「語られざる裏切りと不信」第82話 ブロック4
数時間後――。
リョウは自室の静けさの中で、旅支度の荷物を淡々と纏めていた。室内は完全に沈黙に支配されていたが、やがてそれを破るように、控えめなノックの音が響いた。
コン、コン、コン。
リョウ:「入れ」
扉が開き、姿を現したのはサムだった。夜会服を着たまままの彼は、そのままリョウを見据え、直截的なトーンで口を開く。
サム:「僕に話があるって言ってたよね、リョウ?」
リョウは作業を止めると、ゆっくりと振り返り、ベッドの縁を指し示した。
リョウ:「ああ、そうだ。そこへ座れ」
サムは言われるがまま、リョウの隣に腰を下ろした。リョウが両足を組んで微動だにしないのに対し、サムは自分の両足の上に体を折りたたむようにして座り、その全身から張り詰めた緊張感を漂わせている。リョウは余計な前置きを挟まず、一気に核心を突いた。
リョウ:「俺の計画は完全に狂った。アカリは財務官のところへ行けず、俺自身も最高顧問の下に潜り込むことはできなかった。当初の予定通りにポジションを確保できたのは、お前とケンゾウだけだ。だが、ケンゾウが得たのは軍内部の動向データに限られる……。ハッキリ言おう、サム。今回の任務の成否は、もはやすべてお前の両腕にかかっている」
その言葉を聞いた瞬間、サムはガクッと視線を落とした。あまりのプレッシャーに喉の奥が引きつり、言葉すら返せない。グループ全体の勝敗が、自分の双肩にすべて乗しかかっているという現実を、彼の脳裏は拒絶しようとしていた。逃げ道を求めるように、サムはすがるような声を絞り出す。
サム:「でも……そんなのってないよ、リョウ。ほかに方法があるはずだ。君なら、この状況からでも何か別の手を思いつけるだろ……?」
リョウは少年の名前を低く、だが圧倒的な力強さで呼び、その弱音を断ち切った。
リョウ:「サム……よく聞け。今の状況で、街のあらゆる腐敗官僚や汚職の証拠に直接アクセスできる権限を持っているのは、司法長官の懐に潜り込んだお前だけだ。私たちがこの勝負に勝つための鍵は、すべてお前が握っている」
サムは再び俯いた。膝の上で自分のズボンを引き裂くかのように両拳を強く握り締め、震える糸のような声で呟く。
サム:「だけど、僕には……」
リョウはためらうことなくその言葉を遮り、鋭く問いかけた。
リョウ:「怖いか? 自分にその役目が務まらないと思っているのか? お前のせいで失敗し、全員が破滅することに怯えているのか?」
サムの呼吸が荒く乱れた。顔を上げ、怯えの色を隠せないまま、しかし嘘偽りのない本心を絞り出す。
サム:「荷が重すぎるよ……僕のせいで計画が潰れたら、君たちの顔を二度と見られない」
リョウはもう一度、その名前を呼んだ。今度は冷酷な分析者としてではなく、魂を揺さぶるような絶対的な信頼を込めて。
リョウ:「サム……お前の名前を誇れ」
ちょうどその時、東の地平線から最初の朝日が昇り始め、窓ガラスを通して部屋の隅々まで温かな朝の光が差し込んできた。リョウは真っ直ぐにサムを見据える。
リョウ:「お前ならやれる。あの場でお前を選ばせたのは、その任務を完遂できるだけの器量が、お前の中にあると確信したからだ」
その言葉は、冷徹なはずの仲間から投げかけられたとは思えないほど、サムの胸の奥底を激しく揺さぶった。リョウが自分に対して抱いている絶対的な信頼――それを理解した瞬間、サムは迷いを振り払うように上半身を大きく前に倒し、額がベッドのマットレスに押し付けられるほどの深い、本気の礼をした。
サム:「僕の名前を誇るよ……! 絶対に、君を裏切ったりしない、リョウ!」
