「六本の腕(セイ・ブラッチア)」第74話 ブロック4
とっぷりと日が暮れ、新しく修繕されたばかりの小屋の中は、オイルランプの柔らかな光に包まれて、どこか落ち着いた薄暗い空間を作り出していた。主室の隅では、パンドラが古びた木製の樽のそばに立ち、その中身を丁寧に確認しながら、備えの状態を確かめるように静かにかき混ぜていた。
キッチンの方からは、パチパチと弾ける火の音と、絶え間なくお湯が沸騰する気泡の音が空間を支配していた。リョウはコンロの前に立ち、子供の体躯とは思えないほどの滑らかさと正確な手つきで立ち回っていた。
脇の石造りの台の上では、補強された木の鍋がことことと静かに煮えている。白く濃厚なスープの中では新鮮な野菜がいくつも表面に浮かび、木の蓋は蒸気が勢いよく逃げるように少しだけずらされて、泡が縁からあふれ出ないよう調整されていた。
リョウは左手にフライパンを構え、木べらを握った右手でリズミカルかつ素早い手さばきを見せる。
オムライスの調理には妥協のない技術が必要だった。リョウはボウルの中で卵を一定の速度で溶きほぐし、乳化を崩さない絶妙なタイミングで空気を含ませていた。あらかじめ油を引いて適温に熱したフライパンにその液を流し込むと、卵は瞬く間に縁から固まり始める。手首を的確かつ力強く返しながら、外側の固まった層を中央へと寄せ集め、中の半熟な液体を左右へと流し込んでいく。そして一気に、完璧なタイミングでオムレツの形に折り畳み、外側はふんわりと包まれながらも、中はとろりとした半液体状の極上の仕上がりにまとめ上げた。
焼き上がると、彼は四つの器を用意した。深皿二枚と平皿二枚だ。
木のレードルを手に取り、一滴こぼすこともなくギリギリの容量までスープを深皿に注ぎ分ける。続いて平皿には厚切りのトーストを置き、プロの料理人さながらの鮮やかな手並みで、その上に黄金色のオムレツをそっと乗せた。
細身のナイフを取り出し、オムレツの中心をすっとまっすぐに切り裂く。
瞬間、ふわっと芳醇な湯気が立ち上り、中から溢れ出した艶やかで濃厚な卵の黄身が、下のトーストのパン生地へとたっぷりと染み込んでいった。
二皿目も同じ狂いのない正確さで仕上げる。スープが蒸発して焦げ付かないよう即座に火を止め、清潔な布巾で調理台を拭き上げてピカピカに磨き上げると、料理を木のテーブルへと運び、腰を下ろした。
少しして、パンドラが小さな樽を抱えてテーブルに歩み寄り、穏やかな視線をリョウに向けた。
パンドラ:「ワインがありますわ。召し上がりますか?」
リョウ:「アル中じゃねえよ……だが、一杯くらいなら悪くないな」
パンドラは濃い紫がかったワインを磨き上げられた木製のグラスに二つ注ぎ、彼の隣の席に座った。スプーンを持ち上げ、まずは野菜スープを一口味わってから、トーストにしみ込んだオムレツの切れ端を口プに運ぶ。数秒間その味を堪能すると、彼女の瞳に本物の歓喜の輝きが宿った。
パンドラ:「美味しいですわ、リョウ様……相変わらず、昔と変わらず一流の腕前ですわね」
リョウ:「まあ、昔は生きるために料理を覚えるしかなかったからな……もっとも、大して難しいもんでもないが。それより俺がずっと飲みたいと思ってるのはレモン入りのアグアペラなんだが、この世の中にパネラみたいな黒糖の塊があるのかどうか、まだ調べてすらいないんだよな」
パンドラ:「あら、アグアペラはコロンビアの定番ですものね。日本や西洋の文化ではあまり見かけませんけれど、本当に美味しい飲み物ですわ」
リョウ:「まぁ、今はこれで十分楽しむとしようぜ」
二人は静寂に包まれた穏やかな空気の中で夕食を続けた。その光景の裏には、一つの圧倒的な事実が隠されていた。リョウの料理の腕前は、ただの日本国内の郷土料理にとどまらない。その知識は国際的な食文化の隅々まで網羅されており、経験を積んだプロの冷徹な技術によって完璧に再現されていた。
しばらくして、パンドラは太い毛先の箒を手に取り、改装工事のあとに残った細かな埃を掃き集めていた。一方のリョウはキッチンの流し台の前に立ち、食器を洗っている。盥の中で水がちゃぷちゃぷと揺れる音と、床板を箒がこするリズミカルな音だけが、薄暗い室内の静けさを破っていた。それ以外は完全な静寂――他人からすれば居心地の悪さを覚えるほどの重く濃い沈黙だったが、二人にとってはそれが最も日常的な空気だった。
