「夜の終わりと新たな布石」第81話 ブロック4
沈黙が最初の一団を這うように伝っていった。富裕な商人たちや下位の貴族たちは、互いに探るような視線を交わしている。市内の最重要人物たち――軍の最高権力者、絶対的な権勢を誇る大領主、そして底知れぬ巨漢の男――が次々と欲しい駒をかっさらっていった後だ。最後に残ったこの少年を引き取るのは、多くの者にとって「残飯の片付け」のように映っていた。これ以上動いて無駄な面子を潰したくはないし、神経質そうに震えているだけの若者に政治的エネルギーや資金を割く者など誰もいなかった。
司法権力を司る官僚たちのための専用テーブル席で、一人の男がただ静かに座っていた。彼は手元のワイングラスの底を見つめたまま、微動だにしなかった。その手は驚くほど細く、節ばっている。
その男の名は、ヒデオ・タケナ。ユーフラテス市における筆頭裁判官にして、最高法務責任者だった。
ヒデオは軍人がまとうような仰々しい甲冑も、大商人たちが好む金糸で縫い取られた豪奢な布地もまとっていなかった。身にまとっていたのは、深い夜の海のような紺碧と重厚なチャコールグレーが混ざり合う、厳格な仕立ての法服だった。装飾こそないものの、大陸から輸入された最高級の羊毛が使われていることは一目でわかる。彼の顔立ちは刃物のように鋭く、口元の深いほうれい線が、長年不信と冷徹さの中に身を置いてきた男特有の気難しい雰囲気を形作っていた。ブリッジの細い銀縁眼鏡がその鷲鼻に引っかかり、レンズの向こうには小さく、冷たく、すべてを吟味するような目付きが隠されている。
その隣では、赤目を持ち、灰白色に黒が混じる髪をした若い裁判所の書記官が、肩に小さな蛇を乗せたまま、主の耳元へと顔を寄せ、いかにもお追従といったトーンで囁いた。
書記官:「タケナ様……お言葉ですが、これ以上余計な若者の食い扶持を増やす必要などございません。司法の記録保管は順調ですし、裁判所の個人補佐の予算も今四半期はすでにギリギリです」
ヒデオ・タケナは、部下に顔を向けることすらなかった。ただ、ゆっくりとした動作で、空いたグラスを木製のテーブルに置き、中指で眼鏡の位置を押し上げる。
ヒデオ・タケナ:「黙れ、バル。お前には何も見えておらん」
裁判官の声は乾燥しており、膨大な判例と深夜までの書類改定によって長年削り取られたような、湿り気のない響きを持っていた。彼の視線は、ステージの上でかろうじて背筋を伸ばし、周囲の貴族たちを伺うサムの足元に釘付けになっていた。
ヒデオ・タケナ:「あいつには貴族の傲慢さも、軍人どもが放つ野蛮な血の臭いもない。周囲の空気を恐れ、まるで主人の前にひざまずく飼い犬のように身を縮こまらせている。だが、注目を集めようともしていない。……あの、誰にも気づかれない『無音の空間』こそが、私の私文書室には必要なのだ」
前触れもなく、ヒデオがスッと立ち上がった。
石造りの床を重い木製の椅子が引きずる不快な音が、周囲の雑音を一瞬でかき消した。近隣のテーブルに座っていた貴族たちは、普段なら彼らが心の底から嫌悪し、近寄らないはずの「ユーフラテスで最も融通の利かない役人」がこんなチャリティの場で動き出したことに気づき、息を呑んで硬直した。
ヒデオは背筋を伸ばし、両手を背中で組みながら、一定の歩幅でステージへ向けて歩き出した。その後ろを、若い書記官のバルが慌てた様子で従う。夜色の法服の裾が、歩くたびに床をかすめる音だけが響いていた。
ステージの前に立つと、ヒデオはカルラ修道女を見上げ、感情の抜けた声で告げた。
