「水上都市ユーフラテス」第3章 第9話(第2パート)
浴室の内装は広々としており、非常に通気性が良かった。先客が使った水蒸気はすでに散り、脱衣場にはラベンダー石鹸の爽やかな香りが漂っていた。サムは壁の木製棚へ直行すると、丁寧に畳まれた白いタオルを一枚手に取り、そのままシャワーブースの一つへと向かった。ケンゾウも隣のブースへ入る。
勢いよくお湯が床を叩く音と、ご機嫌に鼻歌を口ずさむサムの声が響き渡った。一方のケンゾウは、疲弊した筋肉に染みわたる温水に、心底気持ちよさそうなため息を漏らした。
ケンゾウ:「あぁぁ……マジで生き返るぜ。サム、お前が歌ってるそれ、何の曲だ?」
サム:「これ? 今思いつきで作った歌だよ」
ケンゾウ:「お前らしいな。相変わらず能天気というか、陽気だな。風呂に入ってる時までさ」
サム:「へへへ……まあね。でも僕がこうなったのは、どこかリョウのおかげかもな」
ケンゾウ:「どういう意味だ?」
サム:「リョウってさ、めったに笑わないでしょ? たまに笑っても、周りに合わせるために作ってる気がするんだ。赤ん坊の頃からずっとあんな感じで、冷めてて、ものすごく頭が良い。そういうところは本当に尊敬してるし、僕も彼みたいになりたいと思ってる。でも、そうなるためには彼のことをもっと知らなきゃいけないんだ。どうして一度も笑わないのか、あの頭の中で何を考えてるのか……」
ケンゾウ:「理解はできるが……まあ、大事なのはお前らが友達だってことだろ?」
サムは返答までに数秒の溜めを作り、小さく自分自身に呟いた。
サム:「うん……それが一番大切なことだよね」
ほどなくして、サムとケンゾウは首にタオルを掛け、濡れた髪から水滴を滴らせながらそれぞれのブースから出てきた。
サム:「うわぁ、さっぱりした! 生まれ変わった気分だよ」
ケンゾウ:「ああ、道中の旅のストレスがすっかり吹き飛んだな」
◆
一方その頃――。
リョウはユーフラテスの石畳の通りを、緩やかな足取りで歩いていた。朝の澄んだ光の下で、都市の豊かな建築美が一層の輝きを放っていた。赤瓦の屋根と磨き上げられた木枠の窓を持つ石灰岩の建物が水路に沿って整然と並んでいる。アクアダクト(水路橋)を流れる水のせせらぎが穏やかな空間を作り出していたが、リョウの瞳はどこまでも冷ややかで遠い場所を見つめていた。剣もいつもの装備も身につけていない。完全に無武装で、ごく普通の通行人になりすましていた。
彼は陽の光が遮られた、暗く狭い裏路地へと足を踏み入れた。路地の中央、周囲の建物が完全に影を落とす場所まで進むと、ピタリと足を止めた。
リョウ:「パンドラ……」
彼の足元の影が瞬時に濃さを増した。床から重く濃厚な黒煙が湧き立ち、その渦の中からパンドラが姿を現した。
パンドラ:「お呼びでしょうか、リョウ様」
リョウ:「パンドラ、俺の分身を作れるか?」
パンドラは困惑を隠せない様子で、わずかに眉をひそめた。
パンドラ:「不可能なわけではございません……ただ、問題は……」
リョウ:「幻影はいらない。実体のある肉体を持った分身だ」
パンドラ:「それでしたら不可能です、リョウ様。私に作れるのは幻影までです。実体を持つ分身を作り出せるのは、我々『大公』が自分自身の複製を作る時だけなのです」
リョウは視線を落とし、顎に手を当ててクルリと半回転した。この制約自体はすでに熟知していたが、何らかの抜け道がないかを模索し、沈黙の中で思考を巡らせた。
リョウ:「分かっている。だが今の俺の状況では、俺単独でも作れない。俺の血は本来のものではないし、力も衰退している。無理に作れば、分身に全魔力の半分を吸い尽くされる……だが、他に手がない」
