vi (2)
「御免ね。不審だったでしょ」
あくる日の午後、被服準備室で夏物の布団を出しながら、清心は久野の声を思いだしていた。
昨晩のミーティングで、久野はすまなそうにそういった。その頬にわずかな笑みの名残を浮かべていた。
清心は首を左右にふって応えた。
久野をとがめる気持ちなど、湧いてこなかった。心は落ち着き、満ち足りていた。
信ずるべき人たちなのだ。
その判断に間違いはなかった。
そのことが、たまらなく嬉しい。
喜びがいまも続いている。
布団を一枚一枚ひろげて、異常がないかあらためる。このごろは、夜でもかなり暖かくなってきている。子どもらにはタオルケットで十分なくらいである。
戸棚の中でねむっていた布団は、みたところ問題なさそうだが、少々、カビ臭いのは否めない。使う前に一度、洗うべきだ。そう判断をくだして、清心は布団を隣の部屋へ運びだす。洗濯機は被服室に二台、授業用として元から備わっている。
必要なことをしているとはいえ、今日も授業をしていない。
ふとそう気づいた。すると、昨日の児童たちの様子が、まざまざと思い出された。
清心の授業中は、男児三人きりだった。
三人が三人とも、すすんで授業に参加していた。
短い間ではあったが、誰も、興味を示さない、注意がそれるということがなかった。内容についていけない、まったく理解できないということすら、なさそうだった。
理想的だったといっていい。
授業はするべきなのだ。
天啓のように、清心は確信した。
なぜいままでしてこなかったのだろう。それどころでは、たしかになかった。料理をして、掃除、洗濯、裁縫をして、それだけで一日があけくれる。でも、それだけではたりないのだ。
それだけのためにいるのではないのだ。
まるきり、心が洗われる思いだった。
昆陽太が求めてくれていた。女児らはあの場にいなかったが、知利処は元来、意識が高い。年長の知利処の態度は、皆に相当、影響する。あの場に信乃が加わったところで、ことさら拒むことはないだろう。
意欲と能力が、両方、水準に達している。受け入れる準備ができている。
そこに知識を注ぎこむことが、教師としての務めではないか。
それへ道理を説くことが、先達としての、微々たる義務ではないか。
唐突に蒙をひらかれたようで、清心は我ながら頭がくらくらした。
どうしたことだろう。
いきなり授業をはじめても、てのひらをかえしたようで、皆、戸惑うだろう。清心自身すら、このめざめに度肝をぬかれている。
こういうことか、父のいわんとしていたことは? 教師であるということの意義? でも、生徒であったころの清心は、教わる中身に実用性をみいだしていなかった。
……呆然と、清心は洗濯機のそばに佇んだ。
手がとまっている。布団をもう半分、運んでこなければならない。準備室へ戻るのだ。
まなぶことになんの意味があるのか。
清心は布団を洗濯かごに入れ、目をとじた。
………………。
何にせよ、授業もきちんとした方がいい。
そのためには、これまでの生活リズムを、いくらか変えなくてはいけない。
まず、時間を作ろう。
自習ではなく、子どもらと、もっと近くにいられるように。内容など何でもいい。形式にも拘らない。教室で机に向かうだけが学習ではない。
一応、めあてをきめると、清心は急いで作業を再開した。とにかく、いままでと同じペースで動いていては、間に合わないのである。
布団を運びおえ、被服室を出た。洗濯はあすだ。それから桜のシーツが破れたから、当て布をしてつくろわなくては。
保健室の前にさしかかったとき、高い声が耳に入った。
清心は顔をあげた。中庭からか、歓声がひびいてくる。
保健室内を横切り、カーテンを寄せて窓の外をみる。
声の主は子どもらである。
菜園のまわりの芝生に、子どもたちが散らばっている。鬼ごっこでもしているらしく、めまぐるしく駆けまわり、かと思えば、立ち止まっている。
皆、それぞれの場所から、一様に何かに注目している。
――吼え声。
鳴き声。いや、そう呼べるほどのものではない。耳慣れない息遣い。だがそれも、清心がみたものから無意識に生んだ錯覚かもしれない。
子どもたちの視線のあつまるところには、一匹の、薄い茶色の犬が走りまわっている。
首輪はない。
野良犬だ。
清心は一瞬、息をのみ、つぎの瞬間には駆けだしていた。
廊下をぬけて、中庭に飛び出す。芝生の上に幼い声があがり、四方の壁に跳ねて、中庭じゅうにこだまする。
「ユウ!」
亮治が、犬に追われて駆けながら、ふりかえって呼んでいる。
「ユウ、おいで!」
茶色の犬が亮治についていく。
清心は大きく息を吸って叫んだ。
「何してるの!」
びくりと、雷にうたれたようにふるえ、亮治が立ち止まる。
