vi (1)
外出から戻った知利処は、みるからにはしゃいでいた。ほかの子たちの手前、自らに適用された特例をひけらかすような言動はしなかったが、どうやら相当楽しかったらしい。何がどう楽しかったのか、はぐらかすばかりで、清心には教えてくれなかったけれど。
久野にきくと、特に変わったことはしなかったという。いつも久野が一人でするように、市をみ、知り合いと世間話をしてまわったそうだ。もとめたのは入り用の品だけで、知利処がとりわけ何かをねだることもなかった。それでも知利処は終始嬉しげで、久野から離れることもなければ、清心の危惧したようなこともなかった。
つまり、依然として手がかりはないということである。
それでも知利処のよろこびようをみると、今回はこれでよかったのだろう。
浮かれた反動で、急におちこむようなことがなければいい。知利処の機嫌がいいと、子どもたちの雰囲気も明るい。教室の空気が朗らかだと、久野と清心の負担も軽い。
いまのところ、知利処の外出は、いいほうに作用している。
一方、清心は気にかけていたのだが、他の児童から不満が出るということも、まだなかった。
その日、昼食の片づけを終えると、清心は独り北校舎三階のベランダに出た。
朝からよく晴れ、洗濯物がもう乾いている。手すりにかけてほした布団も、十分、日射しを吸っている。
下の階から、窓越しに、くぐもった話し声がひびいてくる。
二階の左手は教室である。児童たちは昼休みの後、教室に入っている。
低い声がときおり混じるのは、どうやら久野がいるらしい。
授業だろうか。
布団を取りこみ、洗濯物を引きあげながら、清心は耳をすませた。
授業といっても、皆に一斉に教えるとは限らない。それなら声を張りあげることもないから、普段の会話と同じ大きさだ。
それにしては、高い声が入れ替わり立ち替わり、よくしゃべる。
言葉はちっとも聴きとれないが、なにやら楽しそうである。
立ち聞きをあきらめ、内に入ってガラス戸を閉めた。脳裏で己のマナーの悪さを恥じた。
腑におちないのである。
子どもらが文句ひとついわない理由が、わからない。
校舎の外への憧れは、皆、大なり小なりもっている。だから多少の不平は出ると思っていた。それなのに、あからさまな非難どころか、そんな素振りすらほとんどみえない。
訝りたくなるくらい、子どもたちはおとなしい。
清心のしる限り、いままで知利処にこれほどの強権をみとめたためしはない。ほかの皆も、歳の近い昆陽太もいるし、ことさら主張ができない子たちでもない。知利処一人の優越をゆるすほど、統率のとれた子たちではなかった。まさか、不平を腹にためこんで和を尊ぶほど、世慣れてもいないはずである。
おかしなことである。
清心のくる前、知利処がしばしば外に出ていたということが、もしかしたら一因かもしれない。
前例があることで、知利処の外出が皆にとって当然のように受けとめられたとか。これなら、曲がりなりにも説明がつく。
あとは知利処の特権は、ただ図書室の鍵の管理のみだ。しかしこれが皆の羨望の的になるかといえば、そうでもないだろう。本が好きな子ばかりではないから。
その一点、あるいは精々二点によって、児童全員を納得させられるとは、どうも考えにくいのだが。
久野がうまく説明したのだろうか。知利処の外出の件をもちかけてきたのは、そういえば久野であった。知利処の外出を皆に支持させるすべなど、清心には事情をうちあけることしか思いつかないが、そんなことをする久野ではない。なにか完璧な方便を、久野なら使いこなすのかもしれない。それがどんなものかは、想像のおよぶところではないけれど。
布団をたたみつつ、清心は子どもらのスリッパをあらためた。ほころびが目につくが、履けないほどではない。もう少しすりへったら、つくろうことになりそうだ。
