↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
84/100

「青空と少女の微笑み」第84話 ブロック4


馬車の移動空間は、木の車輪が石畳を刻む鈍い音と、キャビンの緩やかな揺れに包まれていた。アカリはカスガ・シオリの真隣にぴたりと体を寄せ、背筋をピンと伸ばしたまま、膝の上で両手を固く組んでいた。目の前のクッションの縫い目から視線を外さず、呼吸すらも殺すように息をひそめている。二人の間に漂う息が詰まるほど静かな空気感に気圧されそうになりながらも、彼女の頭の中では、乗車する直前のオनाथン(孤児院)の玄関先であったやり取りがぐるぐると思い返されていた。


あの瞬間、カルラ修道女がまだ引き渡しの書類の最終確認に追われている脇で、カスガはそっと腰をかがめ、少女の視線の高さへと顔を合わせた。先ほどまでの冷徹な貴族の仮面はきれいに剥ぎ取られ、彼女は柔らかな微笑みを浮かべながら、その一線を優しく越えてきたのだった。


カスガ:「ねえ、アカリ……今日は私と一緒に街へ出かけない? 特に公務の予定もないし、もしよければ、私に付き合ってほしいの」


アカリはその場で文字通り凍りついた。透き通るような純粋な青い瞳――それは驚くほどカスガ自身の瞳の色彩と重なり合っていたが――が、戸惑いと緊張に揺れている。組織の任務、厳格な規律、そして与えられた役割を全うすることだけを教えこまれてきた彼女にとって、その誘いはあまりにも異例で、ルール外の出来事だった。


アカリ:「ですが……私の仕事は、あなた様の身の回りの雑用をこなし、命じられた役目を果たすことです」


カスガはふっと柔らかく、どこか切なさを孕んだ笑い声をこぼし、ドレスの裾を整えながら静かに首を横に振った。


カスガ:「そういう義務の話をしているわけじゃないの。……まずは最初からやり直しましょうか。ちゃんとした自己紹介から。はじめまして、私はカスガ・シオリ……だけど、ここでは『シオリ』って呼んで。あなたのお名前は?」


アカリの驚きはさらに深まった。目の前の女領主からは、敵意も、侮蔑も、隠された企みも一切感じられなかった。このユーフラテスの権力者たちが纏っているようなドス黒い権謀術数の気配が、どこにもない。戸惑いながらも、絞り出すような小さな声で、彼女は答えた。


アカリ:「……アカリ、です」


その瞬間、ほんのわずかな沈黙が二人の間に落ちた。カスガはわずかに眉をひそめ、その後に続くはずの言葉を待った。だが、どれだけ待っても苗字が語られることはない。貴族や特権階級の人間にとって、名字を持たないということは、完全に社会から切り捨てられた絶対的な孤児、あるいは身元不明の捨て子であることの証明にほかならなかった。


カスガ:「……苗字はないの、アカリ?」


その問いが投げかけられた瞬間、アカリの小さな肩がびくりと震えた。スッと視線を足元に落とし、唇を強く噛み締める。胸の奥底で、かつての襲撃の記憶、喪失の恐怖、そして冷たい血の匂いが、今でも生々しく蘇ってきた。


アカリ:「ありません……。両親は、昔の襲撃で殺されたから……」


車内の空気が一瞬にして凍りついたように重くなった。その答えを聞いた瞬間、カスガの表情から血の気がサーッと引いていく。驚愕と、それを遥かに上回る深い悲しみが彼女の瞳を歪め、抑えきれなくなった一筋の涙が、綺麗な頬を伝ってこぼれ落ちた。


慌ててカスガは袖口でそれを拭い、顔を背けようとしたが、その動揺はアカリの目から逃れられなかった。目の前で美しい貴族の女性が、自分の過去を聞いて涙を流している。純真無垢なアカリの脳内には、それを説明する合理的な理由など一つしかなかった。


アカリ:「どうして……泣いているの? あなたも、家族を亡くしたことがあるの……?」


アカリにとって、大人がそこまで激しく心を揺さぶられる原因は「大切な人との死別」以外にあり得なかった。裏の意図や計算なんて微塵もない、純粋すぎる問いかけだった。


カスガは手のひらで目を乱暴に覆い、必死に呼吸を整えてから、震える声をどうにか押し殺して微笑みを作った。


カスガ:「……そうね、似たようなものよ。とても大切なものを、失ったことがあるの」


その声の震えには、あまりにも重すぎる後悔と、隠しきれない痛みが滲んでいた。だが、他人の悪意を見抜くすべを持たないアカリは、かえって自分が相手の古い傷口を突いてしまったのだと思い込み、申し訳なさそうに身を縮こまらせた。


アカリ:「ごめんなさい……そんなつもりじゃ……」


カスガは慌てて両手を左右に大きく振ると、我が子をなだめるかのように優しく首を横に振った。


カスガ:「ううん、謝らないで。あなたが悪いわけじゃないのよ。それよりもアカリ……本当に、私とお出かけしてくれる?」


アカリの心の中で、二つの声がせめぎ合っていた。一つは、冷徹な工作員として「これは何かの心理テストか、あるいは監視の一環ではないか」と警戒を促す声。だがもう一つの声は、誰からも無条件で愛され、大切にされた記憶のない子供としての、温もりを求める切実な願いだった。目の前の女性は、自分を道具として見ているわけではない。その瞳に宿る温かさが、どうしようもなく心地よかった。