ほかの子らも動きをとめる。亮治のすぐ後ろまでせまっていた犬は、走るのをやめ、男児のまわりでクゥンと鼻を鳴らした。
亮治がそれをかえりみ、近づこうとする。
「駄目よ。離れなさい!」
ぴたりと足をとめた。
犬から五十センチばかりの距離で、亮治はそれより先へも後へも動かない。
清心をふりむき、ひかえめな声でいう。
「でも、先生」
「触らないの! どんな病気を持ってるか、わからないのよ。咬まれでもしたら……」
茶色の毛へのばしかけた手を、亮治はひっこめた。その拍子にたたらを踏んだ。
相手は動物だ。油断はならない。
「咬んだりしないよ」
ぽつりと亮治がつぶやく。
清心は目の前が真っ赤になるような気がした。
動物の飼育――そういう方法はある。だが、いまだけで精一杯なのだ。犬を飼う余裕などない。
予防接種、病気の治療。去勢や避妊手術などもってのほか。第一、獣医がどこにいる。
少し咬まれただけでかかる病気もある。たとえその行為に悪意がなくとも。
別種の動物をいれることによって、繁殖する生物もいる――。
「どうしたの?」
肩をたたかれ、清心は思案からさめた。
右手に久野が立っている。その顔は、清心だけでなく、場の全員をみまわしている。
亮治と野良犬、そのかなり近くに昆陽太がいるが、ほかの子らもやや遠巻きながら芝生に立っている。
清心は説明しようとし、口をひらいたが、何もいえなかった。ただ久野をみあげた。
大きな手にふれた髪の毛が、頬に当たった。
右肩の温もりが続いている。
久野は清心をみ、犬をみた。
「多分、車を入れたときに入ってきたんだな。気づかなかった」
一歩踏み出し、久野は清心より半歩前に立つ。犬は二メートルほど退り、亮治をふりむき、亮治の反応がないと所在なげに足踏みした。
「ここでは飼えないんだ。わかるね?」
久野は子どもたちに呼びかける。亮治と呼び、答えはなく、桜を呼ぶと、はいと返事がある。
亮治の思いつめたような表情が凄まじい。
久野の手はまだ清心の右肩にあった。まるで、励ますように。
それ以上の何かをこめるように。
「捨ててくる」
低い声が告げる。
「知利処」
知利処の肩がびくりとゆれた。犬は、子どもらの輪の中ほどで、うろうろと歩きまわっている。
「一緒にきて」
「……はい」
「清心さん、あとお願い」
久野は中庭の真ん中を横切る。犬も、誰のことも眼中にないように。その片手はようやく清心の右肩を離れ、ポケットの車の鍵をさぐる。
おいでと、小さく知利処が話しかけるのがきこえる。
知利処が寄って手招きすると、犬は心細げについていく。おどろくほど従順だ。
飼われていたものかもしれない。
知利処は、飼っていたのだろうか。
知利処と犬が後部座席に乗りこむ。久野がシャッターをあげ、車を出そうとする。
そのとき、まってと、つんざくような悲鳴があがった。
四角い壁と窓に反響し、余韻をわななかせた。
「なんで……やだよ! 久野先生!」
亮治が泣いている。
昆陽太がそれに手をそえようとするが、身をよじってふりはらう。
「だって、ユウが戻ってきたんだ。せんせっ……」
一瞬、清心と目が合い、すぐ逸らす。
清心は愕然とする。
「ねぇ、知利処。昆陽太っ……」
シャッターを二枚ともあけ、運転席について、久野はエンジンをかける。暗い車内の二人の表情は、清心には定かでない。
亮治が叫んでいる。清心にとっては、わけのわからないことをいって。
必死の体で。
「まってよ! とめてよ、やだよぉ!」
久野に後をたのまれた。清心は何かをしなければならない。
そうはいっても、一体、何を。
亮治の叫ぶ理由が、清心にはわからない。
同情もできない。あの一瞬で、亮治にみかぎられた。
かばえない。
味方できない。
とうとう駆けだそうとした亮治を、昆陽太が手をとって引き止めた。なんでと亮治はわめく。車が発進し、中庭を出、久野が一旦、きちんと戻って、外側のシャッターをおろす。
抜かりがない。
容赦も。
亮治は昆陽太の腕をふりきり、閉まったシャッターにとりついた。細い手で、取っ手に指をかけ、あけようともがき、能わず、打ち、すがった。
「ユウ……」
金属の板のふるえる音が、中庭に反響している。
呆然と、清心は亮治の小さな背中をみる。
日陰の中庭、亮治のいまいる廊下にくらべ、さきほど垣間みえた、シャッターの向こうはひどく明るかった。
亮治が泣いている。床に膝をつき、背中ごとうなだれ、全身が壊れんばかり。
誰も、そばに行こうとしない。
あきらめているのか、憐れんでいるのか。
とりのこされているのか。
……何が悪かったのだろうと、清心は頭の片隅で、ひとごとのように考える。
お願いと、久野はいった。
一体、何を?