自分の洗濯物をしまうと、当座の仕事はすんだ。清心は立ちあがり、部屋を出た。
気のせいかもしれない。
勘違いだと思いたいというのが、本音である。
先の階下の声は、一人一人に教えているというより、皆で額をあつめて、打ち合わせでもしているようだった。
まるで、清心をのぞく総員の合意のもとで、事が運ばれているような。
そこにいたって、清心は意識して思考をやめた。
いやでもおぼえる疎外感が、思い過ごしだといいのだが。
三階の廊下から、一階の給食室へ向かった。片栗粉の残りがあったかどうか、たしかめようと思ったのだ。
銀色の扉をあけてすぐ、台所に人影がみえた。
知利処である。調理台にボウルを出して、何か熱心に混ぜている。
「知利処?」
呼ぶと、ぱっと顔をあげ、都合が悪そうに眉をひそめた。
申し訳ないことをした気分になり、清心は踏みいるのをためらった。
「何か作ってるの?」
ききながら、視線をそらし、目当ての戸棚の方をみつめる。授業時間に料理をしてはならないというルールはない。初等教育に家庭科だってあるし、久野の今しているのが授業かどうかもわからない。第一、そんなのすべてぐずぐずになっている。
堂々としていいのだ。何を隠すことがあるのだろう。
「ちょっと」
短く、小声でかえして、知利処は手をとめていた。
「邪魔?」
遠慮らしい物言いに、おどろいた。
「そんなことないわよ」
調理台を迂回するように、清心は戸棚に近づいた。知利処に背を向ける格好である。
戸をあけてみると、手前に空きができている。
薄力粉の袋がないのだ。
かえりみると、知利処は何もいわず、手元のボウルを腕で覆うようにしてこちらをうかがっていた。
薄力粉はみえない。丁度、陰になっているのか。清心は戸棚に向きなおった。
「長くなりそうなの?」
奇妙な間をおいて、答えがくる。
「すぐ終わる」
「そう。材料はそろってる?」
「うん」
片栗粉の残りは僅かで、備えはなかった。冷蔵庫もついでにみてみる。玉子と牛乳が外に出たようだ。
菓子でも作っているのだろうか。それで今回は玉子が多めだったのかと、合点する。
知利処が外出したがったのは、このためかもしれない。
清心はごくさりげなく、冷蔵庫もしめた。
「五時頃から晩御飯作りはじめるけど、それまでには終われる?」
「大丈夫」
「片付け、大変だったら晩御飯の後一緒に洗うから、残しといていいよ」
ふるふると首をふり、知利処は清心を横目にみる。
「やる」
何を作っているのか、しられたくないようだ。
しいてほほえみ、頷きかけて、清心は戸口へひきかえした。
安心させたかった。
秘め事は悪いことではない。
それを苦にする清心自身の気持ちは、別の問題として。
「じゃぁ、よろしく。邪魔して御免ね」
なるべく自然にその場を去る。
廊下に出、一人になって、思わず長い吐息をもらした。
……堂々としていろなんて、いまの知利処には酷な言い分だ。
己の考えの端をつかまえて、嫌気がさす。
思い遣りがない。何かたりないのかもしれない。
自覚して、気をつけなければ、きっと大切なものをうしなってしまう。
後で悔やむのでは遅いのだ。
さまざまなことが思い起こされた。そのほとんどを、清心はとらえようとも思えなかった。
わかりきったことだった。
自身の拠って立つところを、自分自身にするのは危うい。だからよすがが欲しい。
人にたよるばかりでは、一人で立てなくなる。だから本当は、頼みにされたい。
ずっとぐらぐらとゆれている。比重がわからない。
両立させるのは、とても難しい。
理想はあまりに遠い。
清心は頭をふり、一階の暗い廊下をすすんだ。
