「新しい隠れ家」第4章 第72話
投稿の前に一つお知らせがあります。今後の話数のナンバリング方法を変更し、今回を「第72話」として今後も連続した通し番号で継続していきます。
また、「ブロック」という単位についてですが、これは巻 ボリューム のような区切りのことです。一つのブロック =一つの部や の中に、それぞれ複数のエピソードが収録される仕組みとなっています。
リョウとパンドラは、鬱蒼と繁る森の中を確かな足取りで進んでいた。濃い葉を茂らせた木々が小道を見守るように立ち並び、柔らかな風が吹き抜けるたび、頭上の梢から乾燥した葉が舞い散り、芝生や湿った土の上へと静かに降り積もる。急ぐ様子はなかったが、その歩みは常に一定で無駄がなかった。
十分ほど歩いたところで木々が途切れ、小さな開けた空間にぽつんと佇む古びた建造物が姿を現した。それは濃い茶色の木造小屋で、その荒れ果てた外観は容赦なく過ぎ去った時間の長さを物語っていた。
リョウは数メートル手前でピタリと足を止め、無言でその建物を観察すると、いつもの冷ややかな調子で呟いた。
リョウ:「……着いたな、やっとだ」
◆
数時間前――。
街の商業区の喧騒が周囲に響き渡っていた。リョウとパンドラが足を踏み入れたのは、地域の不動産物件や契約書を管理する不動産登記所だった。多額の現金を持った子供が一人で旅をしていると疑われないよう、パンドラはリョウの手を優しく握り、息子に付き添う完璧な母親を装っていた。
磨き上げられた木のカウンターの向こう側で、長い金髪を結った若い女性職員が二人の接近に気づき、ビジネスライクな笑顔を向けた。
受付:「いらっしゃいませ。何かお探しの物件でしょうか?」
パンドラは上品に首をかしげ、優しくも揺るぎない声で答えた。
パンドラ:「こんにちは。はい、家を購入したいのです。……できれば、ご用意できる中で一番安いものを。予算は金貨二枚未満でお願いできますかしら」
金髪の職員は驚いたようにパチパチとまばたきをした。この地域で不動産を取得するにははるかに高額な資金が必要であり、このような低予算の要望は極めて異例だった。
受付:「ええと……何か条件に合うものがあるか、お調べしますね」
女性職員は身をかがめ、何重にも積み上げられた書類や羊皮紙の束をめくり始めた。古くからの台帳をめくる紙の音が事務所内にしばらく響き渡る。やがて、彼女の手が黄色みがかった一枚の古い用紙で止まった。
受付:「見つかりました。街の郊外に一軒、古い小屋があります。かなり年季が入っていますが、間違いなくうちで一番安い物件です。お値段はちょうど金貨一枚と銀貨百枚ですが……いかがなさいますか?」
パンドラ:「ええ、構いません。それを購入します」
職員は公式な契約書を引っ張り出し、パンドラの前に滑らせると、黒インクを含んだペンをその脇に置いた。
受付:「では、こちらにお名前をご署名ください」
パンドラは優雅にペンを手に取り、迷いのない確かな筆致で羊皮紙にサインを走らせた。
パンドラ:「パンドラ・アク(Pandora Aku)」
職員はその書類を受け取ると文字の細部を確認し、顔を上げて念を押した。
受付:「パンドラ・アク様で間違いないでしょうか?」
パンドラ:「はい、その通りです」
受付:「かしこまりました。代金は先ほどお伝えした金額になります」
パンドラは懐から革製の小銭袋を取り出し、受付の女性へと手渡した。彼女が袋を開けて中身を確認すると、中から眩い金貨が一枚、そして残りはすべてずっしりとした銀貨だった。職員はそれらを取り出し、テーブルの上で一枚一枚丁寧に数え上げていく。
少しして、すべての金額に過不足がないことを確認すると、職員は微笑みを浮かべて代金をカウンターの下にしまった。
受付:「手続きはすべて完了いたしました。こちらをお受け取りください」
彼女はパンドラに詳細な地域地図を手渡した。紙の上には街の道路が精密に描き出されており、事務所から郊外の地図の端に記された赤い印へと向かう青いルートが引かれていた。
受付:「この地図があれば迷わず行けると思います」
パンドラ:「ご丁寧にどうも」
羊皮紙をしまい込むと、パンドラは再びリョウの手を取り、誰の注意も引くことなくその場を立ち去った。
◆
現在に話を戻す――。
二人は目の前にそびえる建物の前に立ち、今自分たちが手に入れた物件の現実的な状態を見極めていた。一見して、外壁の木材はささくれ立ち、主壁や屋根の瓦にはいくつもの穴が空いているのが見て取れる。だが、建物の脇には適度な広さの敷地が広がっており、手入れをすれば庭や菜園として十分に活用できそうだった。