リョウは伝統的かつ効果的な方法で皿を洗っていた。温水に木の灰を細かく混ぜ合わせた盥に食器を浸し、その自然なアルカリ成分でオムレツの油分をいとも簡単に浮かして落としていく。そして皿を取り出すと、綺麗な水を満たした二つ目の容器ですすぎ、灰の残留物を一切残さずピカピカに磨き上げる。
だが、二枚目の平皿を洗い終えようとしたその時、彼の手がぴたりと止まった。即席で作ったスポンジが、白い磁器の上で半月を描いたまま動きを失う。
冷徹で計算高い瞳がゆっくりと前方を捉え、木造の壁板へと向けられた。数センチほど右側には、夜の冷え込みですでに薄っすらと曇り始めたガラス窓がある。視線を壁から外さぬまま、リョウは低く、間を置きながら淡々と呟いた。
リョウ:「1.0.4――9.1……」
次の瞬間、彼の右手はすぐ隣の木製引き出しへと伸びた。流れるような動作でそれを引き出すと、スプーンやフォークの隙間に置かれていた金属製の肉切り包丁を掴み取る。柄を握りしめたまま、その刃先を灰の混じった盥の水へと向けた。一見すれば、洗い残しがあった包丁を再び水につけようとしているだけの、何の変哲もない自然な仕草にしか見えない。
だが、その切っ先が水面に触れるコンマ数秒前、リョウの手首と肩が爆発的な回転を描いた。
包丁は高速の弾丸のように窓めがけて射出され、ガラスを千片に粉砕しながら闇夜へと突き抜けた。その一ミリ秒後、外の暗がりから押し殺されたような、引き裂かれるような苦悶の声が響いた。
闇の声:「——アグッ……!」
右足を地面に強く踏み込んで推進力を生み出すやいなや、リョウは声を張り上げた。
リョウ:「――今だッ!」
猛烈なスプリントで玄関の扉へと飛び出す。パンドラも寸分違わぬタイミングで箒を放り捨て、彼の背を追って跳び出した。二人は閾値を飛び越え、闇夜を引き裂きながら、包丁が消えていった森の奥へ向かって全速力で突進した。
林の最初の木に差し掛かった時、リョウは深い樹皮に突き刺さり、ドロリとした生血にまみれたナイフの刃を視認した。足を緩めることなく突き出た岩を蹴り台にして跳躍し、空中で幹からナイフを引き抜くと、そのまま着地して疾走を続ける。
パンドラも同じ歩幅を保って並走する。リョウは一切の猶予を許さない絶対的なトーンで命じた。
リョウ:「飛べ! 奴の位置を捉えて迎撃ルートを割り出せ!」
パンドラ:「御意に!」
反応は瞬時のことだった。彼女の背中から暗色の膜を持つ巨大なコウモリの翼――かつて黄金の洞窟で展開したそれと同じ翼が激しく広がり、枯れ葉や泥を巻き上げるほどの強烈な羽ばたきと共に、夜空へと舞い上がった。
その瞬間、大気が崩壊した。森の上空に突如として猛烈な嵐が襲いかかった。凄まじい勢いで雨が叩きつけ、低く腹に響く雷鳴と、木々の梢を不気味に照らし出す白い閃光が周囲を焦がしていく。
風のうねりと水塊に抗いながら空中で翼を羽ばたかせ、パンドラは眼下の地形を見据えて、轟音をかき消すように叫んだ。
パンドラ:「前方におります! 方位二二〇、距離二百メートル! 南東へ向かって左へ旋回中。左の側面から回り込んで包囲なさい!」
リョウは身を屈め、急激に左へと身を切った。雨でぬかるんだ森の地面は足元を狂わせる凶器と化し、きついカーブではブーツがわずかに滑ったが、極限の身体能力でバランスをねじ伏せていく。
上空の視点から、パンドラは逃走する獲物から目を離さないよう必死に位置を維持した。雨のカーテンの向こうに、白く剥き出しのような肌を持つ異形の影が浮かび上がるのが見える。だが嵐の激しさが視界を奪い、細部までは捉えられない。はっきりしているのは、その化け物が常軌を逸した速度で遠ざかっているということだけだった。
パンドラは敵の進路の先にある地形の歪みを見つけ、間髪入れずに二度目の警告を飛ばした。
パンドラ:「この先に滝があります! 崖に追い詰められたら逃げられますわ!」
リョウは視線を上げようとしたが、容赦なく叩きつける雨粒が目を撃ち、細めざるを得ない。それでも歩調を緩めることなく、冷酷かつ絶対的な命令を下した。
リョウ:「追いついて足を止めろ! すぐに追いつく。時間を稼げ、絶対に逃がすな!」
パンドラは翼の角度を微調整し、嵐を切り裂いて急降下し、低い雲の間に消え去る間際に力強く応じた。
パンドラ:「仰せの通りに」
リョウは木々の間を縫うように歩幅を合わせながら、己に言い聞かせるように呟いた。
リョウ:(こんな奴らに見張られたり、俺の存在を嗅ぎ回られたりしてたまるか。計画が狂っちまえば、リュウの潜入が台無しになる……!)