知利処が何を作っていたのか、清心にはついにわからなかった。ボウルなどの調理器具は夕飯の準備前にもとの場所におさまっていた。使ったかもしれない皿やフォークの類いも、みわけるのが困難なくらいきちんと整頓されていた。
オーブンや火の周りもみたが、跡形もない。唯一、台布巾の汚れがふえていたのが、誰かが台所にいたあかしだった。
薄力粉も戸棚にかえっていた。中身がどれくらい減ったのか、しる由もない。ほかにも何か粉類が減ったかもしれないし、そうでないかもしれない。
まったく、舌を巻く。
何がつくられていたのか、清心は思いをめぐらせるのをあきらめ、何がなくなったかだけしらべた。
冷蔵庫からは玉子と牛乳のほか、バターが減っていた。
バターはいわずもがな、玉子も牛乳も、貴重である。
本音をいえば、贅沢品だとさえ思っている。それもあって、清心はバターをあまりもちいないが、あとの二つはよく使う。育ち盛りの子どもには、なるべく摂ってほしい食品だから。
どの程度きりつめればいいのか、正直わからない。
それでも覚悟はしておくべきだと思っている。
知利処にその意識はないかもしれない。ないとしても、責める気にはなれない。それくらい、日々、当たり前に、手のとどくときがあった。いまも珍しくないくらいには、食卓に上っている。
清心はそれについて、とやかくいうまいときめた。
玉子はいつもより多かった。たりなくなることはない。
何ができあがって、誰が食べたのか。何もわからない。
現時点で清心にわかるのは、久野が一枚噛んでいるということだけだ。
夕食の片付けを終え、明日の朝食の献立を考える。冷蔵庫や戸棚をのぞきながら、清心はもやもやと形のさだまらないことを悩みつづける。
どんなにさしせまっていても、あそびはあった方がいい。そこまできりつめる必要がないなら当然だ。
食べ物なんて新鮮な方がいい。長くもつものは少ないし、その多くはおいしくない。あたらしいものを、おいしく食べる。それが食の基本ではないか。そのくりかえしが食生活である。
何を不満があるのだろう。
清心は自問した。
答えは出るだろうか。否、出なくとも、考えるべきである。
多分、単純なことなのだ。
状況はそうできている。
目をそむけようとしているのだ。
……知利処が隠し事をしていて、それを久野と共有しているのが、気に食わないのだろう?
はっきりしている。
ただすまでもない。
いまの自分にはそうみえるのだ。久野だけが仲間だとは限らないのに。ほとんど、そうみたがっているみたいに。
久野を疑わないのなら、気持ちは知利処に向かってしまう。あの子に、とがなど、ひとつもないかもしれないのに。
教師としてよくない。最低だ。だからみとめまいとしている。いまも、わかっているのに。
清心は息をついた。この感情を、押し殺すべきだろうか? 押し殺すべきだろう。久野はともかく、知利処の前では。この上、あの子を苦しめたくはない。
では久野の前では、どうするのだろう?
疑わないなら、信じるばかりである。
久野は清心を騙したり、おとしいれたりしない。
あざむいたり、偽ったりしない。
だからいえない場合があるのだ。
これで十分だ。清心は給食室を出た。この公式で、当面は、久野とも知利処ともやっていけるだろう。
ミーティングでも平静でいられる。自信さえあれば、大丈夫だ。その虎の巻が正しかろうと、間違っていようと。
視聴覚室で久野と対面しても、なかば予想していたとおり、知利処が何を作っていたのか、久野の口からはきけなかった。
食材がたりなくなることはないかときかれ、ないとかえすと、それならよかったといわれた。何かやりたいことがあるみたいだと。
穏やかだった。子どもたちの前以上に、強さがきえ、ひかえめといっていいくらい物言いが柔らかくなる。
