軋み
薄く開けられた窓からするりと初夏の夜風が入り込んで、食後のダイニングの熱と芳香を浚っていきます。食事が楽しければ楽しいほど、満足であればあるほど、終わりが近づいて寂しく感じるこのひと時が、僕は嫌いではありません。
そんな胸の奥をクリームたっぷりのアイリッシュコーヒーで温めながら、約束通り今日一日の情報を交換することになりました。
「僕の方は朗報です。幻獣開発課が、龍とドラゴンを掛け合わせた新しい素体を提供してくれることになりました」
「えっ、よくあの問題児たちがそんな要求を呑みましたね」
そう言った紅の隣で珊瑚や萌黄も目を丸くしています。事情を知らないレオニールは注意深く周りの反応を伺っていますが、そこでやたらと説明を求めるのではなく、後でそっと誰かに事情を聞くのが彼の意外と細やかな性質を物語っています。最初はただの変態にしか見えなかったのですが、人間というのは本当に奥深いものですね。
「ああ、まあ……なんか色々あったんだよ。それについてはまた後でな」
たった今みんなの手の中にある飲み物のことを考えたのか、翠も例の真っ黒な毒汁コーヒーについての説明は避けた方が良いと判断したようです。
「とにかく、物理防御と魔法干渉力の両方に強い幻獣が手に入りそうで良かったです。萌黄はどうでしたか?」
未来予測課にお使いを頼んでいた萌黄は、今夜は普段とはだいぶ趣の違うシンプルなAラインのワンピース姿です。夕方に見た時とは違う装いなので、きっとこれがレオニールのお土産だったのでしょう。萌黄は何だかんだ言ってレオニールのことを邪険にもできないようで、ふたりの距離感は見ていて実に面白いです。
「レオニールがこちら側に来たことで、明るい予測もちらほら出ているようです。人間側からの歩み寄りの流れが出来はじめているみたいで。とにかくプロジェクトにマイナスになる要因は今のところ見当たらないそうですわ」
「良かったな、レオニール」
「ああ」
朗らかに笑った翠が声をかけると、少しほっとしたような表情でレオニールが頷きました。彼は何も言いませんが、自分の立ち位置のようなものに不安がなかったはずはないのです。
「そうなんですよね……思ったよりも大物だったんですよ、この人」
唐突に差しはさまれた紅の発言の意図がうまく掴めず、問いかけるような視線を送ると、珍しく紅に言い淀まれました。
「すまんな、オレから話す」
代わりにまるで降参するかのように両手を上げたレオニールが口を開きます。
「今まで黙っていたオレが悪いんだが、今日は伯父上にお会いしてきた」
「レオニールの伯父さんと言うと?」
「伯父は名をユージンと言ってな、マテアスの教皇をやっている」
なんと、高位貴族だろうとは思っていましたが、まさか教皇の甥だったとは。これまで勇者で変態という部分だけで、なぜか納得してしまっていました。
「レオニールさんに付いて行ったら、顔パスで教皇庁の奥の宮に入って行くんでホント焦ったっすよ」
珊瑚もその時の緊張感を思い出したのか、溜息をこぼしながらぼやきます。
「いや、聖剣が使えなくなったことだけは伝えておかねばならんと思ってな……伯父上もびっくりしていたが。でも北部の洪水被害の一件もあるし、討伐軍が動く可能性はこれで完全に潰えたぞ」
そりゃあ驚くでしょうよ。まさか甥が幼女のためだけに聖剣を使いこなしていたとは思わないはずです。ですが軍が派遣される可能性がなくなったのは素直に有り難い。
「教皇に今の状況をどう説明したのですか?」
「運命の女性に出会って魔王討伐がどうでも良くなったので、その人と一緒になれるよう見聞を広めて来るとだけ言っておいた」
うん、嘘ではないけれど真実でもない絶妙なラインですね。ペラペラと事情を喋ることはないだろうと思っていましたが、この口の堅さは予想以上です。
「ちなみに、相手の女性は成人しているかどうかを教皇に問いただされてましたよ。していると答えたら、安堵の涙を流していました」
教皇も意外と身内のことで苦労していたんですね……。紅の口調もどことなく同情的でした。
「そこでものは相談なんだが、伯父上は意外と頭の柔らかいお人でな。一度会談の席を設けてみる気はないだろうか」
さて、これは考えてみなかった可能性です。というかマテアスってひたすらに頭の固い国という印象だったんですが、教皇自身は違うんですかね。
「オレは、人間が世界のバランスを崩しているというのなら、神や魔王に任せっきりではなく自分たちでも出来るだけのことをするべきだと思っている。一人の人間として、それができる種族であると信じたい。だからその機会を与えてはくれないだろうか」
まっすぐに僕を見て話すレオニールの瞳には、いつになく真剣な光が宿っています。人間としての誇りと矜持に満ちた眼でした。
「うーん……それはさすがに上と相談しないと、僕たちの一存では決められません。でも協会にはちゃんと伝えますから、少し保留にさせてくだ――」
さい、と言い切る前に、僕の五感に強烈な違和感が発生してぐらりと体が傾ぎ、人形のように椅子から転げ落ちました。
「蒼!?」
「先輩!!」
意識の片隅でみんなの悲鳴を聞きながら、制御不能になった体とは感覚が切り離されたかのようにクリアな思考で自分の状態を分析していきます。脈拍はほぼ正常、血圧もほぼ正常、呼吸も確保できています。体内に毒物反応はなし。魔力の流れにも異常はなし。ということは、この違和感は僕のものではなく――。
「蒼っ」
翠の大きな手で上半身を床から助け起こされた時には、少しずつ五感の制御が戻りはじめました。
「……世界が……軋んだ」
今更ながらにどっと冷や汗が吹き出してきて、掠れた声でそう口にするのがやっとでした。でも今の強烈な感覚は、間違いなくこの世界、クリスティルダのものでした。
ご訪問ありがとうございます。
仕事の中身が届かないので、結局更新してしまいました;
とは言え締め切りは伸びないので、明日以降の予定がしんどくなっただけなのですが(汗)
皆様の暇つぶし程度になれれば幸いです。