リョウは静かに立ち上がり、自分のトラベルバッグと愛剣『リラ』を手に取った。部屋はすでに新しい一日の光で満たされている。彼はベッドの前に跪く少年の肩にどっしりと重みのある手を置き、出発前の最後の一言を告げた。
リョウ:「信じている」
それだけを残し、リョウは背筋を伸ばして部屋を後にした。サムはその場に残り、まだ震えの収まらない両手をじっと見つめていたが、その瞳の奥には、かつてないほど強烈な炎が灯っていた。――リョウの信頼に報いるためなら、どんな代償を払ってでもこの任務を完遂してみせる。そう、心に誓いながら。
廊下を歩くリョウの手には、一つのトランクケースが握られていた。孤児院の外では、夜会の余韻を引きずるように、帰路につく貴族たちの豪華な馬車が次々とエンジン音や蹄の音を響かせ、各々の雇い主を待ち構えている。出口へと向かう通路の途中で、リョウは入り口の脇で書類の最終確認をしているカルラ修道女の姿をとらえた。
リョウは足取りを緩め、彼女の前に歩み出ると、かすかな笑みを浮かべて声をかける。
リョウ:「お世話になりました。出発します。……その前に、これを受け取ってほしい」
リョウは背中に背負っていた剣を外し、両手で丁寧にカルラへと差し出した。
リョウ:「この剣を、しばらくの間預かっていてほしい。すべての任務が終わり、戻ってくる時まで……頼めますか」
リョウは剣を捧げ持つようにして、深く頭を下げた。
その傍らには、誰にも見えないはずの『リラ』が静かに佇み、主人を見守っていた。リョウだけが視認し、その気配を感じ取ることができる彼女は、今はただ無言でこの一時的な別れを受け入れている。
カルラ修道女はリョウの真剣なまなざしを受け止めると、静かに頷き、その剣を両手でしっかりと受け取った。
カルラ修道女:「ええ、預かりましょう。あなたが再びここに戻ってくる日まで、私の手で大切に守っておくわ」
リョウ:「感謝する」
短い礼を述べると、リョウは再び歩き出し、孤児院の門の外へと足を踏み出した。背後からカルラの声が聞こえる。
カルラ修道女:「気をつけてね。あなたたちの旅路に加護があらんことを」
リョウは振り返ることなく、ただ背中越しに片手を軽く上げ、無言の返事とした。
外の敷地には、ユーフラテスの有力者たちの豪華絢爛な馬車が並んでいた。黒塗りの重厚な馬車の前で待ち構えるのは玄黒クロガネ。少し離れた場所では、アカリを従えた霞シオリの馬車が控えており、さらにその一角には、右腕の男を連れてケンゾウの登場を待つ徳川の姿もあった。そして、庭園の隅の最も目立たない場所に、無愛想な表情のままサムの現れを待つ裁判官ヒデオの姿がある。
新しくその身柄を引き渡された者たちの中で、リョウが最も早く外へと姿を現した。彼はそのまま迷うことなく、玄黒の待つ馬車へと歩み寄る。
リョウ:「準備はできた。出発しようか、大将」
玄黒は、フェドラハットの影からじっとリョウの全身を値踏みするように観察し、低く響く声で答えた。
玄黒クロガネ:「ああ。乗りな。屋敷に着いたら、お前に割り振る最初の仕事について詳しく説明してやる」
リョウ:「了解した」
運転席から飛び降りてきた使用人が慌ただしく馬車の扉を開けると、リョウは迷わず中に乗り込んだ。二頭の純白の軍馬に引かれたその車体は、ユーフラテスのトップ層だけに許された重厚な鉄と魔導装甲で固められており、外部の音を完全に遮断する気密性を誇っていた。重い扉が閉ざされ、馬車が滑らかに動き出す。
車内は、最初の数分間、まるで凍りついたような重い静寂に包まれていた。リョウは窓際の席に座り、外の風景を冷静な目で流していく。角を曲がったとき、窓の外に特徴的な紋章を掲げた巨大な建造物が視界をかすめた。
リョウ:「……ギルドか」
