凛君は絶対にあんたとは付き合わないんだから」
麻奈未は妹の言動を信じきれない様子で目を細めた。聖生はそれが癪に障ったのか、
「私は完全撤退するけど、他の女性が凛太郎さんに接近するのは私の関知するところではありませんからね」
麻奈未は聖生の蒔いた餌に食いついてしまった。
「誰、それ!?」
聖生の顔を噛みつくのではないかというくらい顔を近づけた。聖生は麻奈未を押しのけて、
「誰かは知らないけど、同じ税理士事務所の子だと思うわ。親しそうに話していたから」
麻奈未はフッと笑って、
「年下でしょ? それなら心配要らない。凛君の眼中にないから」
聖生はニヤリとして、
「それはどうかなあ。お姉に振られたせいで、年上が苦手になったかもよ」
麻奈未は聖生の言葉にピクンとした。
「しかも、その子、お姉と違って穏やかそうだったし、胸も大きかったから」
聖生は麻奈未の胸を見た。麻奈未はムッとして、
「凛君はそんな事に釣られるような軽い子じゃありません! それに私は振った訳じゃないし!」
立ち止まった。聖生は麻奈未を斜に見て、
「理由も告げずに別れを切り出したら、振られたって思うでしょ、普通。何のリカバリーもなしにそのまま放置プレーだし」
「う……」
聖生の指摘に麻奈未は返す言葉がない。
「そんな時、同僚の女の子から優しくされたら、凛太郎さんも悪い気はしないし、好きになっちゃうんじゃないかなあ」
聖生は追い打ちをかけた。麻奈未は思わずバッグからスマホを取り出した。
「お、凛太郎さんに電話するの?」
聖生がスマホを覗き込んだ。麻奈未はハッとして、
(ダメだ。まだ凛君に事情を話せない。査察が終わるまで、連絡はできない)
スマホをバッグにねじ込んだ。
「どうしたの? 連絡しないの?」
聖生はヘラヘラしながら尋ねた。麻奈未は前方を見据えて、
「帰るわよ、聖生。お父さんがお腹すかせて待ってるだろうから」
大股で歩き出した。
「おとうさんにはレンチンで食べられる夕ご飯を作っておいたから大丈夫よ」
聖生は慌てて姉を追いかけた。
聖生と麻奈未が話題にしていた当人の柿乃木優菜は、父親であり、事務所の所長でもある柿乃木啓輔のいる所長室にいた。
「前にも言ったと思うが、高岡とは親しくするな。奴はこの事務所の厄介者なんだ」
黒髪をオールバックにして整髪料で固め、ダブルのグレーのスーツを着た中肉中背の男が回転椅子を軋ませながら言った。この男が柿乃木啓輔である。
「高岡さんは優秀な方です。厄介者なんかじゃありません」
優菜は射るような目で父親を睨みつけている。啓輔は優菜の視線を避けるように横を向いて、
「厄介者だよ。奴がウチに来て三年になるが、一向に税理士試験を受けようとしない。向上心の欠片もない奴は、厄介者だ」
右手で机を強く叩いた。しかし優菜は、
「税理士試験を受けない人は他にもいるでしょう? 所長は何故高岡さんだけ目の敵にするのですか?」
父親の視界に入るように一歩近づいた。啓輔はもう一度強く机を叩いて、
「他の者は受験資格がないから受けられんのだ。高岡は日商簿記一級の試験に合格して受験資格があるにも関わらず、税理士試験を受けようとしていない。やる気がないのだ」
優菜を視界から外すために逆を向いた。
「それは所長が高岡さんに他の職員の倍くらいの顧客を担当させて、未だに雑用もさせているからではないですか?」
優菜は机に両手を置いて啓輔の顔を覗き込んだ。
「私が奴の年の時には、それくらいこなしていた」
啓輔は目を背けたままで反論したが、
「所長が税理士試験を初めて受けたのは、勤務五年目だったと聞いていますが?」
優菜のその一言で顔色が変わった。何故それを知っているのだという顔で優菜をやっと見た。
「所長が高岡さんに厳しく接している理由がわかりません。何故ですか?」
優菜は畳みかけるように訊いた。しかし、啓輔は、
「別にそんなつもりはない。もういい。出て行ってくれ」
椅子を回転させて背を向けた。優菜は机から離れて、
「では、私が高岡さんと親しくしても、口を出さないでください」
啓輔はクルッと振り返って、
「それは仕事とは関係ない。あいつと親しくするのはダメだ」
「理由もなくそんな事を言われても、受け入れられません。失礼します」
優菜は踵を返すと、素早く所長室を出て行ってしまった。
「くそっ!」
