「重なる面影と二つの決断」第85話 ブロック4
カスガはアカリの背後に回り、その細い青い布地に包まれた肩にそっと手を置いた。二人の視線が、目の前の大きな合わせ鏡を通して重なり合う。
カスガ:「とても似合っているわ、アカリ。本当にお姫様みたいに綺麗よ」
アカリはその場でクルリと振り返り、カスガの目を真っ直ぐに見つめた。胸いっぱいにこみ上げる感情を抑えきれず、彼女はそのまま勢いよくカスガの腰へと抱きついた。カスガは無限の慈愛を込めた微笑みを浮かべ、その小さな体を優しく抱きしめ返し、帽子の下から覗くピンクの髪を愛しそうに撫でた。
アカリ:「ありがとう……本当に、ありがとう、シオリさん」
カスガ:「お礼を言うのは私の方よ、アカリ。これはまだ、ほんの始まりにすぎないのだから」
馬車は市街地の喧騒を抜け、やがて古いカエデやシダレヤナギの並木道へと入っていった。石畳を撫でる風は次第に涼しさを帯び、街の中心部特有の煤や鉄の匂いは消え、代わりに湿った植物の芳香が鼻腔をくすぐる。
車両は重厚な鉄格子の門の前に滑らかに停車した。門扉には蔦や蓮の花を模した緻密なフィリグリー細工が施されている。その向こうに広がっていたのは、『千の泉の保護区』――ユーフラテス国内で最も古く、最も格式の高い植物聖域だった。手つかずの大自然が、王立の庭師たちの手によって何世紀もかけて調和させられた、広大な人工自然公園である。
金縁のモノクルを掛けた例の老執事がきびきびとした足取りで馬車を下り、厳かな礼儀作法で扉を開けて手袋をはめた手を差し出した。
執事:「『千の泉の聖域』に到着いたしました、お嬢様。散策には最高の陽気でございます」
カスガが先に降り立ち、茶色い革製ハンドバッグのストラップを肩に掛けながら、少女へと振り返った。その顔には貴族としての冷たさは微塵もなく、ただ柔らかな母親の表情があったさ。
カスガ:「さあ、降りてアカリ。ここでするお散歩は本当に気持ちがいいのよ、行きましょうか」
馬車から足を下ろしたアカリは、突如吹いてきた爽やかな風に飛ばされないよう、白いストローハットのつばをそっと手で押さえた。そして顔を上げた瞬間、彼女の青い瞳は驚愕で見開かれた。
目の前に広がっていたのは、まるで壮大な絵画の世界だった。白亜の石灰岩を敷き詰めた散策路の脇には、黄金色の幹を持つ巨大な孟宗竹の林がどこまでも続き、風が吹くたびに心地よいざわめきを響かせている。木々の葉の隙間から降り注ぐ朝陽が薄い朝もやを黄金色に染め上げ、聖域全体を幻想的なベールで包み込んでいた。
二人が並んで歩を進めるにつれて、遠くから聞こえていた水音は次第に轟音へと変わっていく。
百年の歴史を持つガジュマルの根が織りなす天然のアーチをくぐると、視界が一気に開け、緑の苔に覆われた絶壁に囲まれた巨大な水盤の広場へと出た。そこでは何筋もの透明な水流が断崖から流れ落ち、一番大きな滝は三十メートルの高さから水底の岩肌へと叩きつけられていた。水飛沫が太陽光を受けて乱反射し、滝壺には消えない虹の架け橋がいくつも浮かび上がっている。
アカリは手すりの石垣に駆け寄り、目を輝かせながら両手を突いた。滝から舞い散る冷たい微風が彼女の頬を撫で、青いサマードレスの裾を軽やかに揺らす。
アカリ:「すごい……とっても綺麗、シオリさん。こんなにたくさんの水が落ちてくるところ、初めて見たよ……なんだか、生き物みたいに動いてる」
カスガは自分の横に立つアカリではなく、その瞳に映る滝の輝きを見つめながら、愛おしそうに目を細めた。そこには、都市の腐敗と権謀術数にまみれた政治家の面影などどこにもなかった。
カスガ:「そうね……本当に美しいわね。水は冬のように冷たくて、時に人命を奪うほど冷徹だけれど、どれほど人間が強大な魔法で自然をねじ伏せようとしても、最後にはこの自然の美しさがすべてを包み込んでしまう……。ねえ、アカリ。私はね、この自然の滝こそが、この世界で一番美しいものだと思っているのよ」
水の轟音に重なるように、聖域の豊かな生態系がその姿を現した。周囲のエキゾチックな樹木の梢の間では、色鮮やかな鳥たち――緋色と青の羽を持つコンゴウインコ、すらりとした首のダイサギ、背中がエメラルド色に輝く小さなハチドリたちが、檻に入れられることもなく自由に飛び交っている。
頭上でパキッと枯れ枝が折れる音がして、アカリが思わず見上げた。大樟の太い枝の上で、黄金色の毛並みと銀色の顔を持つ小さなサルの一群が、驚異的な身なりで飛び回っている。その中の一匹、好奇心旺盛な子ザルがツル伝いにぶら下がり、アカリの白い帽子のリボンをジッと見つめていた。