呟くような、誰にも聞こえないほどの小声だった。しかし、目の前で腕を組んでいた男はそれを聞き逃さなかった。玄黒はゆっくりと頭を巡らせ、静けさを切り裂くように、鋭い問いを投げかける。
玄黒クロガネ:「お前のことだ。俺がただの気まぐれな貴族崩れではないことくらい、乗車する前から気付いていたはずだな。政治的な権力争いに興味があるわけでも、道楽で子供を拾うような趣味もないことも、な」
リョウは視線を窓から外し、斜め向かいに座る巨漢を冷徹な瞳で捉えた。
リョウ:「隠す気のないその殺気と、体に染みついた軍特有の重心の取り方を見れば、普通の貴族でないことは一目瞭然だ。お前はピカピカの靴を履いたお飾り政治家でもなければ、ただの富豪の用心棒でもない……。その圧倒的な密度と隠しきれない魔力の残滓から察するに、お前の主戦場はもっと深い『闇の軍事組織』か、あるいはその中枢にあるはずだ」
玄黒の口元が、帽子の影の下でニヤリと歪んだ。その目の奥には、少年の恐るべき洞察力に対する純粋な称賛の色が宿る。
玄黒クロガネ:「相変わらず、よく切れるナイフのような思考回路だ。皮肉なことに、お前自身も無害な子供のフリをしながら、全く同じ目をしているがね」
前触れもなく、玄黒は右手を差し出した。それは、この交渉の場における一時的な「停戦と協定」を意味するジェスチャーだった。
玄黒クロガネ:「改めて挨拶しておこう。俺は玄黒クロガネ――セルペンテ村のギルドマスターであるジョセフの兄だ。お前に今回の任務を持ちかけ、裏で動いていたのはあいつの指示だがね。上の連中は、お前の正体が分からないまま単独で動かされることを極度に嫌がった。だからこそ、俺が直接お前を監視する役目を引き受けたというわけだ」
リョウはその差し出された手を取ることに躊躇しなかった。ガシリと握り締められた瞬間、その手の圧倒的な差が浮き彫りになる。幾多の修羅場をくぐり抜けた玄黒の手のひらは分厚い硬いタコに覆われており、リョウの手の二倍近い厚みと重みがあった。それは歴戦の古参兵と、知略に長けた若き異端児の圧倒的な格の違いを物語っていた。
リョウ:「リョウ・リコリス・サトだ」
偽名を淡々と告げながら、二人は手を離した。
玄黒はふっと鼻で笑い、近くの小机の上に置かれていた封印付きの極秘ファイルを指先で軽く叩く。
玄黒クロガネ:「『リョウ・リコリス・サト』ねぇ? ギルドの地下記録には『リョウ・ゼナク』という登録名で残っていたがな」
リョウ:「どちらも俺の使う名の一つに過ぎない。情報管理の徹底は、お互い様のはずだ」
玄黒は呆れたように息を吐き出すと、すぐに表情を引き締めて本題に戻った。
玄黒クロガネ:「もっともだ。お前の身元が徹底的に秘匿されているからこそ、上の連中も『野放しにはできない』と判断した。お前を俺の直属として監視下に置く理由としては十分すぎるだろう」
会話の裏で、リョウの脳内演算回路は猛烈な速度で情報を組み上げていた。
(リョウの思考:……あのレベルの最高機密ファイルや私的なコードネームにまでアクセスできる権限を持っているということは、彼のギルド内における地位はジョセフと同等、あるいはそれ以上の『最高指導者層』に属しているということだ)
リョウ:「互いの組織に不信感がある以上、監視下に置かれること自体に異議はない。お互いの利害が一致しているならそれで十分だ。……だが、一つ聞かせてもらうぞ、玄黒。ギルドという組織は、各都市に支部があり、それぞれにマスターが存在している。その頂点に君臨する者が誰であるかは想像がつく。……これほどの規模の組織を裏で動かし、莫大な利権とリスクを背負っているお前ほどの男が、なぜわざわざ個人的に俺の監視なんていう雑用を買って出た?」
車内の空気が、ほんのわずかにピリッと張り詰めた。