指摘すると嫌がられるかもしれない。清心は口に出さないが、優しい人なのだと思う。
二人でいると、疑う気がうせた。
夜闇の向こうに風呂場の明かりをみ、たわいない話をした。トマトがよくのびてきているとか、もうすぐ梅雨だとか。
中庭の菜園に水をまこう。土がすっかり乾いている。夕焼けが鮮やかだったから、あしたも晴れる。皆もよろこぶだろう。
憂えをわすれるように、久野は仕合わせな話をする。
清心の不安ではない。久野の心慮だ。
おそれをふりはらおうとしている。その鋭さから、気づいてしまうすべてのことを。
相槌を打ちながら、清心は久野の頬の線をみつめる。
闇は深い。
このひとの煩うことが、少しでもなくせますように。
目が合い、ほほえむと、久野はおどろいたような顔をした。このひとはわたしが笑うといつもこんな顔をする。
階段を駆けてくる足音がする。昆陽太の声。浴室があいたことを告げてくれるのだ。
ノックと、呼びかけと、戸をひらくのをほぼ同時にする。
「先生、お風呂あいたよ」
礼をいうと、昆陽太と亮治が、連れ立ってにぎやかに駆けていく。
「じゃ」
「はい」
久野が腰をあげ、清心も席を立った。戸口をくぐると久野が明かりをけした。下から子どもの声がたちのぼってくる。
廊下は暗いが、あるけないほどではない。
久野だけでない。ほかの皆も、信ぜられない理由がどこにあろう。
木曜日の昼食の後、片付けを終えて廊下に出たところで、久野に呼びとめられた。
「どこ行くの?」
「三階へ。雲が出てきたので、洗濯物を入れておこうと思って」
「そうだね、手伝うよ」
清心は一拍おいてから、ありがとうございますと応じた。
久野が清心の家事に手を貸すことは滅多にない。分業体制がととのっているせいであって、手伝う気がないわけではないのだろう。
今日は午前から久野がいる。外での用事は朝早くにやっつけたそうだ。
洗濯物を室内にほしなおす。女児らの部屋を久野が行き来するのも、なかなかみない光景である。
清心は洗濯挟みをつまみ、生乾きの靴下をとめなおした。湿気の残っている部分が外側にくるように。
久野はせっせと洗濯物を運びいれている。今日は校内の仕事がないのかもしれない。あっという間に仕事をすませ、口をひらいた。
「清心さん、この後、何かある?」
「え? いえ。つけおきしている分を洗って、ほして、後は夕食の準備くらいです」
ベランダのガラス戸を閉めながら、そうかと久野は肯いた。清心はハンガーにかけたブラウスの袖をひき、皺をのばした。
「つけおきは、洗濯機をまわすだけ?」
「はい」
スイッチを入れて、洗い終わるのをまつだけである。
「俺でもできそうかな」
「ええ。何も、難しくないと思います」
「そう? じゃ、そっちは俺がやるから、清心さん、授業してくれない?」
清心は手をとめ、久野の方を向いた。久野は中庭の曇り空から、弱い光を上体の輪郭に受けている。
清心が何かいう前に、言葉を続けた。
「亮治に質問されたんだけど、説明できなくて。国語なんだ。清心先生にみてもらえるといいなと思って」
わかりましたと応え、清心は部屋の時計をみる。昼休みが終わる時間である。
「じゃぁ、先に洗濯の残りを」
「あぁ、いいよ、それは俺がやるから。やりかただけ教えてくれる?」
「はい」
「もう休み時間も終わりだし、教室に行こう。皆、まってるから」
うながされて教室へおもむいた。室内にいたのは男児三人だった。
久野が女児二人の行方をきくと、昆陽太が
「どっかほかでやるってさ」
という、にべもない答えをくれた。
「そうか……ほら、亮治、質問があるんだろう。清心先生が授業してくれるぞ」
「あっ、うん」
亮治がごそごそと机の中を探る。久野に視線をやると、苦笑に似た微笑がかえってきた。
知利処と信乃はどこへ行ったのだろう?