最高速度での疾走を続ける。真っ白だったスニーカーはすでに泥だらけだ。視界を確保するためにツバ付きの帽子はとっくに脱ぎ捨てており、身に纏っているのは嵐の雨ですっかり濡れそぼち、身体にぴったりと張り付いた黒のコンプレッションシャツだけだった。濡れた前髪が額に貼り付き、顔中を雨水が伝い落ちていたが、彼の双眸はただ一点を射抜くように前を見据えていた。
その頃、パンドラはついにその怪物を捉えていた。猛々しい羽ばたきとともに空から急降下し、そやつの進路の真ん中にドンと着地して、完全に道を塞ぎ、無理やり足を止めさせた。
次に走った稲妻の光の下で、その生物の悍ましい姿が完全に暴き出された。それはかつてリュウが洞窟で見つけた個体と瓜二つだった。六本の異常に細長く発達した腕、骨と皮だけの瘦せ衰えた胴体。顔には鼻も通常の口もなく、ただまぶたのない巨大な単眼が一つ鎮座している。本当の口は首元から下腹部にかけて垂直に大きく裂けた縦長の顎であり、その中には無数の歯がびっしりと並んでいた。皮膚は死人のような不気味な白さだった。
パンドラは冷ややかな目でそれを見下ろし、告げた。
パンドラ:「残念ですが、これ以上は通しませんわ」
怪物は一本目の左上の腕で、先ほどナイフが直撃した肩のあたりをかばっていた。それはただの浅い切り傷ではなく、えぐり取られたような深い裂傷だった。木から逃れるために、自らの肉を引き裂いて刃を置き去りにしてきたのだ。
怪物はその唯一の目をパンドラに向けた。次の瞬間、六本の腕を一斉に伸ばし、それぞれの指先にある刃物のように鋭い爪を剥き出しにする。腹部の縦に裂けた恐ろしい口を開け、彼女めがけて猛然と突進してきた。
だが、その爪が彼女の髪の一筋すら掠めるより早く、雨のカーテンを切り裂いて一筋の影が飛び込んできた。
左側面からの疾走の勢いそのままに、リョウは怪物の脇腹――人間の構造で言えば腎臓の位置にあたる箇所へナイフを深く突き立てた。そして即座に、乾いた引き抜きざまに刃を回収する。高速の衝撃と横方向からの強烈な押し込みにより、怪物はバランスを崩して右側へ大きくよろめき、苦悶の叫び声を上げた。
怪物:「——アグッ……!」
リョウは一連の流れるような動きを一切止めず、冷やそぼったい、嘲笑うようなトーンで吐き捨てた。
リョウ:「この鉄屑、大事に持ってろよ、ブラザー」
体勢を崩した怪物の懐へと短いスプリントで一気に詰め寄る。刃先を天に向けたままのナイフを、その巨大な単眼の中心へと一息に突き刺した。
怪物は雷鳴をも切り裂くような凄まじい絶叫を上げた。
怪物:「——アグアアアアアアッ……!!!」
リョウには、この化け物に慈悲も興味のかけらもなかった。その異様な解剖学的特徴を見ただけで、言葉を交わすような発声器官や言語構造など持っていないことは明白であり、尋問の道具としては完全な無価値だと一瞬で見抜いていたからだ。
コンマ一秒の遅延もなく、リョウは手首を返して上方向へ刃を跳ね上げた。空を向いた刃先は肉と頭蓋骨を紙のように容易く切り裂き、怪物の頭部を縦真っ二つに両断した。
頭頂部から刃がすっきりと抜けた瞬間、怪物はぐにゃりと泥の中へ崩れ落ちた。頭がぱっくりと割れた状態で地面に伸び、脳漿の代わりにドロドロとした濃い粘液と、人間のものと酷似しながらも歪に拡大された眼球の生々しい構造がむき出しになっていた。
黒ずんだ血が噴き出し、地面を流れる雨水に瞬く間に溶けていく。即死だったが、神経の反射によるものか、肉体はしばらく痙攣を繰り返したのち、やがて完全に動かなくなった。