リョウは一歩前に歩み出て、傷んだファサードを冷徹に分析するように腕を組んだ。
リョウ:「正直言って、崩れかけだな。ここまで状態が悪いとは思わなかった」
パンドラ:「まあ、他に選択肢はありませんでしたからね?」
リョウ:「無駄に法外な金を使えば、調査が入って逮捕される。いくら金を持っているからといって、理由もなく大豪邸なんて買えるわけがない。目立つのは得策じゃない」
パンドラ:「それは残念ですわね……となると、少し修繕が必要ですね。幸い、隣に畑にできるスペースがありますから、自給自足の足しにはなりそうですけれど」
リョウ:「それはそうだな。……で、室内はどうなっている」
リョウは手を伸ばして木製のドアノブを掴み、正面の扉を押し開けた。内部は薄暗く、外から差し込む微かな太陽の光が、埃に覆われた床や古い家具のシルエットをゆっくりと浮かび上がらせていながらも、奥の暗がりは依然として深く沈んでいた。
その時、片隅で何か小さな影が素早く動いた。
リョウはその方向へ視線を固定する。目を細め、息を潜めたまま数秒間じっと見つめた。その小動物か何かは再び動き出し、開け放たれたドアから差し込む光の帯を横切って、その全貌を完全に露わにした。
それは、人間の手のひらの中心を軽々と超えるほどの大きさを誇る、巨大なゴキブリだった。
それを見た瞬間、リョウは目をカッと見開いた。頭のてっぺんから足の先まで氷水が流れ落ちたような悪寒が走り、心臓が激しく脈打つ。彼の纏っていた「冷酷で計算高く無表情な少年」という仮面が一瞬で粉々に砕け散った。彼は勢いよく半身を翻すと、わずかに足をもつれさせながら小屋の外の芝生へと飛び出すように逃げ出した。
リョウ:「嘘だろ……誰か害虫駆除業者を呼べっ!」
その表情には隠しようのないパニックが浮かんでいた。冷酷な戦略を立案し、強大な怪物たちと渡り合ってきた者が、たった一匹の昆虫に対してこれほど凄まじい恐怖心を抱くという事実は、なんとも皮肉であり強烈だった。
外で控えていたパンドラは、主人の必死の逃走劇を目撃し、喉の奥でかすかな音を漏らした。
パンドラ:「まあ……確認してまいりますわ」
パンドラは優雅な足取りで敷居を跨ぎ、床を這うゴキブリに視線を落とした。だがその直後、彼女の頭上でカチカチという連続した奇怪な音が鳴り響いた。天井の梁へと視線を移すと、そこには一匹どころか、数十匹を超える巨大なゴキブリたちが暗がりの中でうごめいていた。
彼女は一切動じることなく視線を戻し、出口へと引き返すと、少し離れた場所で身構えているリョウを見つめた。
パンドラ:「私の方で片付けておきますね」
リョウ:「あぁ……頼む」
パンドラは再び室内へ戻り、背後で木製の扉をしっかりと閉ざした。薄暗い静寂の中、従者はその建物の徹底的な消毒と解体級の修繕作業へと取り掛かるのだった。
◆
その頃――。
リュウ、サム、ケンゾウ、アカリ、そしてシスターのカルラの一行は、一基のランプの明かりだけが頼りの薄暗い部屋の中に集まっていた。リュウはベッドのマットレスの上で足を組み、背筋をピンと伸ばした姿勢を崩さない。その隣ではサムが同じように胡乱な格好で座り込み、アカリはそのすぐそばに腰を下ろしていた。対面する小さな木製のテーブルの脇にはケンゾウが椅子に座り、シスターのカルラは壁際に立ったまま静かにグループを見守っている。
沈黙を破ったのはリュウだった。
リュウ:「よし、これからの計画を説明する」
ケンゾウ:「今回の任務は、あまり厄介じゃないといいんだがな……」
サム:「本当にそうだよ。最近色々ありすぎて、まともに休めてない気がするもん」
アカリは口を挟まず、リーダーの示す方針を待つように仲間の反応を見つめていた。
リュウ:「計画と任務の概要はこうだ。我々の目的は、この街の市長の救出。ギルドの調査によれば、彼の地位は現在何者かに乗っ取りを受け、その生命すらも危険にさらされているという。だから安全な場所へと引きずり出す必要がある。我々の役割は、それぞれの拠点に潜入し、堂々と『日常の労働者』として働きながら情報を収集することだ。要するに、潜入・偵察・隠密調査、そして救出を組み合わせた複合作戦となる」
ケンゾウは眉間にしわを寄せ、明らかな疑問を口にして遮った。