小さな葛藤の末、アカリはわずかに頬を染め、ふっと柔らかい笑みを浮かべた。


アカリ:「……うん。行きたい。あなた……ううん、シオリさんは、なんだか優しそうだから」


――そして現在。

馬車は滑らかなブレーキ音を立てて、ユーフラテス市内で最も高級感漂う一角、石畳の美しい大通りの前で静かに停車した。


キャビンの中は相変わらず静まり返っていたが、アカリはスカートの端をギュッと握り締めながらも、先ほどまでの怯えは消え、どこか胸を高鳴らせていた。どこへ連れていかれるのかという緊張の裏腹で、これから始まる未知の体験に対する純粋な好奇心が頭をもたげる。


外側から、乾いたブレーキのロック音が響いた。数秒後、重厚な扉が外側から丁寧に開け放たれる。そこに立っていたのは、見事な仕立てのフロックコートを纏い、首元にはネクタイの代わりに黒いシルクの蝶ネクタイを締めた老齢の執事だった。左目には金縁のモノクル(単眼鏡)がはめられ、朝の光を鋭く反射させている。彼は完璧な動作でお辞儀をすると、落ち着いた低音で告げた。


執事:「お着きになりました、お嬢様」


カスガ・シオリは柔らかく頷くと、まず自ら車外へ降り、すぐに手を差し出してアカリのエスコートをした。促されるままに足を下ろしたアカリは、目の前に広がる光景に思わずまばたきをした。


彼女が予想していたのは、無機質な官庁の建物か、あるいは堅苦しい領主の別邸だった。だが、目の前にそびえていたのは、天井まで届く巨大なガラス張りのショーウィンドウ、紺碧のオーニングテント、そして白亜の大理石の壁にゴールドの筆記体で店名が刻まれた、市内で最も名高い高級オーダーメイドのブティックだった。


カスガ:「ようこそ、アカリ。今日の私たちは、難しい政務も、面倒なしがらみも全部お休み。ただのショッピングを楽しむ女の子同士よ」


店内に足を踏み入れた瞬間、アカリは息を呑んだ。漂ってきたのは、贅沢なフレッシュラベンダーの香り、磨き上げられたウォールナットの木の床、そして世界各地から集められた極上のシルクやベルベットの手触りだった。店のスタッフたちはカスガの姿を見認めるやいなや一斉に深々と頭を下げたが、カスガは軽く手を挙げて「今日は貸し切りよ、邪魔しないでちょうだい」という意思を優しく示した。


そこから始まった数時間は、アカリにとって生まれて初めての『夢の世界』だった。


社会の底辺で生き延びるためだけに戦い、孤児院でも最低限の支給品だけで暮らしてきた彼女にとって、服とは「寒さをしのぎ、目立たないための布切れ」でしかなかった。しかし、カスガはまるで本当の母親のように目を輝かせながら、次から次へと色とりどりのドレスやコートをアカリにあてがっていく。


カスガ:「これなんかどうかしら? あなたのその綺麗なピンクの髪に、絶対よく映えると思うの」


最初に試着したのは、エメラルドグリーンのベルベット地に銀糸の刺繍が施された、重厚感のあるお出かけ用のドレスだった。フィッティングルームから少し恥ずかしそうに裾をつまんで出てきたアカリを見て、カスガは思わず両手で口元を押さえ、感嘆の息を漏らした。


アカリ:「なんだか……すごく豪華すぎて、体が重いよ、シオリさん」


カスガ:「ふふっ、確かに少しおめかししすぎたかしらね。じゃあ次! 次の候補に行きましょう!」


まるで人形の着せ替えを楽しむかのように、試着室の出入りが繰り返された。肩にヴィクトリアン風のレースがあしらわれたクリーム色のワンピース、ウエストラインをふんわりと包み込むパステルピンクのプリーツスカートなど、一着ごとに髪飾りを変え、リボンの位置を微調整する。そのたびに、アカリは鏡に映る見知らぬ『お姫様のような自分』を見つめ、照れくさそうにはにかんだ。


途中で、遊び疲れたようにカスガが小さめのフェザー付きの帽子をアカリの頭に斜めに被せ、自分は目の幅ほどもある巨大なつば広の女優帽をかぶってみせたときは、アカリも我慢できずにコロコロと澄んだ笑い声を上げた。店内に響くその無邪気な笑い声を聞きながら、カスガの瞳には再び温かな涙が浮かんでいたが、彼女はそれを隠すように微笑みで誤魔化した。


散々迷った末に、今日の夏の日の街歩き用として選び抜かれたのは、息を呑むほど美しい一着だった。


カスガ自身は、動くたびに上品なドレープを描くニュートラルなベージュのリネンワンピースに、上質なカーフレザーのハンドバッグという、大人の余裕を感じさせる涼しげな装いにまとめている。


そして、主役であるアカリのために選ばれたのは――。

純白の繊細な刺繍が裾に施された、まるで朝露をまとったようなペールブルーのサマードレスだった。軽やかで風を通す上質なシフォン生地が幾重にも重なり、歩くたびに波のように揺れる。足元には白い革製のストラップサンダル、そして頭部にはドレスと完璧に色を合わせたリボン付きのワイドブリムなストローハットが被せられた。その下から覗くアカリの大きな青い瞳は、かつての陰りを完全に消し去り、宝石のように輝いていた。


全身をコーディネートされた姿を全身鏡で映し出された瞬間、アカリは言葉を失った。

鏡の中に映っているのは、過酷な現実を生き抜く孤児の少女ではない。世界で一番大切にされ、守られている、まぎれもない一人の少女の姿だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。