リョウは再び正面を向き直すと、右の手のひらを突き出した。
瞬時に、彼の掌から大量の血が勢いよく噴き出した。生命の源である赤い液体が空間に浮遊し、うねりを上げながらリョウと寸分違わぬ人型へと形を変えていく。しかし、生物学的な代償はあまりにも即効性があった。リョウの顔からは一瞬で血の気が引き、脚から力が抜けて、濡れた石畳の上に片膝をついた。猛烈な息切れを起こしながら地に着いた手で体を支える。
未完成のまま形作られかけた血の不完全な形代は、脆いガラスのようにひび割れ、空気中で砕け散った。それは赤い気体となってリョウの元へと漂い戻り、彼の皮膚へと再吸収されていった。
パンドラが焦燥感を露わにして駆け寄った。
パンドラ:「大丈夫ですか、リョウ様!?」
リョウは口元を拭い、荒い呼吸のまま低く掠れた声で答えた。
リョウ:「……これが問題なんだ。今の俺は人間の肉体だ。自分の傷を癒やすことはできても、死なずに自分の血と魔力を融合させて分身を作ることは不可能だ。人間の体はこの量の血を失えば死ぬ」
パンドラはリョウの手のひらを見つめ、いくつかの選択肢を頭の中で吟味し始めた。実体クローンを生成するための条件は理解していたが、解決策を見出すまでに三秒ほどの沈黙を要した。やがて、彼女は提案を口にした。
パンドラ:「……では、残りの血液を私に補充させてはいかがでしょうか? 私の血を使えば、リョウ様が命を落とすことなく構造を実体化・固定できますわ」
リョウはゆっくりと立ち上がり、冷徹な体勢を取り戻した。
リョウ:「それが可能なら、頼む」
リョウは再び正面へ手を差し出した。ごくわずかな彼の血液が溢れ出し、遺伝子情報の完璧な金型として空中に留まる。その隣で、パンドラも自身の掌をかざした。彼女の手元から濃密な暗赤色の血液が濁流となって溢れ出し、リョウの血の雛形を包み込んでいった。リョウとは対照的に、パンドラには疲労も疲弊の色の微塵も見られなかった。
徐々に血液の塊が凝縮し、精密に実体化していく。皮膚、髪、細かな顔立ち、そしてリョウが着ている服の質感に至るまでが数秒で完璧に構築され、眼前にリョウと完全に同一の、泰然とした分身が立ち現れた。
◆
【ナレーション】
『大公』は実体を持つ分身を生成する能力を有するが、その生物学には絶対的な法則が存在する。それは「自身の肉体しか複製できない」という点である。自らの本質だけを用いて他者の姿をした固体の分身を作ることは不可能だ。
しかし、大公の血液は単なる生物学的な液体ではない。彼らの保有する魔力は直接「血液」へと変換・生成が可能であり、その魔力保有量が絶大であるほど、生み出せる血液は実質的に無限となる。高密度に圧縮・凝縮された血液は、液体でありながら鋼鉄を上回る強度を持つ刃や盾へと姿を変え、銃砲の化学的質量攻撃ですら防ぎ切る絶対の防御壁となり得る。
だが、この複製プロセスには絶対的な代償が伴う。それが――『力等分の法則』である。
本体と同等のスケール、身長、体積を持つ独立した分身を生成した場合、その個体は自動的に生成者の全魔力の『50%』を強制的に吸い上げて分奪する。この割合は不変であり、仮に一滴の血ほどの極小クローンを作ったとしても能力は半分に分散される。さらに、万が一分身の質量が本体をわずか一センチの身長、あるいは一キロの体重でも上回った場合、奪われる魔力の割合は50%を超えて上昇していくのである。
◆
血液が完全に輪郭を成すと、複製体は一瞬静止したのち、完全にその場に定着した。リョウは分身の周囲を一周し、頭からつま先まで精査して模倣が完璧であるかを確認した。