啓輔はまた強く机を叩いた。そして受話器を取り、内線をした。
「ちょっと来てくれ。頼みたい事がある」
啓輔はそれだけ告げると受話器を置いた。
(忌々しい……。奴の願いなど聞くのではなかった。憂さ晴らしにちょうどいいと思って雇ったが、それでは割に合わない程苛だたしくなる)
啓輔は舌打ちをして立ち上がり、窓のそばに行くと外を眺めた。夜になり、街には次第に明かりが灯り始めていた。その時、ドアがノックされた。
「入りたまえ」
啓輔はドアを見て告げた。
「失礼します」
入って来たのは、一色雄大だった。啓輔は無理に笑顔になり、
「まあ、かけてくれ。君に折り入って頼みがある」
机を回り込み、部屋の中央にある二人がけのソファに座った。
「はい」
一色は啓輔と向かい合って座った。啓輔は声を低くして、
「優菜が高岡に好意を持っている事は知っているな?」
一色は想定していなかったのか目を見開き、
「あ、はい」
啓輔は一色に顔を近づけて、
「私は君を優菜の結婚相手として考えている。将来的にはこの事務所も引き継いでもらいたい」
その話に一色の顔が緩んだ。
「はい」
啓輔は眉間にしわを寄せて、
「だから、優菜が高岡と親密にならないように見張って欲しい。未来の妻を守ってくれ」
一色はニヤリとして、
「わかりました。任せてください。優菜さんは必ずお守りします」
「頼んだぞ。早速、優菜を見張ってくれ。本当は私が守りたいのだが、今日は人と会う約束があってな」
啓輔は一色の左肩を軽く叩いた。
「はい」
一色はソファから立ち上がり、
「失礼します」
一礼すると、所長室を出て行った。啓輔はそれを見届けると、腕時計を見て立ち上がった。
(ボロいな。優菜ちゃんを恋人にできて、高岡を追い落とせる。その上、この事務所もいただけるのなら、あのエロ所長の犬になってもいいな)
チャラい風体とは違い、一色は強かであった。
「さてと」
一色はスマホを取り出すと、優菜に連絡した。
「あ、優菜さん? お疲れ様です。今、どこにいますか?」
甘ったるい声で尋ねる。
「お疲れ様です。今、事務所を出たところです」
優菜の声が答えた。
「実は、来週の講演会の事で話があるのですが、ちょっとお時間いただけますか?」
一色は更に甘ったるい声で続けた。
「ああ、藤村蘭子先生の新しい節税対策の講演会ですね?」
「そうですそうです。大丈夫ですか?」
一色は自分の机まで戻ると、鞄に書類を詰め込みながら話した。
「はい。三十分くらいでしたら」
「充分です。ペーパームーンでどうです?」
ペーパームーンとは柿乃木税理士事務所のそばにあるカフェである。
「わかりました。目の前にいるので、先に入っていますね」
優菜の声が言うと、
「了解です。すぐに向かいますので。では、後程」
一色は通話を切り、ポケットにスマホを入れると、エレベーターに駆け込んだ。
夜は更け、月は高くなっていた。ホテルの一室に男と女はいた。
女は気だるそうにバスタオルを羽織ると、ベッドを軋ませて立ち上がり、バスルームへ歩き出した。
「もう帰るのか?」
半裸の男がベッドから起き上がって声をかける。
「ええ。口先ばかりで、自分だけ満足するとさっさと横になるような人と長居をするつもりはないわ」
女は振り返らずにバスルームへ消えた。
「チッ」
男は舌打ちして煙草に火を点けて吸うと、勢いよく煙を吐き出した。女がシャワーを使う音が聞こえてくる。
(他に男ができたのか?)
男は女が素っ気なくなって来たので、浮気を疑っている。傍のワゴンに置いた腕時計を見ると、午後九時を示していた。
「じゃあね」
女は動きが早かった。男が漫然と煙草を燻らせているうちに服を着込んでドアへと向かっていた。
「おい、絵梨子」
男が呼び止めようとしたが、女は見向きもせずに部屋を出て行った。
(絵梨子も彼女とは違う。奴に彼女を盗られて、俺の人生は変わってしまった)
男は女が出て行ったドアを見つめた。
(奥さんが亡くなった時、一周忌まで待ってくれと言われ、それに応じたのが間違いだった。あの男は最初から私と結婚するつもりなんてなかった)
ツーブロックショートで黒のスカートスーツに身を包んだ小柄な絵梨子と呼ばれた女は、ホテルの廊下を歩いて行った。
(それより、あの女があの事務所の男と何か関係がありそうなのが興味ある)
女はフッと笑うと、エレベーターの昇降ボタンを押した。