ヒデオ・タケナ:「ユーフラテス最高司法府が、この少年の身柄を引き取る」
カルラ修道女は驚く様子もなく、優雅に首をかしげた。
カルラ修道女:「タケナ様……これは光栄です。どのような役職として、この子を配属されるおつもりで?」
ヒデオは再びサムを凝視した。少年は目を逸らすことなく、裁判官の冷徹な視線を真正面から受け止めている。その瞳に宿るわずかな緊張の裏で、覚悟が決まっていることを見抜いたように、ヒデオは言い放った。
ヒデオ・タケナ:「司法府の『記録補助官』および『三等書記生』だ。私が求めているのは、剣を振り回すだけの兵士でもなければ、宴会で茶を運ぶだけの玩具でもない。密かな目配りができ、膨大な書類の写しを正確にこなす器用な手と、裁判の裏で交わされる機密について決して口を開かない『完全な沈黙』を持つ者だ」
その選択を聞いた背後の書記官バルは、信じられないものを見る目で目をひきむき、思わず声を荒げた。
バル:「なっ……! 司法長官、正気ですか!? 中央文書室へのアクセス権には市役所からの厳格な身分証明が必要です。身元の知れない孤児にそんな権限を……」
遠く離れた場所から、アカリたちの傍らに控えていたリュウは、その少年の声を聞いた瞬間に微かに首を巡らせた。彼の目に驚きの色はない。ただ、目の前の状況を冷徹にハッキングするように解析しているだけだった。
リュウ:「……あの声は」
ヒデオは、背後で騒ぐ部下に一瞥すらもくれず、凍てつくような冷気を含んだ一声でその言葉を遮断した。
ヒデオ・タケナ:「この市のセキュリティ証明は、私自身だ。この少年は私に直属する。私だけに忠誠を誓う。無能であると判明すれば、翌日には路頭に迷わせてやる。逆に有能さを示すなら、年の暮れを迎える前に私の執務室の机を与えよう」
裁判官は法服の懐から、市司法の「天秤」が刻まれた赤い刻印の蝋をとりだし、カルラに向かって突き出した。
ヒデオ・タケナ:「今すぐ譲渡の書類を用意してくれ、修道女。明日の一番には、あいつを司法宮殿の自分の部屋に座らせる。無駄な手続きに時間を割いている暇はない」
カルラ修道女:「承知いたしました、タケナ様。会合の終了後に、市の立会人のもとで正式な署名を行いましょう。夜が明けるのを待たずとも、今夜のうちに連れて行って構いませんよ」
ヒデオは機械的に頷き、作り笑いすらうかべなかった。その場を去る前、彼はサムの目の前でぴたりと足を止めた。二人の距離は一メートルもない。身長差はあるものの、二人が交わした視線の重みは、周囲のどんな貴族の圧力をも凌駕していた。
ヒデオ・タケナ:「明日、朝の六時から基礎法典の暗唱を始める。結果を出せないなら、その日のうちに港の荷運び人として放り出すぞ。……覚悟はいいか?」
サムは息を詰まらせたが、声の震えを必死に押し殺し、真っ直ぐに返した。
サム:「覚悟はできております、タケナ様。必ずや期待に応えてみせます」
ヒデオの眼鏡の奥で、わずかに光が反射した。不敵とも称賛ともつかない、だが確かに認め合うような熱がその瞳に走ったが、口元は相変わらず厳格に引き結ばれていた。
ヒデオ・タケナ:「お前の熱意などどうでもいい。必要なのは結果だけだ。……夜明けに、宮殿の執務室で待っている」
それ以上の一言も残さず、ヒデオは踵を返した。若い書記官のバルは慌ててその後を追いかける。
群衆のざわめきから少し離れた場所で、リュウはその一部始終を静かに見つめていた。頭の中で、パズルのピースが完璧にかみ合っていく感触があった。計画は大きく歪められたが、結果として最高の形で手駒が収まるべき場所に収まった。サムが目的の人物に拾われたのだ。