ケンゾウ:「待てよ……どうやってそんな風に潜入して、怪しまれずに情報を集めるんだ?」
アカリ:「それってすごく危険で無謀じゃありませんか? もし見つかったら、後ろ盾なんてどこにもないんですよ」
リュウは平然と片手を軽く挙げ、計算された落ち着きで場の空気を制した。
リュウ:「やり方はシンプルだ。使用人や雑役係といった、誰も気に留めない『底辺のポジション』として入り込む。貴族連中は、床を磨いたり飯を運んだりするような人間を警戒しない。だからこそ、彼女が君たちに声をかけたんだろう?」
リュウは視線をシスターのカルラへと向けた。修道女は軽やかに微笑み、少年の優れた洞察力に密かな感心を抱いた様子で頷いた。ええ、その通りですわ。
カルラ:「ええ、その通りです。私の役目は連絡係として、貴族や警備兵の目を盗んで彼らの屋敷へ安全に入り込む手引きをすることですので」
リュウ:「カルラさんが入り口を用意してくれる。貴族や他の使用人から見れば、僕たちは行くあてのない身寄りのない子供か、取るに足らない下働きにしか見えない。その『社会的透明性(不可視性)』こそが、警戒されずに動き回り、上層部で何が起きているのかの機密情報をかき集める最大の武器になる」
ケンゾウは戦略的な物流の面を数秒間頭の中でシミュレーションし、再び問いかけた。
ケンゾウ:「だが、全員が同じ屋敷に潜入するなんて愚策じゃないのか? 一人がボロを出したら全員終わるだろ。別々の貴族の屋敷や、違う職種に分かれたほうがよっぽど安全のはずだ」
リュウ:「それについてもすでに考慮してある。各々の配置場所はあらかじめ割り振ってある。サム、君は街の判事の屋敷に潜入してもらう。与えられる仕事に応じて、掃除係、給仕、あるいは雑用係として動け」
サム:「了解! 言われた通りにやるよ」
リュウは顔をテーブルの別の方向へと向けた。
リュウ:「ケンゾウ、君は軍の警備隊長の邸宅へ潜入しろ。サムと同じく、下働きとして任された雑用を確実にこなすんだ」
ケンゾウ:「問題ない、任せとけ」
次にリュウの冷たい瞳が、隣に座る少女へと向けられた。
リュウ:「アカリ、君には街の財務官の屋敷に行ってもらう。そこから資金がどう動いているのか、どの帳簿が改ざんされ、不審な資金がどこに流れているのかを暴いてくれ」
アカリ:「わかりました、財務の記録を徹底的に洗ってみます」
リュウ:「そして俺自身は、主席顧問官の屋敷へ潜入する。この作戦の核心は、日々の労働に全力を尽くすことだ。有能で従順な使用人として振る舞い、上層部からの信頼を勝ち取れば、やがて私室や機密文書、そして密談の行われる部屋へのアクセスが自然と開かれる」
アカリはわずかに眉をひそめ、至極真っ当な懸念をぶつけた。
アカリ:「でも、みんなバラバラの屋敷に潜入したら……集めた情報をどうやって共有するんですか? 誰にも気づかれないように連絡を取り合う方法なんてあるんですか?」
リュウ:「簡単なことだ。基本的にどの屋敷も週に一度の休日――この街では日曜日にそれが与えられる。その日に集まって、収集した情報をすり合わせればいい」
サム:「もし僕たちの誰かが市長を見つけたり、どこかの屋敷に監禁されているのを確認したら……どうするの? すぐに救出に向かうべき?」
リュウ:「まさか、そんなことをすれば最悪の悪手だ。もし市長の居場所を突き止めても、単独行動で動くな。次の定期集会でまず報告しろ。場当たり的な救出劇は、他のメンバーの潜入工作すべてを水の泡にする。四つの屋敷の全構造と脱出ルートの地図が完全に揃うまで、絶対に手出しはしない」
ケンゾウはゆっくりと頷き、その冷徹なまでの戦略的合理性に納得の表情を浮かべた。
ケンゾウ:「ふむ……骨が折れそうな任務だが、何しろ情報集めが肝心ってわけか。これには相当時間がかかりそうだな」
リュウ:「正確な期間は断言できない。数ヶ月かかる可能性もある。だが、今は目の前の任務に集中しろ」
そのタイミングで、カルラが自らの役割について口を開いた。
カルラ:「私が各屋敷の雇用主たちと交渉をつけ、スムーズに潜入できるように手はずを整えておきますね」
リュウは話をまとめると、全員に向けて宣告するように告げた。
リュウ:「そういうことだ。現地に潜り込んだら、あとは各自の力量次第となる。決して無茶な真似はするな」
子どもたちはそれぞれの席から立ち上がり、出口へと向かい始めたが、部屋を出る直前に全員が声を揃えて答えた。
全員:「――了解!」