「ちょっと様子をみてくるよ。あと、ついでに洗濯の残りもね。十五分くらい?」
「いつも二十分くらいまわしてます。濯ぎは二回。漂白剤を使ってるので、やけどに気をつけてください」
「ん。行ってくる。よろしく」
久野が軽く手をふり、その背中がドアにさえぎられるまで、清心は目で追っていた。室内では亮治が机を探りつづけ、早くと昆陽太にせっつかれている。
「あった!」
明るい声に、清心は注意をひかれた。くたびれた国語の教科書の、おそらく亮治の目当てのページが、パタンとひらいて机上に平らになった。
「清心先生、これ」
「うん」
「マノアタリって読むんだよね?」
問題の箇所を読むより先に、昆陽太が口をはさむ。
「メノアタリじゃないの?」
亮治が問いなおす間に、桜が席を立ち、近づいてきて教科書をのぞきこんだ。亮治の人差し指の小さな爪が《目の当たり》という文字にそえられている。
あぁと清心は思う。久野は答えられなかったとはいわなかった。
説明できなかったといったのだ。
「メノアタリ」
ゆっくり読みあげる桜に、昆陽太が強い調子でいう。
「マノアタリだよ」
「ねぇ、清心先生」
「そうね。マノアタリって読むわ。昆陽太が正解だね」
答えながら、手近な椅子に腰をおろした。昆陽太がほらなと顎をあげ、桜がなんでぇと素直な声をあげた。亮治はしかめつらで首をかしげ、納得いかない風情である。
「だって、これ、メだよ。先生」
異論をとなえたのは桜だった。
確かにそうだ。清心は頷く。
「そうね。これ一つでなら、読み方はメだし、意味もこの、目のことだわ。それは、桜も亮治も合ってるわよ。昆陽太も、それはわかるよね?」
自分の目を指して年少の二人にみせてから、昆陽太に尋ねる。昆陽太は首を縦にふった。
この法則を何と呼んだろう。清心は講義の記憶を呼び起こそうとする。
しっかりとは思いだせないが、最初の例に挙がっていたのは《まなこ》だった。だがこの言葉はこの子たちには馴染みが薄いかもしれない。日常あまり使わない具体例では、説得力に欠ける。
《まぶた》《まつげ》……《このは》も同じルールだ。
「でもね、きまった言葉と合わさると、よみかたが変わることがあるのよ。たとえば《まぶた》なんかがそう。《まぶた》の《ま》は目のことよ」
清心は立ち上がり、黒板の前でチョークを取った。《まぶた》と大きく書き《ま》の横に《目》と書いて、イコールでむすんだ。
「《ぶた》は何かな?」
「ふた?」
亮治の反応が速い。
「正解。目の蓋で、まぶた」
じゃぁといって、しばし考え、清心は《あまがさ》と板書した。多分、悪くない例だと思う。
《雨+傘》の式をみちびき、最後に《木の葉》の読みをしめして、説明を終了した。まゆげもかと桜にきかれ、答えを保留せざるをえなかった。おそらくそうだとは思うが《ゆ》の説明がつかなかった。
しらべればわかるだろうか。荷物をひっくりかえせば、テキストは出てくるはずである。
国語学の講義だったか。世界の言語分布。母音調和の一種だったろうか。古い形は熟語の中に残存するという。
記憶は切れ切れで用をなさない。
知識を補強する手立てがないのは、不便だと感じる。
「こんなところかしら。ほかに質問は?」
一座をみわたす。三人は互いに顔をみあわせて、何かの意思を空中でかわした。
無言の交感。清心には読みとれない意思疎通である。
どうしようかと清心は思う。久野が少し気にかかった。洗濯は大丈夫だろうが、女児らの相手はどうなったろう。
「なければ」
自習の指示を出しかけて、昆陽太の声にはばまれた。
「授業してよ、清心先生」
チョークをおく手を止め、清心は声の方をみた。
昆陽太のまっすぐな目に行き会う。おどろき、己のおどろいたことに気づいて、清心はふたたびおどろいた。
昆陽太は真剣である。百パーセントではなさそうな様子もあるが、多分、八十パーセントほどは本気でのぞんでいる。
授業を受けたいと。
その願いは、きっと正しい。
清心はあらためてチョークをおき、昆陽太の席に歩み寄った。
「そうだね。最近してなかったものね。何かわからないとこがあった?」
「えっと、ないけど……」
「前はどこまでやったっけ。自習は? いまどこを読んでる?」
亮治と桜にも声をかけ、それぞれ、教科書のどこを進めているのか確認した。同じ国語でも、学年が違えば持っている教科書もばらばらである。