リュウ:「(完璧だ……)」
リュウの黒い瞳の奥で、冷たい光が明滅する。
リュウ:「(ヒデオ・タケナという傲慢な官僚。あいつがサムを記録係として取り込んだことで、私たちはこの街のあらゆる『裏の契約書』に直結する鍵を手に入れた。どこの役人が買収され、富美子・日野がどのルートで私財を肥やし、主水や最高顧問がどんな逮捕状に署名しているか……そして、この街の最高権力者である市長が今どこで何を企んでいるのか。すべてが、あの文書室の奥に眠っている)」
最初の潜入計画は原型をとどめないほどに壊されたが、ユーフラテスのチェス盤において、リョウ側の駒は敵陣の心臓部へと見事に潜り込むことに成功していた。
だが、ふとリュウは視線をずらし、裁判官の後を追う書記官のバル……正確には、その少年の肩に巻きついている小さな蛇のほうへと目を細めた。その蛇の瞳もまた、まるでリュウの存在を見透かすようにじっとこちらを見つめ返していた。
やがて、すべての公式な選抜が終わりを迎えた。
カルラ修道女はテーブルの上から一脚のワイングラスを持ち上げ、高々と掲げると、会場の全員に向けて晴れやかな笑みを向けた。
カルラ:「これにて、本日の選抜会はすべて終了いたしました。さあ皆様、堅苦しい話はここまでです! 夜が明けるまで、思う存分食べて、飲んで、この夜会を楽しんでくださいませ。――乾杯!」
会場を埋める貴族や名士たちが一斉にグラスを掲げ、澄んだガラスのぶつかり合う音が庭園の隅々にまで響き渡った。
貴族たち:「「「乾杯――!!」」」
その瞬間から、夜会は本当の意味で「宴」としての熱を帯び始めた。グラスはすぐに新しい酒で満たされ、豪勢な皿が並べられ、音楽が空間を包み込み、貴族たちは我先にと政治的駆け引きや社交の噂話に花を咲かせていく。
だが、その華やかな喧騒から切り離された、孤児院本館の最も冷たく暗い屋根の上では、全く異なる時間の流れが存在していた。
夜風が吹き抜ける尖ったタイルの上に、気配を完全に消した本物のリョウが静かに腰を下ろしていた。彼の分身である「影のクローン」が下で人間たちの群れに溶け込んでいる間、リョウの傍らには、どこか現実離れした気配を漂わせるパンドラが佇み、階下の盛大な祝宴を見下ろしていた。
リョウは薄い笑みを口元に浮かべ、グラスのない手で自分の顎を軽く叩きながら、満足げに呟いた。
リョウ:「まあ、結果オーライってやつだな。ただ見学に来ただけのつもりが、予想以上に楽しませてもらった。このゲーム、まだまだ先が長そうだ……だが、チェックメイトへの道筋はすでに引かれた。私たちが正しく駒を動かせば、負ける要素なんてない。……お前は怎麼思う、パンドラ?」
夜の闇に溶け込むような姿のまま、パンドラは静かで落ち着き払った声で答えた。
パンドラ:「その通りね、リョウ。どんなに優れた人間でも、焦りは戦略の目を曇らせる。私たちには『時間』と『忍耐』という最強の武器があるわ。この街の王冠を奪うのは、私たちよ」
リョウ:「ああ、その通りだ。……さて、長居は無用だな。そろそろ帰って、本格的に奴らの『女王』を詰みに行くとしようか」
音もなく、リョウとパンドラは夜の闇の中へとその姿を消していった。
贅沢な料理と偽りの笑い声に満ちたユーフラテスの孤児院の裏庭。誰もが自分たちが勝者であると信じて疑わないその愚かな祝宴の裏で、静かに、しかし確実に、街の支配権を賭けた本当の戦いが始まろうとしていた。