アカリは息をひそめ、クスクスと小さな笑い声をこぼす。
アカリ:「ねえ、シオリさん……あの小ザル、私の帽子が気になるみたい」
カスガは革のバッグの中から、入園時に買った木の実を取り出すと、そっとアカリの開いた手のひらに乗せた。
カスガ:「ゆっくり手を差し出してごらん。怖がらなくていいの、ここに来る人間に慣れているから、きっと優しく受け取ってくれるわ」
アカリは言われた通り、小さく震える手をそっと突き出した。子ザルはしばらく鼻をヒクヒクと動かして様子をうかがうと、驚くほど軽やかな身のこなしで木から降りてきて、アカリの指先から木の実を器用にひったくり、再び素早く枝の上へと戻っていった。そして、安全な場所から満足げにキーキーと声を上げながらそれをかじり始めた。
その光景は、あまりにも平和で、どこか現実離れしていた。背景の滝の飛沫、木漏れ日、色彩豊かな鳥たち、そしてアカリの無邪気な笑い声が、水の音と溶け合っていく。
その瞬間、アカリは自分の背負っている過酷な任務も、地下牢の暗闇も、街でリュウたちが張り巡らせている冷徹な陰謀も、すべてを忘れていた。カスガ・シオリという温かな庇護のもとで、彼女はただの『愛された少女』としての時間を過ごしていた。――だが、その幸福な時間は、数時間後に容赦なく終わりを迎えることになった。
数時間後――。
カスガの馬車が、再び静かに孤児院の門の前に停車した。午前中のまばゆい青空はいつの間にか分厚い鉛色の雲に覆われ、夕暮れにはまだ早いというのに、空全体が湿った冷気に包まれている。街の空気は土の匂いと、今にも降り出しそうな雨の気配を孕んでいた。
門の前の敷地で、アカリとカスガ・シオリが向かい合って立っていた。アカリは孤児院の古びた木造の建物を不安そうに一瞥してから、冷たい風から身を守るように白いストローハットのつばを押さえた。
アカリ:「どうしてまたここに戻ってきたの……? 今日はこのまま、シオリさんのお家に連れて行ってくれるんだと思ったのに」
カスガはゆっくりと膝をつき、少女の青い瞳と同じ高さまで視線を落とした。その眼差しには底知れない優しさと同時に、二人の運命を決定づける重い覚悟が宿っていた。
カスガ:「アカリ……今日一日、本当に楽しかったわ。あなたと過ごせて、心の底から嬉しかった。だからこそ、あなたをただの『使用人』や『お抱えの部下』として私の屋敷に連れていくつもりはないの。……ねえ、アカリ。私と本当の家族になってくれない? ……私の、養女になってほしいの」
その言葉は、冷たい夕暮れの空気に雷鳴が走ったかのように、アカリの思考を完全に停止させた。アカリは大きく目を見開き、青いドレスの裾を握りしめたまま、その場から動けなくなる。小さく開いた唇から、震える声が漏れた。
アカリ:「きょ……うだい……? わ、私が、シオリさんの……?」
――ほぼ同じころ、街の反対側。
厳重な警備に守られたクロガネ邸の一室。
リュウは、誰一人入れない静まり返った自室のデスクの前に一人で座っていた。暗がりの中、唯一の光源である卓上の魔導ランプが、ゲンクロウから託された極秘の書類と分厚いファイルの一群を青白く照らし出している。
リュウは無機質な眼差しで、ページを一枚一枚めくっていた。その情報の処理速度は常軌を逸しており、ユーフラテスの裏社会とカスガ・シオリに関するすべての経緯が、彼の脳内で完璧に構造化されていく。
そして、ファイルの最終ページ。
その中央に挟み込まれていたのは、一枚の緻密な木炭画だった。描かれていたのは、三十歳前後の気品あふれる女性の横顔。ピンク色の柔らかいウェーブヘアと、どこか憂いを帯びた透明な瞳――その顔立ちは、アカリの面影とあまりにも酷似していた。同じ色合いの髪、同じ形状の瞳。それは、血のつながりを疑いようのないほどの一致だった。
リュウはその肖像画をじっと見つめたまま、数秒間完全に動きを止めた。冷徹な思考の海の中で、計算がカチリと音を立てて噛み合う。
リュウ:「……そういうことか」
紙の端を親指の爪で軽く弾きながら、リュウは無感情な瞳のまできっぱりと呟いた。
リュウ:「ふん……なら、どのみち最初に誰を始末すればいいか、完全に決まったな」
部屋の隅の暗がりに佇むリュウは、手元の似顔絵から静かに視線を外し、すでに行動に移すための冷酷なロードマップを脳内で描き終えていたのだった。