リョウ:「悪くない」
パンドラも満足そうに微かな笑みを浮かべた。
パンドラ:「完璧な仕上がりですわ、リョウ様」
その瞬間、分身がゆっくりと目を開けた。路地に差し込む薄光を浴びて、彼の両眼のオッドアイ――氷のような澄んだ右の青、深遠な血の如き左の赤――が鮮明に浮かび上がった。リョウが自身の複製を直視すると、彼の唇の端にわずかな不敵な笑みが浮かんだ。
リョウ:「やあ、俺。気分はどうだ?」
分身は指を握り締め、手のひらを開閉させて筋肉の緊張度合いを確かめると、感情の削ぎ落とされた平坦な視線をリョウへと向けた。
分身:「最高だ。最後に話してから、随分と時間が経った気がするな」
声のトーン、佇まい、そして纏う氷点下の空気感まで完全に同一。何一つとして破綻はなかった。
【ナレーション】
この手法によって作られた複製体は、意思を持たない人形やうつろな投影などではない。分身は独立した自律意識を獲得するが、その精神構造および人格は生成者の完璧かつ寸分の狂いもないコピーである。どのような状況下においても、本体と全く同じ戦術的判断を下し、全く同じ思考を辿る。
さらに、彼らの存在には特殊な連続性が存在する。分身は自身が「クローン」であることを明確に自覚しているのだ。複製体が破壊されるか解除されるたびに、その記憶と記憶の流体は本体のコアへと還元される。したがって、再び生成された際、記憶のない別個体として生まれるのではなく、「以前呼び出されていた記憶」を保持したまま連続して覚醒する。分身にとって解除とは死ではなく、次の召喚までの単なる一時停止に過ぎないのだ。
リョウは分身に向かって言葉を続けた。
リョウ:「まあ、これまではお前を作る必要がなかったからな。だが今は違う。計画や俺の考えていることを説明する必要はない。分かっているな?」
分身は姿勢を正し、淡々と応じた。
分身:「もちろんだ。視界と意識が共有されている以上、俺が得た情報はすべてお前にも伝わる。これでお前が表舞台に姿を現す必要はなくなる」
リョウ:「その通りだ……だがその前に、一つ確認させておけ」
予告もなく、リョウは右手の手刀を突出し、分身の左胸を容赦なく貫いた。研ぎ澄まされた拳が深々と肉体を穿つ。分身は呻き声を漏らし、口元から溢れた濃密な血が唇を赤く染めた。
リョウは瞬き一つせず、傷口に指を埋め込んだまま平然と問いかけた。
リョウ:「痛みの感覚はどうだ?」
分身は動揺の色を一切見せず、手の甲で口元の血を拭った。胸の傷口を見下ろし、それからリョウを直視する。
分身:「全く同一だ。神経伝達のラグもない」
リョウの手が胸から引き抜かれた。パンドラの血液の特性により、分身の傷口は緩やかに塞がり始めた。リョウはハンカチで指の血を拭った。
リョウ:「素晴らしい。本当に完璧だな」
リョウの手が完全に離れると、彼の掌に付着していた血液は赤い煙となって蒸発していった。分身の胸の傷は滑らかに修復され、肉体は再生し、引き裂かれた服の繊維すら元通りに織り直されて傷跡ひとつ残らなかった。
リョウ:「よし……じゃあな、また後で」
分身:「ああ、またな」
言葉を交わすこともなく、二人は反対方向へと歩き出した。分身は路地の出口へと向かい、街に出てグループの待つ孤児院での役割を果たすために動き出した。一方のリョウ本 me は路地の奥深くへと進み、暗がりの中へと姿を消していった。パンドラはその背後に忠実な影として静かに従った。
本物のリョウは暗い路地を抜け、人々で行き交い始めた街の石畳へと躍り出た。彼の計画は、決してあの孤児院へ戻ることではなかったのだから。