音読から始めようと、清心はきめる。さて、誰に合わせようか。
上の子に合わせれば、下の子は意味がわからないかもしれない。下の子に合わせれば、上の子は退屈かもしれない。
そうかといって、真ん中に合わせるのがいいとも思えない。
清心は昆陽太をみ、ついで桜をみた。
請われる立場にあるのだ。
請われずとも与える役目だ。
おどろくようなことではないのである。
「じゃぁ、音読しましょう。桜、いまやっているところから、読んで。立ってね。亮治と昆陽太は、思い出しながらきいてね」
「はい」
桜が立ち、本を両手で持ちあげたとき、教室の戸がひらかれた。
ふりむくと、黒板側の戸口に信乃が立っていた。
その後ろに知利処があらわれた。
手に大皿を持っている。
皿には綺麗なきつねいろのホットケーキが盛られている。
ふわりと甘い香りが鼻先にただよう。清心は目を丸くして戸口の二人をみつめた。
「ほら、どうしたんだ、二人とも。入って入って」
声がきこえ、二人の背を押して久野が入ってきた。後ろ手に戸を閉める。その間も、知利処と信乃は数歩前に出たきり微動だにしない。
「またせたな」
久野がほほえみ、男児らに向かっていった。
桜が本を机に置く音を、清心は背後にきいた。
「知利処」
久野に声をかけられ、ようようといった体で、知利処が近づいてきた。
清心は思わず皿に目をそそぐ。小ぶりでふっくらした、むらのないケーキである。
「お菓子を作ってたの?」
知利処は目を合わさず、頷く。
「今日、誕生日でしょ?」
清心は息をのんだ。
今日――五月十七日。
まだ四十九日もあけていない――去年はここにいなかった――なんの変哲もない日にち。
たしかに清心の誕生日である。
清心自身をのぞいては、なんら特別の意味をもたないはずの。
知利処が指図すると、男児らが席を立った。机を寄せ合い、テーブルのようにして、人数分の椅子をそろえた。信乃がどこからか、なでしこいろの繊維でできた大判の紙を持ってきてひろげ、テーブルクロス代わりにした。真ん中に小さな花瓶と、うすむらさきの花を飾り、祝いの席ができあがった。
「何してるの。座って」
袖をひかれ、清心はいわれるままに腰をおろす。
久野の手から小皿とフォークを取って、知利処がおのおのの席に配った。中央にはバターの小鉢とハチミツの瓶、取り分け用のスプーンが置かれた。
皆が席につく。
顔をみあわせ、ほほえみあい、清心に一瞥をくれ、さらに笑む。
言葉にならない。
知利処が音頭をとり、子どもたちが唱和した。
「清心先生、お誕生日おめでとう」
拍手が続いた。
胸が一杯で、清心は声を出すのもひと苦労だった。
「……ありがとう。嬉しいわ、本当に」
何をいってもたりない気がする。
ちらと久野をみると、なごやかな微笑がかえってくる。
「よくしってたわね。言ったことあったかしら?」
「うん。前にきいたよ」
信乃が嬉々として応えてくれる。
「前にね、清心先生と信乃は、一文字おそろいだねって、話をしたとき。きいたよ」
知利処が立ち上がり、清心の傍らにきた。
「わけていい?」
「ええ、勿論」
知利処へ肯いて、清心はまたすぐ信乃へ向き直る。
「誰か、五月生まれだった?」
信乃は目をみはり、しばし動きをとめてから、ゆるゆると首を横にふった。
「いない」
「信乃、お皿頂戴」
知利処がてきぱきと皆の皿に盛りつけ、ケーキが行き渡った。甘いもの、それもお菓子を食べることなど多くないので、皆、上機嫌である。
「清心先生、お花は僕がとってきたんだよ」
桜がいうと、昆陽太が早速、口をはさむ。
「みつけたのは亮治だろ」
「でも、摘んできたのは桜だよ」
「そうね、可愛いわね、ありがとう。これも中庭?」
「うん、あっちの壁の方」
とろけたバターとハチミツのかかったホットケーキはおいしかった。冷めちゃったけどと知利処はこぼしたが、気にならない。
「おいしいわ。ありがとう、知利処」
目をみていうと、知利処は照れたように視線をそらした。
「お茶もあればよかったんだけど」
「これで十分、嬉しいわ。つくりかたは、前からしってたの?」
会話が弾み、やむことがなかった。いままでになくうちとけた気分で、清心はその日をくらすことができた。




